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松前町役場手前の駐車場に停め、北に歩くと役場前に「史跡松前奉行所跡」の石碑がある。
「 松前奉行所は、諸外国からの蝦夷地侵略を恐れた幕府が文化四年(1807)に函館奉行所を移動して開設したものである。
しかし、蝦夷地西部の脅威がなくなったとして、松前藩に領地が返されて、文政五年(1822)に廃止された。 」
その先の交叉点を左折すると大松前川が流れていて、橋を渡ると馬坂である。
馬坂には「国指定史跡 福山城」 の説明板がある。
「 福山城は松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から幕府が特旨をもって、
嘉永二年(1849)、松前家十七世(松前藩十三代藩主) 崇広に築城を命じ、
高崎藩の兵学者、市川一学の設計により、安政元年(1854)完成した。
福山(松前)城の面積は約七万七千八百平方メートル、
城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、
三層櫓一、二層櫓三、城門十六、砲台七からなっている。 構造形式は平城である。
我が国最北に位置し、最後の遺構として史跡に指定されている。 」
江戸時代、馬坂の正面奥には東郭土居と隅櫓があったようであるが、今はない。
三叉路を左折して進むと右側は復元された石垣の土塁で、正面に柵が見えてきた。
江戸時代、この柵は角柵といい、手前には外掘があり、
木橋が架かっていて、角柵の中央に馬坂門があったようである。
「番所」の説明板があった。
「 この番所は搦手枡形へ通じる外堀に架かる木橋脇にあり、
木橋の警備のために置かれている。
三の丸には同様な番所がもう一ヶ所あり、追手枡形へ通じる木橋の脇にもある。
番所の規模は柱芯間で桁行十八・五尺(約5.6m)、梁間十五尺(約4.5m)と考えられる。
番所の構造は屋根は瓦葺きで、下見板張りの壁だったと考えられる。 」
番所があったところは現在城のジオラマがある場所である。
「 嘉永二年(1849)、江戸幕府より、蝦夷地近海に出没する外国船の警備強化を図るため、
津軽海峡の築城を命じられた松前藩十三代藩主崇広は、翌嘉永三年(1850)、
当時の三大兵学者の一人である高崎藩の市川一学に設計させた。
一学は海防上から福山は無理であり、箱館後方の桔梗野にある庄司山付近に築城するよう上申したが、
藩士たちは移転を好まず福山館を拡大して築城することになった。
五年の歳月を経て、安政元年(1854)、面積約七万七千八百平方メートル、
本丸、二の丸、三の丸に分れ、三層櫓一、二層櫓三、城門十六、砲台七からなる松前福山城が完成した。
この城は日本最後の日本式城郭になった。 」
ジロラマ広場は三の丸跡である。
「 江戸時代の三の丸には鉄砲置場の他、砲台の五番台場、六番台場、七番台場があり、 三の丸の北側は外堀が巡らされ、正面の橋を渡ると三本松土居で、 その左手は土塁で囲まれた二の丸で、左端に二重太鼓櫓が建っていたようである。 」
橋を渡り、三本松土居の先にある復元された搦手二の門をくぐる。
くぐると江戸時代には枡形になっていて、右側には搦手門と楼門を支える櫓台があった。
今は植栽が植えられていて、当時の姿を想像することは難しい。
松前城資料館の受付があり、ここで100名城のスタンプを押した。
入城料を支払い、コンクリート製の建物に入ると、
アイヌ、松前藩に関する展示があった。
資料館を出ると、塀越しに広場と神社が見えたが、広場が本丸跡で、現在は松前公園になっている。
奥に見える神社は北の丸跡に建立された松前神社である。
「 松前氏は寺町の一角に松世祠を設けていたが、
明治十二年、地元から松前藩の祖である武田信広を祭神とする松前神社の創建の願いが開拓使に出され、
旧松前城北の丸を境内地として明治十四年に創建された。
現在の社殿は大正十二年に総ヒノキ造り神明造りで再建されたものである。 」
その先にあるのは復元された本丸御門で、門をくぐると二の丸跡である。
二の丸の左端に「旧福山城本丸表御殿玄関」の説明板があり、表御殿玄関があった。
