|
橋を渡ると二の丸である。
「 二の丸南門は二の丸東門と同様、 楼門の一階正面の柱にケヤキ板を化粧のための鏡板をして張りつけるなど、 内廻りの門としての配慮がされている。 築城時頃からあったと思われ、 当初は木瓦葺きだったが、 文化年間に銅瓦を葺いたとのいう記録が残っているという。 昭和十二年、国の重要文化財に指定された。 」
二の丸の南西にあるのは未申櫓である。
「 未申櫓は城郭に取り付く敵を攻撃したり、 物見のために造られたもので、防衛、防火のために土蔵造りとなっている。 」
二の丸の現存櫓は辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓の三棟で、
いずれも三層建てだが、窓の形など細部の造作に違いが見られる。
櫓の名前は十二支で方向を示したもので、南東にあるのは辰巳櫓である。
「 一、二層は四間四方の同面積だが、三層は小さくし、
屋根は入母屋造りである。
この櫓で藩主は三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などをご覧になったという。 」
本丸に入る橋は下乗橋と呼ばれていた。
「 二の丸側に下乗札があり、 藩士は馬から降りるように定められていた。 築城当初の橋の両側は土塁板だったが、文化八年(1811)に石垣に直された。 以前はギボシが十二支をかたどったものだったという。 現在の橋は平成十七年に竣工したものである。 」
橋から向うは入場料がいる。 現在橋の向こうの右側の石垣は工事中である。
弘前城の天守は昭和二十四年(1949)に松前城天守が焼失したため、
関東以北で唯一現存する天守である。
以前訪れた時には写真のようにここに天守が建っていた。
「 弘前城の天守は、弘前藩二代藩主、津軽信枚により、 本丸南西隅に建てられた五重の建物だったが、 寛永四年(1627)の落雷で出火、天守内部に収納されていた火薬に引火して、 大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。 」
寛永五年(1628)、地名の鷹岡を信枚の帰依する天海大僧正が名付けた「弘前」に改称し、 城名も弘前城となるが、 以後、二百年近くの間、天守のない時代が続いた。
「 文化七年(1810)、九代藩主、津軽寧親が、 ロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、 天守の代わりとして、本丸南東隅の辰巳櫓(南東隅櫓)を解体、新築して、 文化八年(1811)に竣工した。 」
本丸唯一の現存建築である天守は層塔型三重三階の建物で、
現在は独立式であるが、最初は北側に多聞櫓を付属させた複合式だった。
多聞櫓は明治二十九年(1896)ごろまでに破却され、今はない。
天守を支える石垣が膨らんで崩壊の恐れがあるとして、
天守を引き屋により本丸の中央に移され、その姿で公開されていた。
「 高さは約十四・四メートルと小振り。 外壁は白漆喰塗籠、窓と狭間の上下に長押形を施し、 屋根瓦は寒冷地のため銅瓦葺きである。 外側に面する東面と南面は一層目と二層目に大きな切妻出窓を設け、 窓には狭間窓を用いるなど、 小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施されているが、 本丸の内側に当る西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけである。 」
現在公開中の天守入口の方から見るとその差異は確認できる。
日本100名城の弘前城のスタンプを天守内で押した。
反対側に廻ると、天守を眺められる展望台があり、
本丸外側に面する東面と南面が目に入った。
ここには「弘前城天守台石垣の特徴ある隅石」という説明板がある。
「 ここに置かれている長さ二十七メートル、巾一メートル、 高さ六十センチ、重さ三トンのイカの形をした石は、愛称「いかすみいし」と呼ばれる。 全国でも弘前城跡にしか見られない稀な石形である。 」
東屋になっているところには「本丸戌亥櫓跡」の説明板がある。
「 元禄三年(1690)に柿葺き(こけらぶき)の葺き替えが完了している。
また、同九年には櫓下の番所の修復も行われていて、
北の郭から櫓下、本丸への通路があった。 」
鷹岡橋を渡り、本丸を出る。
そこには武徳殿があるが、右手に行くと二の丸東門がある。
「 二の丸東門は南門と同様、 楼門の一階正面の柱にケヤキ板を化粧のための鏡板をして張りつけるなど、 内廻りの門としての配慮がされている。 築城時頃からあったと思われ、当初は木瓦葺きだったが、 文化年間に銅瓦を葺いたとのいう記録が残っている。 昭和十二年、国の重要文化財に指定された。 」
