根室半島チャシ群跡の旅(の続き)


日本100名城の第1番に選定されている根室半島チャシ跡群を訪問後、納沙布岬、 川湯温泉へ泊まり、翌日、摩周湖・屈斜路湖・阿寒湖を見て、帯広・幸福駅を訪問して、 羽田に戻り、リムジンバスで帰宅した。 


かうんたぁ。




納沙布岬
納沙布岬は、日本の本土最東端に位置する岬で、日本で一番早く朝日が見られるスポットとして、 有名である。 
オンネモトチャシ跡から車を10分程走らせると、左側に半円形の赤茶の造形物があり、 近くに無線アンテナが立っていた。 
赤茶の造形物は北方領土の返還を願う、四島のかけ橋である。 
その先には返還祈念の願いを込めた、「祈りの火のために」というモニュメントがある。 
また、北方領土の早期返還を願うきぼうの鐘もあった。

四島のかけ橋
     祈りの火のために      鐘
四島のかけ橋
祈りの火のために
きぼうの鐘



その右手にあるのは寛政の蜂起和人殉難墓碑である。 

説明板
「 寛政元年(1789)五月、和人のアイヌ民族に対する脅迫や非道行為によって追い詰められた結果、 国後島と現在の標津町、羅臼町付近のアイヌ民族が、和人七十一人を殺害した。  この出来事は、「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれ、最終的にノツカマップ(根室市牧の内)で、 戦いに関わったアイヌ民族三十七人が、和人によって処刑された。  この墓碑は、殺害された和人七十一人の供養のために、 文化九年(1812)に造られたもので、明治四十五年、納沙布岬に近い珸瑤ぼうの海中で発見されたという。  現地で保存されていたが、昭和四十三年、国後島を臨むこの地に移設された。 」

石碑には漢字で記されていて、「寛政元年五月に、この地方の凶悪なアイヌが集まり、 突然反乱を起した。 偶然居合わせた侍や漁民合計七十一人が殺された。  その姓名の記録は役所にある。 ここに合わせて供養し、この碑を建てる。  文化九年四月建てる。 」 という意味の文字が刻まれているが、 和人の場所請負人がアイヌ人たちを酷使し、越冬期の食糧の確保もままならず、 更に番人らの度重なる横暴に耐えかね、クナシリ島とメナシ地方のアイヌが立ちあがり、 和人七十一人を殺した出来事で、その後、松前藩が鎮圧軍を送り、蜂起の指導者を処刑し、 長老らは松前に連行され、幕府にも報告される大きな事件で、石碑の内容は史実と異なる。 
この碑の対面にある建物は北方館である。 
北方館は、北方領土返還要求運動の発祥の地で、 北方領土問題の発生の状況や歴史経緯を展示資料によって閲覧できる。 
その先の突き出た岬に「返せ北方領土 納沙布岬」の石碑が建っていた。 
また、手前には国後島などへの距離が書かれた足形があった。

寛政の蜂起和人殉難墓碑
     北方館      納沙布岬
寛政の蜂起和人殉難墓碑
北方館
納沙布岬



近くに展望塔があったが、あいにく霧が多く、国後・択捉方面も見えそうにないので、 これで根室の見学は終えた。  
帰りは道道35号をそのまま走り、半島の東側を南下する。 
西側には発電用の風車は僅かであったが、東側は風が多く強いようで、無数の風車が設置されていた。 
少し走った集落に歯舞神社と表示された鳥居があり、丘の上に社殿がある。 
集落の名が歯舞とあり、戦後北方四島から引き揚げてきた人達が多く住んでいるのだろう、 と思った。 
望郷の気持と郷土返還を願って祈る住民の総意に応える神社の神さまは大変だなあ、と思った。 
根室を訪れて思うことは、アイヌと和人との戦いと交流という歴史、そして、 指呼の先に日本の領土であった四島があり、そこに住んでいた住民がこの地に住み、 今も帰りたいという気持で毎日を暮らしている、ということ、である。  小生は根室は観光の町という認識があったが、そうした色彩は町中にはあるが、 納沙布岬に行くと皆無であったのには、驚いた。 
川湯温泉を目指すが、三時間程で、150kmの距離である。  
道道35号、根室市役所から国道44号に入る。 
網走からウトロ温泉までは車が少なく、六十キロのところを八十キロで走る車が多かったが、 根室に入ると釧路ナンバーで、トラックを含め、車が多くなり、 制限速度の10キロオーバーで走る車が大部分であった。 
厚床2丁目交叉点で、釧路に行く車と別れを告げ、国道243号に入る。  別海温泉の先の交叉点で左折すると車も少なくなる。  国道243号をそのまま進み、標茶町に入る。  そのまま進むと、左側から国道391号が合流してくる。 
国道243号をそのまま進むと、摩周湖入口があり、その先で釧網本線の踏切を渡ると、 原野で右折して国道391号に入り、 少し行くと、右手に川湯温泉駅があり、その先の信号交叉点で左折して大鵬通りに入り、 川湯小学校の先で左斜めの三叉路に入ると、 今夜の宿、お宿欣喜湯 別邸忍冬(さいかずら)があった。
この宿は、老舗旅館「忍冬」が、今年4月30日に「お欣喜湯 別邸 忍冬」として、 オープンしたもので、お湯は草津温泉と同じ、強酸性の酸性明礬泉である。  22室とこじんまりした宿で、総料理長おまかせの創作和食はうまかった。
 

