mrmaxの城めぐり 富山県 2 (富山城)


富山城は戦国時代の創建で、神保長職や佐々成政の居城になり、 加賀藩二代藩主、前田利長の隠居城になった。 
富山藩の誕生の際、改築され明治維新まで、富山藩前田氏の居城になった。 
平成二十九年四月、続日本100名城の第134番に選定された。 


かうんたぁ。




富山城

平成二十九年(2017)九月二十三日、高岡城を訪問後、富山城を訪れた。
JR富山駅で路面電車に乗り、大手町駅で降りると堀と城が見えてきた。 

 「 富山は北陸街道と飛騨街道が交わる越中国の中央の要衝にあり、 富山城は天文十二年(1543)頃、神保長職により築かれたのが最初で、その後、 越後の上杉謙信に備え配置された佐々成政により大規模な改修が行われたが、 天正十三年(1585)八月、敵対した豊臣秀吉の十万の兵に城を包囲され降伏し、 富山城は破却された。 
越中一国が前田氏に与えられると、前田利長が大改修を行い、金沢城から移り住み、 隠居城とした。  慶長十四年(1609)の火災で建物の主要部が焼失したため、 前田利長は高岡城を築いて移り、 富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。 」 

寛永十六年(1639)、加賀藩第三代藩主前田利常は、 次男利次に十万石を与えて分家させ、富山藩を誕生させた。 
富山藩は越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領域としたが、 加賀藩が良地を手渡さなかったので、 藩の財政は悪く、新田の開発や製薬や鉄鋼などの産業振興に務めたといわれる。 

 「 富山藩初代藩主前田利次は他のところに居城の計画を進めたが、 財政上の理由から断念し、加賀藩から借りていた富山城を譲り受けて居城とし、 万治四年(1661)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整えた。 」 

富山城
富山城跡の現在の姿




下記の富山城新旧図を見ると分かるが、 現在富山県庁や市役所があるあたりに当時は神通川が流れていた。 

 「 神通川の南岸に築かれたのが富山城で、 神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見えることから、 浮城の別名を持つ。  縄張りは、ほぼ方形の本丸の南面に二の丸、東出丸と西之丸の出丸を置き、 本丸をそれら三つの郭で囲み、 さらにそれを南の三の丸で凹状に囲む形のものだった。 
本丸搦手を守る東出丸はほかの郭のように三の丸に内包されておらず独立していて、 また、神通川の土手沿いに直接城外に通じているなど、 反撃の基点となる大型の馬出しの性格を持つ郭であった反面、 防御面では弱点であることから、更に、その東側に三の丸東北端に接する形で、 小郭が設けられていて、 この郭には幕末の嘉永八年(1849)には千歳御殿が建てられた。 」  

大手町交叉点や国際会館周囲が二の丸跡で、その南部が三の丸である。 

 「 平成十八年からの富山城石垣改修工事に合わせて、 石垣の調査が行われたが、 その際、富山市民プラザ脇で三の丸大手門の石垣が見つかり、 古絵図上に示されていた富山城の正門である大手門の位置や遺構の存在が初めて確認され、 本丸石垣の特徴との類似から、富山藩初期の築造と推定されたという。 」 

大手町交叉点から北が城址公園で、そこには「富山城の石垣」の説明板がある。 

 「 野面積みは自然石を石垣とした積み方で、 富山城は河川の玉石の丸い面を残しているのが特徴である。  石と石との隙間は小石や割石などで詰められていて、 排水や積石の安定をはかっている。  鉄門(くろがねもん)の内枡形では方形に加工した石材を水平に積む布積みの部分が見られ、 巨石の雄大さを演出している。  石垣の内部は外側から積石、栗石、土塁の三重構造となっている。  鉄門内桝形の鏡石は慶長期の整備の際に据えられ、寛文期の改修の際、 現状のような配置したと考えられる。 」  

新旧図
     野面積み      鉄門内枡形
富山城新旧図
野面積み石垣
鉄門内枡形鏡石



富山城の「石垣」の説明板もあった。 

 「 富山城の石垣は富山城を隠居城とした加賀藩二代藩主、 前田利長が慶長十年(1615)以降整備した石垣が始まりとされる。  その後、江戸時代前期の寛文元年(1661)富山藩初代藩主、前田利次が改修し、 現在見られる石垣となった。  富山城は土塁主体の城郭であり、石垣は城内中枢部を守る鉄門、搦手門、 二階櫓門の三ヶ所だけに築かれた。  現存する石垣は県内の早見川や常願寺川産の玉石などを割って使用(布積み)したり、 そのままの形で野面積みの技法で積まれている。  鉄門石垣の通路面以外は明治初め頃大きく積み直された。 」 