二の丸東門与力番所がある。
「 与力番所は城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、
追手門与力番所、三の丸東門与力番所など十二ヶ所あった。
この番所の建築年代は分かっていないが、
柱や梁に残された墨書は江戸時代初期に建てられた三の丸東門の墨書きに酷似し、
構築手法が江戸中期の様相を呈していることから、
古材を利用し、江戸中期に改修したものと推定される。 」
武徳殿は北の郭跡である。 出口に向ってすすむと、右手に二の丸丑寅櫓がある。
「 丑寅櫓は二の丸の北東にある三層の櫓で、 土蔵造り、銅板葺き(当初はとち葺き)で、 軒下や出格子は素木のままで飾り気はないが、独特の美しさを見せる。 昭和十二年に国の重要文化財に指定された。 」
江戸時代には本丸、二の丸、三の丸および附属の郭は、
三重に巡らされた堀により区切られていた。
この先には堀が残っている。
道を進むと城門跡と思えるところがあり、「賀田御門跡」の説明板がある。
「 築城当時は北門が城の表玄関で、 ここにあった賀田門は三の丸の北門として、 旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝えられる。 門の内外は直進できないように折れ曲がった枡形が造られていて、 堅固な構えを見せている。 」
賀田橋を渡ると広い空地が横たわり、左側には護国神社の鳥居があった。
そこを抜けると北の郭北門(亀甲門)がある。 築城当初、十の城門があったが、
そのうちの一つで、現存する五門はいずれも国の重要文化財に指定されている。
「 北の郭北門は脇戸付楼門で屋根銅板葺き、現在は搦手門だが、 築城当時は大手門だった。 現存する他の四門と比べ、規模が大きく、かつ、銃眼がないなどの特徴をもつ。 大光寺城(平川市)の城門を移築したという伝承をもち、 転用材が多いことから中世以降の系譜を持つことが想定される。 」
以上で弘前城の探訪を終えた。
弘前城を出ると車道の反対側に横に長く続く建物がある。 石場家住宅である。
「 石場家住宅は、江戸時代中期の建築と推定され、 国指定重要文化財に指定されている。 現在は酒屋だが、石場家は代々「清兵衛」を名乗り、 藩内のワラエ品と荒物を扱っていた。 この地方では数少ない商家の遺構として貴重な建物で、 雪国特有のこみせに味わいがあり、居間の囲炉裏や柱などに歴史がしのばれる。 」
道を右に進み、交叉点を右折すると津軽藩ねぶた村がある。
「 弘前ねぷたのお囃子の実演が行われる弘前ねぷたの常設展示館「弘前ねぷたの館」の他、 津軽三味線の生演奏を聴くことができる「山絃堂」や 津軽地方の民工芸品製作風景の見学や製作体験ができる体験型の施設である。 」
ねぶたは青森の大型台車に乗せられる大型のものでなく、小型である。
また、青森はねぶたと濁るが、
弘前はねぷたと破裂音である。
施設の中央に国の登録記念物となっている日本庭園・揚亀園(ようきえん)と
文化財に指定されている、東北地方でも数少ない雪国の茶室・揚亀庵がある。
弘前市役所前にある「弘前図書館」とある建物は旧弘前市立図書館である。
「 明治三十九年(1906)に建設されたルネサンス風の意匠を基調とした木造三階建ての歴史的建造物である。 左右両端に配置された八角形三階建ての塔が特徴的な建築で、 建物全体に窓が多く配置されていて、さらに正面中央には採光のためのドーマー窓を設けるなど、 図書館としての機能にも配慮された設計となっている。 当初は市立東奥義塾(現東奥義塾高等学校)の敷地内(現在の追手門広場付近)に建設されたが、 手狭になったことから昭和五年(1930)に図書館が別の建物に移転することとなり、 また東奥義塾の校舎拡張も相まって、昭和六年(1931)に設計、施工を手がけた堀江家に払い下げられ、 弘前市富野町に移築された。 平成元年(1989)、市制施行百周年記念事業の一環として市が再取得して、 追手門広場(東奥義塾跡地)に再移築し、 市立郷土文学館の施設として保存されるとともに郷土出版物や文芸資料などが一般展示されている。 」
その奥にあるのは旧東奥義塾外人宣教師館である。 青森県初の私学校、東奥義塾の外国人宣教師が住んでいた家で、
当時の暮らしぶりが伝わってくる。
また、その裏にはミニチュアの建物が沢山展示されていた。
弘前城へはJR奥羽本線弘前駅から弘南バスで約15分、市役所前下車、徒歩すぐ
日本100名城の弘前城のスタンプは天守内か緑の相談所(植物園)にて