mrmaxの城めぐり 北海道4 (志苔館)
志苔館(しのりたて)は十四世紀から十五世紀に和人により蝦夷地に築かれた道南十二館の一つで、志苔館は城というより砦という方がふさわしいのかも知れない。
続日本100名城の第101番に選定されている。
志苔館(しのりたて)
平成三十年五月二十八日、五稜郭近くでレンターカーを借りて、
函館空港の函館湾に面したところにある志苔館跡を訪れた。
志苔館遺跡は昭和九年(1934)に国の史跡に指定され、
昭和五十二年(1977)に腰曲輪、濠、溪沢全体が追加指定されたもので、
続日本100名城の101番に選定された。
バスで訪れるには函館バス下海岸線(7、79、97系統)「志海苔」「湯倉神社前」バス停下車、徒歩5分
細い道の坂を上ると、小高い丘の途中に「史跡志苔館跡」の石碑と「志苔館跡」の説明板があった。
「 志苔館跡は函館市中心から約九キロ離れた標高二十五メートル程の海岸段丘南端部に位置している。
西側に志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地及び津軽海峡に面し、
函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
館跡は東西七十〜八十メートル、南北五十〜六十メートルで、
約四百十平米の広さがある。
また、館跡の正面に当る西側には二重に濠が掘られ、
さらに外側には小土塁が巡らされている。
松前藩の史書「新羅之記録」によると、室町時代頃(十四世紀〜十五世紀)、
道南(現在の上ノ国町から松前町、福島町、知内町、木古内町、北斗市、
函館市及ぶ地域)に蝦夷地に渡来してきた和人が築いた館(たて)が十二あり、
これらを総称して「道南十二館」と呼ばれるが、
それらの中で最も東に所在するのが志苔館(しのりたて)で、
館には小林太郎左衛門良景が居住していた。
康正二年(1456)、志苔館付近でアイヌの蜂起があり、
この戦いで翌長禄元年(1457)五月十四日に志苔館が攻め落とされた。
戦いの後、再び小林氏は館に居住していたが、
永正九年(1512)四月にアイヌの蜂起があり、
志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定は討死したといわれる。
その後は小林氏が松前藩に従属したため、志苔館は廃館になった。 」
「史跡志苔館跡」の石碑が建つ道の手前(下)の右側には、
「志苔館 和人殉難御霊 阿伊努悵魂御霊 慰霊碑」の説明板があり、
空地の奥に二つの慰霊碑が建っている。
「 下北半島、津軽方面に於いて、
南北朝の戦いに敗れた南朝方の武士達が道南に館を築いていたが、
康正二年(1456)に志苔館付近にてアイヌの蜂起があり、
翌長禄元年(1457)館は攻め落とされた。
その後、再び永正九年(1512)に戦いがあり、館は陥落し廃館になった。
ここにコシャマインの戦いで亡くなった館主、和人御霊、
アイヌ御霊双方を同一座に祀ったものである。 」
登りきった小高い丘は海抜二十五メートルで緑の芝生が一面に広がっていた。
下の家並の先は対岸の下北半島や町のシンボル、函館山が、
海に浮かんでいるように見える。
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史跡志苔館跡碑 | | 和人とアイヌの慰霊碑 | | 志海苔の家並と函館山遠望 |
志苔館は小高い丘の自然地形を活かし、
四方に土塁と薬研または箱薬研状の空堀を巡らせ、
全体でほぼ長方形の形のレイアウトだったようである。
館の入口には空掘があり、木の橋が架かっていたが、
その近くに「郭外遺構」の説明板が立っていた。
「 郭外には主に外敵からの防御を目的とした濠、
土塁、門、柵の他、橋、土橋等が配されていた。
館の開口部に当る西側には二重の濠が掘られ、北側、東側、
南側は自然の沢を利用して濠としていた。
発掘調査により、館が築かれた当時は、両側に外柵を設け、
その中央部の門を通過し、
薬研の二重濠に架けられた橋を渡り、さらに門を通過して、
郭内に入る構造であったことが分かった。
その後、郭外は郭内ともに造り変えられ、外柵は埋まられて、
土塁が築かれ、郭内の濠も薬研から箱薬研へ、橋も土橋へと移行した。
ここには館構築当時の姿をできるだけ復元するとともに、
その後に構築された土塁、土橋等も保護、保存し、
館の変遷が分かるようにしている。
なお、北側と西側の空壕は幅約五メートル〜十メートル、
最も深い所で約三・五メートルの深さをもっていた。
また、土塁の高さは北側で約四メートル〜四・五メートル、
南側で約一メートル〜一・五メートルだった。 」
郭内に足を踏み入れると、
門跡、建物跡、柵跡、井戸跡が石札に表示されているとともに、
遺構に沿って埋めてあるブロックでその形状をうかがい知ることができる。
井戸跡の近くに説明板があった。
「 井戸跡は発掘調査により、地表下約四メートルのところから、
木製の井戸枠が発見された。 郭内に存在した唯一の井戸である。
この木製の井戸枠は四隅に置いた柱を桟で繋ぎ、柱と柱との間に、
縦板を並べた、「方形隅柱横桟式」と呼ばれるもので、室町時代頃造られたと考えられる。
井戸の中から、箸、曲物、桶の一部、銅銭などが見つかった。
発掘調査で、郭内からは十五世紀前半ごろを主体とする青磁、白磁、珠洲焼、
越前焼、古瀬戸などの陶磁器や金属製品などが出土した。
これらの遺物の年代は「新羅之記録」に記された長禄元年のコシャマインの戦いにおける志苔館陥落の時(1457年)と一致する。
昭和四十三年(1968)に付近で行われた道路工事で、
三十八万枚の渡来銭が入った三つの甕が発見された。
一カ所から発見された古銭としては国内最大級の量で、
現在は国の重要文化財として市立函館博物館に収蔵、
展示されている。 」
志苔館は和人が蝦夷に砦を作り、アイヌの地に進出した最初で、
この時期はアイスとの間で戦いもあったことが分かった。
また、城というものではなく、拠点となる館を守る程度のものだったことも分かり、
面白かった。
志苔館へはJR函館本線函館駅から函館バス下海岸線(7・79・97系統)に乗り、
「志海苔」下車、徒歩約5分
志苔館のスタンプは史跡内のあずまやに置かれている
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