富山城は主要な門の周囲のみが石垣で、他の大部分は土塁の城だったのだが、 訪れた堀を囲む全てが石垣になっていた。  城の周囲を巡っていた水堀は本丸と西の丸の南側部分を除き昭和三十七年(1962)までに順次埋め立てられたが、 その際に現在のようになり、 また、模擬天守東側に石垣が新造されたことで、 往時の姿とはかなり異なったものになっている。
枡形をくぐると広い芝生広場に出る。 

 「 江戸時代後期の富山城の敷地は東西約六百八十メートル、 南北約六百十メートルだったようだが、 現在残っているのは 本丸と西の丸(その間の水堀は埋め立てられ繋がっている)部分とそれらの南面の水堀、 そして二の丸の一部(東西約二百九十五メートル、南北約二百四十メートル)のみで、面積で六分の一である。 
安政五年(1858)の飛越地震により、 本丸や二の丸、三の丸が破損したほか石垣が崩れるなど大きな被害を出した。 」 

明治四年(1871)の廃藩置県により富山城は廃城となり、 本丸御殿は県庁舎、 二の丸二階櫓御門は小学校に使用されたが、 その他の建物は解体された。  本丸御殿も二の丸二階櫓御門もその後壊されたので、当時の建物は残っていない。 

案内板
     新造された石垣      芝生広場
石垣の案内板
新造された石垣
芝生広場



鉄門跡の枡形石垣の右側に建っているのは、 富山城と称する富山市立郷土博物館である。 

 「 富山市郷土博物館では富山城の歴史の紹介、 四階の天守展望台からは江戸時代の富山城の範囲を実感することができる。   また、前田利長が使用したといわれる、高さが百四十センチの兜を展示されている。 」

富山藩初代藩主、前田利次は万治四年(1661)の修築計画で、 天守台を石垣で築いた天守、櫓三基、櫓門三門を備えることで幕府の許可を得たが、 本丸南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないので、 天守は築かれなかったようである。  また、櫓三基も何基が建てられ、またどのようなものであったかなど全く不明であるという。 
本丸大手門、本丸搦手門と二の丸門が建てられる予定だったが、 実際に建てられたのは二の丸二階櫓御門だけである。

「 二階櫓御門には宗藩の金沢城同様の唐破風を設けた海鼠壁の城壁が巡らされていて、 石高相応に威儀をただした門だったようである。  建築できなかったのは前述したように石高に対し、 富山藩の財政が逼迫していたからである。 
天守のなかった富山城跡に鉄筋コンクリート構造による模擬天守が建てられたのは、 昭和二十九年(1954)に開催された富山産業大博覧会を記念したもので、 当時全国的な城建設ブームがあった。 」 

本丸だった城址公園にその他にあるものは、前田正甫像とその右側の和風庭園と佐藤記念美術館である。 
本丸右端には石垣が組まれ、千歳御殿の門が建っている。 

「 富山城の縄張りは藩政期を通して大きな変化は見られなかったが、 嘉永二年(1849)、十代藩主、前田利保の隠居所として千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建てられた。
その形状は周囲に水濠を設けた独立郭だった。  」

千歳御殿の門は明治時代に売却され、豪農の赤祖父家に移築されたが、 平成十九年(2007)に現在地に移築、建設された。  

富山城址の見学を終え帰京する前に、森記念秋水美術館(076-425-5700)に立ち寄った。 
開館一周年記念特別展として日本刀物語という重要美術品の刀を六十振り展示しているとして、 刀剣ギャルの娘が立ち寄りたいとの希望にかなえたものである。 
展示は明日で終了というので、賑わっていた。 娘の名古屋の友人は四時間以上をかけて訪れ、 娘との偶然の再会に喜びあっていた。 

市立郷土博物館
     千歳御殿の門      森記念秋水美術館
市立郷土博物館
千歳御殿の門
森記念秋水美術館



富山城へはJR北陸新幹線・北陸本線富山駅から徒歩約10分 
富山駅から富山鉄道市内軌道線で丸の内下車、すぐ 
富山城のスタンプは富山市郷土博物館(9時〜17時、月休)にて 




 戻る(城跡めぐり表紙)                              (MR.MAXの世界)へ