展望塔
     歯舞神社      お宿欣喜湯 別邸忍冬
展望塔
歯舞神社
お宿欣喜湯 別邸忍冬



令和三年(2021)七月二十一日、宿を出て、硫黄山へ行く。 

「 アイヌ語で、「アトサヌプリ」、裸の山と呼ばれる硫黄山。  山肌からは轟々と音を立てながら、噴煙がほとばしり、 周囲には硫黄の独特な匂いが立ちこめている。  山全体が黄色く見えるのは、各所から吹き出す硫黄によるものである。 」

落石の危険性があることから、硫黄山は立ち入り禁止になっているので、すぐに出発。 
過去四回、晴れた摩周湖に今回は霧が出ていることを祈りながら、向かう。 
道道52号を上っていくと、途中からジグザクした上りのカーブが続き、 頂上に着くと摩周第三展望台があり、ここの駐車場は無料であった。 
展望台からの正面の湖に浮かぶのは断崖の小島・カムイシュ島である。  この島は約四千年前に、、 カルデラ中央に溶岩ドームが形成されたことから誕生した。  その奥にに聳えているのは摩周岳(カムイヌプリ)である。  この山は四千年の同時期にカルデラ東部で噴火が始まり、できたものである。
今回初めて霧の摩周湖に出逢うことができたので、よかった。 
山肌には黄色い花を咲かせるアキノキリンソウが咲いていた。 

硫黄山
     摩周湖      アキノキリンソウが咲く
硫黄山
霧の摩周湖
アキノキリンソウが咲く



続いて摩周第一展望台に移動する。  こちらは500円の駐車料金が必要で、硫黄山駐車場へも入れる。 
以前、観光バスで訪れた時もここでの観光となり、土産屋も公衆トイレもある。 
こちらからはカムイシュ島は湖の中央に、右手に雲が被っているが摩周岳が見えた。 

「 摩周湖は、日本で20番目の大きさである。  約七千年前の巨大噴火で生まれたカルデラ湖で、 アイヌ語では「キンタン・カムイ・ト―(山の神の湖)という。  流入及び流出のない閉鎖湖で、周辺の雨水が土壌に浸透して濾過されるため、 世界でバイカル湖に次ぐ二番目の透明度の高い透明度の高い湖である。  急激に深くなっていることとその透明度が高いことから、青以外の反射が少なく、 よく晴れた日の湖面の色は摩周ブルーと呼ばれている。 」

売店の土産はかっては鮭をくわえた熊の置物が定番だったが、今は姿を消し、 ある熊はぷーさん風で、ほんの一部。  アイヌをデザインした壁掛けやTシャツが主流であった。 
この後、山を下り、川湯を中心とすると反対側にある屈斜路湖に行った。 

「 屈斜路湖は、凍結する淡水湖としては日本一大きい。 
日本の湖沼で6番目の大きさで、約三万年前に出来たカルデラ湖である。  この時の噴火は大規模で札幌以西を除く、北海道のほぼ全域に火山灰が覆った。  硫黄山や川湯温泉からの強酸性の水が流入するため、酸性湖になっているため、魚類は乏しい。  湖岸を掘ると湧き出す砂湯が観光名所になっている。 また、湖底からも温泉が湧出する。 」

屈斜路湖に入るところにアイヌコタンの集落があり、コタンの湯やアイヌ民族資料館・ アイヌ民芸品店などがある。 
屈斜路湖に到着したが、観光するようなところはとぼしそうなので、 湖をしばらく眺め終了とした。 

