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蜂須賀家政によって築城された徳島城の建築の際、 豊臣秀吉より、伊予の小早川秀秋や土佐の長曾我部元親、 比叡山の僧侶に協力の命令が下された。
「 徳島城は標高六十一メートルの城山と北を吉野川から分流する助任川、
南を寺島川(現在のJR徳島駅と牟岐線の線路)に囲まれ、
東には堀(堀川)を設けた、自然の地形を巧く利用した縄張りの城だった。
徳島城の構造は山上の本丸、東二の丸、西二の丸、
西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、
西麓には隠居藩主の住んだ西の丸からなる平山城である。 」
堀に架かるのは下乗橋で、下乗橋(小見付橋)の説明板がある。
「 城内の堀に架けられた木製の太鼓橋で、 殿様の住む御殿の正面出入口にあたる。 下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗物から降りて、 歩いて渡ったことから由来している。 明治二年(1869)、花崗岩製になり、 さらに明治四十一年(1905)に現在のように水平な橋に改造された。 」
江戸時代にはこの橋を渡ると高麗門が建ち、
黒御門(多聞櫓)で囲まれた枡形虎口で、よって厳重に守られていた。
黒門は鷲の門が出来るまでは徳島城の大手門だったという。
「 門を支える石垣は打込みはぎで、立派なものだったことが、
残っている石垣から感じることができる。
多聞櫓から続く石垣の右端には前述した月見櫓が建ち、
多聞櫓の左側には太鼓櫓が江戸時代には建っていた。
太鼓櫓は三重櫓で、最上部に廻り縁と高欄がある天守風の外観をしていたという。 」
石段を上ると、時計台があり、その左の長方形が太鼓櫓跡である。
その先の広いところが本丸御殿がおかれた御屋敷と称されたところである。
「 御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちと引見する広間(百二十一・五畳)や大書院(百十・五畳)のほか、 重臣たちの詰めた部屋のあった表と側室や子供とその身の回りの世話した女中たちが住む奥に分れていた。 それらの建物は、明治八年(1875)に解体され、現在は表御殿の庭園を残すのみで、 県立徳島城博物館は裏御殿跡に建っている。 」
博物館の右手にある表御殿庭園に入る。
「 表御殿庭園は表御殿の書院と藩主が普段暮らす中奥に面して築かれたものである。
庭園作りを手がけたと伝えられる上田宗箇は、
織豊時代から江戸初期にかけての武将で、
利休七哲に数えられる茶人、作庭の名手など、
様々な顔を持つ当時第一級の文化人だった。
庭園は水を使わず自然風景を表現する枯山水庭と池や築山を備えた泉水庭が組み合わされたもので、
見方によって異なる趣を楽しめる工夫が凝らされている。
庭園には阿波特産の青石(緑泥片岩)が数多く使用され、
中でも枯山水に悠然と横たわる、
初代藩主、蜂須賀至鎮が踏み割ったという伝説が残る巨大な石橋は、
圧倒的な存在感を誇っている。
また、庭園最奥部にある観音山を源流とする渓谷とそれが注き込む心字池は、
無数の青石を用いた石組によって、
鮮やかに彩られた力強い壮麗さをたたえるものである。
青石という地方的な特色を見事に取り入れた本庭園は、
桃山様式を伝える数多くの庭園の中でも、
傑出したものといえるのではないか。 」
御殿部分の後方は城山である。
「 城山は吉野川がつくった徳島平野の沖積地に孤立する小さい分離丘陵で、 斜面は急で傾度の平均は三十五・九度である。 」
どりゃぶりの雨の中、急な石段を上る。
石段の右側に「東二の丸跡」の石柱があり、
空地の中央に「天守跡」の石柱が建っていた。
「 創建当時の天守は元和年間(1615〜162)に取り壊されたといわれる。 、
その後、城山の中腹のこの場所(東二の丸)に天守の代用として、
御三階櫓が建てられた。
御三階櫓は三重三階建て、櫓台はなく初重平面形は正方形である。
一階は七間四方、二階は五間四方、三階は三間四方と、
一定の逓減率がある層塔型だが、
外観は望楼型という、復古型などと呼ばれる形式のものである。
外観意匠は、全面下見板張で、破風は三重目の入母屋破風のほか、
一重目に向唐破風と大入母屋破風が付けられていた。 」
なぜ、二の丸に建てられたのかは定かではなく、
景観バランスを整えるためであるとか、
城の防備上の都合によるものなどが考えられるという。
この建物は明治六年(1873)の廃城令により明治八年(1875)に撤去されたので、
今はない。
野面積みの石垣は、阿波特産の青みかかった石(緑泥片岩)や赤みかかった石(紅簾片岩)で積まれていた。
本丸への石段は後世に整備されたものといわれる。
その石段は本丸に降った雨が滝のような流れ、靴の中にも入ってくるので、
これには参った。 やっと本丸に到着。
「 本丸は城山の頂上に置かれた曲輪で山城部分では最も面積が広く、築城当時は天守が置かれた重要な曲輪だった。 中央に御座敷や御城定番が詰めた御留守番所があり、 弓櫓、左右の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が築かれていた。 藩主は山麓の御殿に住んだので、城山に登ることは稀だったが、 御座敷には藩主専用の部屋があり、台所も設けられていた。 又、本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際、打ち鳴らされ、 町人たちの危急を救いました。 本丸の出入口には東西の門が使われたが、 北口には御座敷の建物で隠された脱出口(埋め門)があり、 大名の非常時に対する備えがうかがえる。 」
本丸の西側から下っていくと、「西二の丸跡」の石柱が建っていた。
西二の丸には鉄砲櫓や帳(とばり)櫓が建てられていたという。
西側の石段を降りるところに「帳櫓跡」の石柱があり、正方形の空地に櫓が建っていたと思われる。
帳櫓は約十メートルの石垣の上に建てられていた。
石段を降りると、「材木櫓跡」の石柱があるが、ここは西三の丸に建つ櫓跡である。
その先の右側に「西三の丸跡」の石柱があり、その奥は水道配水池が設置されていて、
中には入れなかった。 なお、西三の丸には材木櫓の他、平櫓があったという。
その先、右に曲がる石垣の上には西三の丸門があったと思われる。
更に下ったところは西坂口で、山城と御屋敷とを分ける地点にあり、
その南には江戸時代には寺西川が流れ、城を守っていた。
現在はJRの線路が続いているところである。
城山の西方には徳島市民庭球場西の丸コートや内町小学校があるが、
江戸時代には西の丸、
さらに西方の武道館、市立体育館にかけて御花畠(おはなばたけ)があった。
「 西の丸は、もともとは西からの防衛拠点だったが、 太平の世になるとその意義を失い、 藩祖家政が隠居してからは隠居した元藩主の屋敷となった。 また、御花畠は瓢箪島(ひょうたんじま)と呼ばれた、助任川、寺島川、瓢箪堀に三方を囲まれた半島で、 御殿と庭園があり、御殿は歴代藩主の子供の養育の場として使われたが、 庭園は幕末に取り壊され練兵場になったといわれる。 」
西の丸も御花畑も今は公園の一部と市街化して建物が建ち、
城の面影はほとんどなかった。
徳島城へはJR徳島線・牟岐線徳島駅から徒歩約10分
日本100名城の徳島城のスタンプは市立徳島博物館にて