松前城で唯一残っている建物である。
「 慶長十一年(1606)に完成した城は当時これを福山館と称していた。
しかし、寛永十四年(1637)城中より出火し、多くの建物を焼失、
同十六年これを修築した。
その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
明治六年(1873)九月、城の取り壊しが決まり、
明治八年(1875)、北海道開拓使の命令により、福山城は三層天守、本丸御門、
本丸表御殿を除いた建物、石垣が取り壊され、濠を埋めて城郭の形態が失われたが、
天守と本丸御門、本丸表御殿は残った。
表御殿は松城小学校として充用され、
明治三十三年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校の正面玄関として、
昭和五十七年まで利用されてきた。 」
本丸御門と復元天守が収まる位置まで移動して写真を撮った。
「 明治八年(1875)の松前城の取り壊しの際、
取り壊されずにすんだ三層の天守と本丸御門は昭和十六年(1941)に国宝に指定された。
昭和二十四年(1949)、三層天守は町役場から出火した飛び火により焼失してしまった。
現在の建物はは昭和三十六年(1961)にコンクリート製で再建されたものである。 」
明治元年(1868)、旧幕府軍は榎本武揚を首領として蝦夷地に上陸し、五稜郭を占拠した。
その後、新撰組副長土方歳三を長とする主力が福山城へ向けて進撃を開始した。
その間、旧幕府軍木造蒸気船蟠龍及び回天が城中を砲撃して、
三重櫓(天守)及び石垣等に多く命中、今でも正面石垣には三ヶ所の弾痕が残る。
長尾山樵の歌碑がある先には隅櫓があった。
「 長尾山樵(秋水)は江戸時代後期の漢詩人。 越後村上藩士の子として安永八年生まれて水戸で学ぶ。 文政二年に蝦夷地松前にわたり、以後諸国をめぐって北方防備の急を説いた。 晩年は村上で藩士の子弟に漢詩を教え、 文久三年に八十五歳の天寿を全うしたという人物である。 」
三の丸まで戻り、右側の門の下には「天神坂門跡」の標石があった。
長尾山樵の歌碑 |
かつて城内へ通じる坂は馬出口、天神坂、馬坂、湯殿沢口、
新坂の五ヶ所だったが、天神坂はそのうちの一つ。
細く風情ある石段が続き、三の丸跡への入口に天神坂門が建つ。
石段の途中に「天神坂夫婦桜」の標示があり、
夫は一重の染井吉野、妻は八重の南殿とあった。
「 樹齢八十年のサクラで、「松前三大桜」のひとつで、 ソメイヨシノとサトザクラの南殿が接木によって一株から育っている。 長年、支えあい生きてきた夫婦に見えることから、 夫婦桜と命名されたようである。 」
天神坂を下りると松前港線(城下通り)で、風情ある家並がある。
「手打そば おぐら」に入り、松前梅花巻をいただいた。
手打ち蕎麦の上に磯の香りいっぱいの松前寒海苔を香ばしく焼き上げたものが乗っていて、梅干と共に食べる。
梅干はクエンサンが豊富で疲労回復に効果があり、海苔と梅干が蕎麦とマッチしていて、うまかった。
松前城へはJR江差線木古内駅から函館バス「松前行き」で約1時間30分、「松城」で下車、徒歩約10分
函館駅から松前までバスで3時間
日本100名城の松前城のスタンプは松前城資料館の受付に置かれている
福島町
函館に向ったの帰路、福島町に「横綱の里 ふくしま」の表示があり、
相撲の櫓が建っている。
少し高いところにある建物は横綱千代の山千代の富士記念館である。
同記念館では九重部屋の夏合宿が開催され、
相撲ファンには見逃せないポイントになっている。
駐車場脇にある道の駅「横綱の里ふくしま」は、
生産量日本一を誇るスルメイカを販売する物産センターも併設している。
その先の右側にあるのは青函トンネル記念館である。
館内では本坑、先進坑、作業坑の三つのトンネルが掘られたことなど、
青函トンネルの歴史が展示されていた。
屋外にはくろしおU号が展示され、
案内板には 「 海底トンネルの地質調査に使用された豆潜水艦で、
二百メートルの海底まで潜り、海底の岩石を備え付けのボウリング機で採取し、
貴重なデータが得られた。 」 とあった。
この後、北島三郎の故郷である知内を通り、函館に戻った。