摩周湖
     土産物屋      屈斜路湖
第一展望台からの摩周湖
土産物屋
屈斜路湖



いよいよ阿寒湖へ向かう。
国道243号から鈴蘭3丁目で、国道241号阿寒横断道路に入り、山道をくねくねと上っていく。  途中、数カ所で道路工事が行われ、交通整理が行われていた。  やがて、双岳台、双湖台があったが、停まらず走り続け、雌阿寒分岐で、 国道240号に変わると右手に阿寒湖が見え始める。  出発して約一時間二十分、阿寒湖アイヌコタンに到着した。 
三十六戸、約百二十人が住む北海道で最大のアイヌコタン(集落)である。 
フクロウが羽根を広げた装飾の阿寒湖アイヌシアターの建物がある。 
北海道の先住民・アイヌの伝統的古典舞踊が上演される劇場なので、見学したかったが、 コロナによる観光客の激減で、夜間に一回か公演されないと、表示されていたので、 中に入りポスターを撮影して、終了した。 
外に出て、阿寒湖の方へ向かうと、「阿寒湖アイヌコタン」の看板がある家があり、 本来ならアイヌ料理などがあるはずだが、コロナで閉鎖中であった。 

阿寒湖アイヌシアター
     ロストカムイ      阿寒湖アイヌコタン
阿寒湖アイヌシアター
ロストカムイ
阿寒湖アイヌコタン



中央にあるトーテムポールは、2007年に彫刻家・床ヌプリさんの指導のもと、 地元アイヌ人が制作したものである。 
姉妹都市のカナダブリテッシュコロンビア州バーナビー市の釧路公園の方角を向いている。 
阿寒湖に向って坂を降りていくと、両脇にアイヌ民芸品の店が並んでいた。 
注目したのは、各店舗の外観。 阿寒湖を代表する彫刻家たちが制作さいた看板や屋根の装飾である。 見応えがある。 
坂を下りきると、湖岸の道で右折して進むと、阿寒湖観光船乗り場がある。 
船は出たばかりで、次は一時間後とのこと、帰りの飛行機の時間を考えてあきらめた。 
周囲の商店街には数軒の飲食店とその他は民芸品店があった。 
以前訪れた時はマリモを売る店が多かったが、人工のマリモであることが浸透したせいか、 売っている店は見かけなくなっていた。  また、民芸品も小型のアクセサリーや魔よけのようなものが多く、時代の変化を感じた。 
昼食は軽食・喫茶エルムで、店主はジャズが好きなようで、レコードが飾られていた。 
ピザとバターライスのトンカツを頼んだが、添え物のスパゲッテイがうまかった。 
後日ホームページを見てみたら、ミートスパが紹介されていて、 トマトを使わないデミグラスソースは濃厚で、細めのパスタとよく絡むとあった。  パスタが得意の様子である。 

アイヌ民芸品店
     阿寒湖観光船      北のサンタ
アイヌ民芸品店が並ぶ
阿寒湖観光船
木彫店北のサンタ



12時20分、帯広に向って出発。
帯広までは、一般道で行くことにし、足寄、利別、幕別町を経由し、約2時間30分の予定である。 
国道241号を走ると、国道240号は右に釧北峠に向った別れていく。  241号を進むと左にオンネトーに入る道があり、その先に雌阿寒温泉や湖のオンネトーがある。 
寄らずにどんどん下っていく。 原始林を下りきると、町中に入り、足寄駅の交叉点に突き当る。 
左折して国道242号に入るが、その先の郊南1交叉点を右折して、再び、国道241号に入る。 
道は右、左、右に大きくカーブし、足寄湖の湖岸を抜けるが、 右側の小高いところにしゃれたアルプス風の家が二軒あり、その下に道の駅・足寄湖があるが、 ドックランと多目的トイレがあるだけで、コロナで閉館になっていた。 
自衛隊の車が多く止まっていて、昼飯休憩をしているようすであった。 
阿寒を出発して、一時間半、上士幌町へ入っていく。 
町役場にも近い、国道273号も合流する上士幌15区交叉点の先の右手に、 道の駅・かみしほろがあった。 
昨年6月にオープンした道の駅で、ドックランと熱気球体験搭乗を売り物にしていた。  立派な建物としゃれた内装で、館内は広々としていた。  洋食レストラン、ベーカーリー、新感覚のモダンサンドを売り物にしたサンドイッチ専門店・ THESANDO、 十勝牛の串カツなどを出すUSSTNDと店が数軒入っているが、 どれも高価格帯で一般的な客層からは離れた価額帯に思えた。  気楽に手が出せる価額帯でないので、若者がどれだけ関心をもつかが、 今後の経営の行方を左右するだろう。 
ソフトクリームにしても、抹茶とほうじ茶、そして、バニラしかなく、値段も高い。  小生はお茶には興味がないので、バニラにしたが、このラインアップは良いのだろうかと思った。 
二十分程休憩し、帯広に向う。 
少し走ると士幌町に入り、士幌西戦34番地、国道274号が合流するところの右側に、 ピア21しほろという道の駅がある。 こちらは士幌町の経営で、 どちらかという今までの道の駅で、奇をてらっていない。 
こちらは農業を意識した、マンサード型屋根の建物を中心に木造り感のある建物である。 
地元産のじゃがいもを使ったフライドポテトやかだわりのコーヒー、 地元でつくる加工品や手作り雑貨、ソフトクリームなど、気楽に楽しめそうである。 
平成二十九年にリニューアルオープンしたとあった。 
東和西4遷号交叉点で、直進すると豚丼屋があり、そのまま南下する。 
本来、釧路から帰るのが近いのだが、この時期、釧路に霧が発生し欠航することがあるのと、 帯広はスイーツの町などで、ここから帰宅することにした。 
そのまま進むと、音更町役場の近くを通り、道東道をくぐり、十勝川に架かる十勝大橋を渡る。 
前回、家族で来た時はこの東方にある十勝川温泉に泊まった。 
橋を渡ると西2条通交叉点を直進し、藤丸デパートの地下駐車場に車を停めた。 15時20分である。 
道の駅から約一時間である。 また、阿寒湖からは三時間かかった。 
藤丸デパートの前には、ばんえい競馬の大きなポスターがあった。 

