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勝瑞は旧吉野川(四国三郎)の南岸の自然堤防上に位置し、
東側には今切川、南側には湿地帯に接している。
現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、
当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形だったようである。
「 海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、
紀伊水道を隔てて京畿にも便利の地だったので、
勝瑞城は平地の要塞というより、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、
城の構えは広大だった。
勝瑞城の周囲は幅十四メートルの水濠が巡り、土塁で囲まれていた。 」
土塁の説明プレートがあり、今も一部残るとあるが、 見た感じではどれが土塁か分らない。
「 土塁の現在はこの部分だけが確認できるが、 当時は周囲に巡っていたことが発掘調査で確認できた。 土塁は濠を掘った際の土を盛り上げて突き固めることで構築している。 平成九年に土塁から濠にかけて、発掘調査を実施。 当時土塁は最底部巾十二メートル、高さ二・五メートル、 濠は十四メートルの大規模なものだった。 その濠からは多くの瓦が出土した。 」
見性寺のこの城跡は細川氏の守護所、三好氏の居館跡と思われていたが、
近年に行われた発掘調査により、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、
最後の砦として築かれた可能性が高いことが分かったという。
広場の中央部に「勝瑞義家碑」と書かれた石碑が屋根のある下にある。
「 四国正学といわれた徳島藩儒官那波魯堂の撰、 戦国大名三好家の盛衰と戦没者の慰霊を記した歴史的な記録で、 すぐれた筆蹟は注目される。 」
勝瑞は中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、
細川氏九代、三好氏三代の約二百四十年の根拠地として歴史の舞台となったが、
天正十三年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、
城下の寺院の多くは徳島城下に移転させられて、町は衰退した。
見性寺は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地に移転してきたという。
境内には三好氏の之長、元長、義賢、長治らの墓が並んで祀られていた。
当初、見性寺一帯が細川氏の守護所、三好氏の居館跡(勝瑞城)としていたが、
地名の再検討、伝承の検討、明治時代初頭の地籍図などの調査結果から、
勝瑞城跡の南約百五十メートルの工場の場所に、
守護館や三好氏の居館があったと推定された。
見性寺を出ると、道の反対側のコンビニの先の道には「←勝瑞城館跡」の標示がある。 、
進んでいくと、右側に工事現場のようなむき出しになった土地の一角に「史跡勝瑞城館跡」の石柱が建っていた。
「 平成九年から十二年に確認調査により、
幅約十二メートルの濠に囲まれた、東西約百二十メートル、
南北約百五十メートルの方形区画が、その成立、廃絶時期や規模、構造、
出土遺物の質、量から、
十六世紀後半に阿波支配の実権を握った三好義賢の居館跡ではないかという、
結論になり、
町教委と県教委は方形区画を勝瑞館跡とし、
勝瑞城跡とあわせて、勝瑞城館跡と呼ぶことにした。
平成十二年から十三年度の調査で、館跡の東側から大規模な礎石建物跡がみつかり、
平成十三年、勝瑞城跡と勝瑞館跡は国史跡に指定された。
平成十六年、十七年度の現地調査により、
館内を分断して西へのびる幅十一メートルの東西の濠、
発掘庭園としては国内最大級の池泉庭園や枯山水庭園が発掘され、
永禄七年と記された卒塔婆なども出土した。 」
勝瑞城館は大規模な濠に区画された複数の郭からなる珍しい複郭式の館だったのだろうと推定されている。
訪問当日はどしゃぶりの雨で、発掘現場は土が流れ出るような状態で、
歩いて見て回れなかった。
右手中央に現地事務所と展示館があったので、その展示で満足することにした。
展示場には発掘の経緯や出土された陶器などが展示されていた。
出土された陶器は全国各地からのもので、文化レベルが高かったことが分かった。
勝瑞城へはJR高徳線勝瑞駅から徒歩約10分
勝瑞城のスタンプは勝瑞発掘現場事務所にて
鳴 門
四国の城の旅の最終日、平成三十年(2018)三月九日、渦潮で有名な鳴門を訪れた。
鳴門の渦潮は瀬戸内海と紀伊水道の干満差により、激しい潮流が発生することによりできる自然現象で、
最大の時は二十メートルになる時もあるという。
以前妻と淡路島側から訪れた時は、大きな渦潮を見られたが、
小船だったので、船酔いに悩まされた。
亡くなった妻が娘に連れていくと言っていたので、
四国の城を全て見終わった最後に訪れることにしたが、今回は大きな船にした。
大きな渦を期待したが、当日は小潮のため、残念ながら渦はほとんど出なかった。
その後、飛行機の時間まで大塚美術館で過ごした。
大塚美術館は大塚製薬が運営する美術館で入城料は高かった。
世界二十五ヶ国、百九十余の美術館が所蔵する有名な名画千点余を原画と同じ大きさに複製して陶板画が展示している。
コピーなのでくだらんといえばそれまでだが、現地の美術館でもこれだけ自由に見たり、写真を撮ったりできないので、
これはこれで十分に楽しむことができたので、満足した。