道の駅・かみしほろ
     THESANDO(サンドイッチ専門店)      ばんえい競馬の大きなポスター
道の駅・かみしほろ
館内のTHESANDO(サンドイッチ専門店)
ばんえい競馬の大きなポスター



藤丸デパートの道を隔てた東南側に六花亭があるので、訪れた。 
店は通りから引きこもっていて、樹木も茂りわかりずらいところである。 
二階にラウンジ極楽があるが、コロナで休業であった。 
買ったモンブランとチョコレートケーキを一階にあるスペースでいただいた。 
モンブランよりチョコレートケーキの方がうまかった。 
昭和四十三年にホワイトチョコの製造と販売を開始し、五十二年にはマルセイバターサンドを 販売し、北海道を代表する菓子メーカーになった。  本店を訪れたのは初めてであったが、多くの客が贈呈用に購入していた。 
藤丸に戻り、帯広の銘菓はと探したが、数がすくなく、東京や京都の菓子が中心であった。  地元の人は直接お店に行く買うので、デパートで買うのは少ないということに気が付いた。  お土産で、札幌が本店の白い恋人を買う。 
結果として、帯広空港が一番お土産を置いていた。 
レンタカー会社が空港での返却に時間がかかるといっていたので、 食事をしてからと思っていたのを止めて、空港に向う。 
途中、前回来たときに行った幸福駅に寄る。 
国道236号を南下し、南帯橋を渡ると旧愛国駅があったところが左奥にあるが、 そのまま進むと大正という地名が続くところを通る。  その終わりに幸福のバス停があり、そこを左折すると旧幸福駅、現在は公園になっている。 

「 幸福駅は十二キロ離れた愛国駅と共に、廃線になった広尾線の駅の一つであった。 
明治二十九年(1897)に福井県から集団入植が行われる前は、アイヌ民族により、 「サツナイ」と呼ばれる地域であった。 入植者は「サツナイ」に幸震という漢字を当てたが、 福井県から入植者が多いことから、福井の一字を宛て、幸福町へ変更した、とある。 
鉄道の駅としては後発で、昭和31年(1956)に駅として運営を開始したが、 昭和62年(1987)に広尾線が廃線になり、約21年の駅であった。  駅舎は壊される運命であったが、昭和48年(1973)3月、NHKの「新日本紀行」で、 「幸福への旅ー帯広」として放送され、「幸福駅」の駅名が全国的知れ渡った。  当時、愛国から幸福行きという駅区間切符が発売され、発売年三百万枚、 以降4年間で千万枚を超えるビームを引き起こした。  しかし、一日4本という本数なので、訪れる人はバスや車で、赤字解消とはならず、 廃線後は観光ポイントとして整備され、今も多くの人が訪れている。 」

18時前に帯広空港へ到着したので、二階の食堂で十勝豚丼を食べた。 
自宅で作るのは三枚肉によるものだが、ここは薄くスライスした豚肉を使用していて、 おいしかかった。 
約1時間の休憩後、飛行機にのり、羽田には20時55分、定時に到着した。 
これで、日本100名城の旅は、熊本城と人吉城を残すだけになった。 

六花亭本店
     旧広尾線の車両とレール      幸福駅
六花亭本店
旧広尾線の車両とレール
幸福駅跡






 戻る(城跡めぐり表紙)                              (MR.MAXの世界)へ