|
空堀には東門があり、そこをくぐると右手に「薬草園」がある。
この区画は広くその先に「実のなる木」の案内板があり、右手には桂の木もある。
その奥に東善寺館があったようである。
中央部に「通路跡」の説明板があった。
「 この通路は堀を埋め戻して、 その上に砂利などを敷いて造ったものである。 通路は中央部に広がり、二手に分かれるが、 この分岐点から中館側(左手)は掘立柱建物や溝などで壊されていて、 通路として使われなくなったことが分かった。 もう一方の通路は下町方面に伸びると考えられる。 」
その先にある堀はV字型の空堀だが、
現在でも一メートル程掘ると地下水が出ることから、
堀底には水が流れていたことも考えられる。
堀の規模は本丸や東善寺館と並び、根城の中では大きい方である。
なお、城の中央を東西に横切る国道も堀だったと推定され、
その堀を境にして郭の区画は北側が三角形など、
南側(沢里曲輪)は短冊型になっている。
根城は西側に本丸、その北東側に中館、東善寺館、 国道を挟んだ南東側に岡前舘(現在は住宅地)、沢里館の五つの館(曲輪)が連なっていた。
「 東善寺館、岡前舘の東側から沢里館にかけて三番堀が巡らされて、 本丸の西側に西の沢、城郭の北側に馬渕川があり、 各郭ごとに巡らされたV字の堀(薬研掘)と自然の地形をうまく利用した堅固な城だった。 」
ここから先は発掘調査を基に当主の屋敷全体を全国で初めて復元整備した場所という。
空掘の先にある四阿(あずまや)あたりは中館である。
本丸は全体が柵で囲まれ、入口は中館と本丸の間に堀に渡した木造の木橋から通じる東門と北門及び西門があった。
東門が通常の門である。
東門を入ると主殿の前に上馬屋、中馬屋があった。
「 主殿は当主が特別な来客と会ったり、さまざまな儀式を行ったところで、 儀式に使う道具や南部家に伝わる家宝が納められ、大事に管理されていた。 建物の中は大きな部屋が規則正しく並んでいた。 土間の台所以外は板敷になっていて、 畳は特別な会見や儀式の時だけ出されて使用されていたようである。 発掘された柱穴群に基づいて、主殿と上馬屋、中馬屋が復元されていた。 」
その奥(南側)ある柱穴群は常御殿跡である。
「 常御殿は当主が居住し、政治をとったところで、 重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や寝所、 従臣の詰所などがあったと思われる。 」
常御殿の奥には奥御殿があった。
「 奥御殿は当主の家族が住んでいたところで、先祖の霊も祀られていた。
当主は先祖の拝礼や家族のもとに常御殿から通ってきたという。 」
常御殿の西側には工房、南側には野鍛冶場、鍛冶工房があった。
「 野鍛冶場は壊れた鉄鍋や銅銭などを溶かす作業をしていたところである。
鉄はまじりものを除いてからいったん棒状にして、
銅は鋳型に流し込んで固めた後、鍛冶工房で加工された。
強い風は炉熱を逃がしてしまうので、板塀で囲んで防いでいた。
鍛冶工房の建物は竪穴式で、地面から九十センチ下にある鍛冶場では、
職人が鎧や刀の部品の他、釘などを作っていた。
鍛冶場にはフイゴと炉があり、周囲には鍛冶道具や不用になった鉄、
銅銭、炭などが置かれていた。
当時金属は貴重なので、壊れた鉄片でも再利用された。
鉄製品は金づちで鍛え、銅は鋳型に流し込んで作られた。 」
板蔵は当主やその家族が奥御殿で使う道具や衣類を保管していた建物である。
品物を守るために厚さ六センチの厚板を使って丈夫に作られた。
板は柱の上から落ちこむようになっていて、
簡単に外すことができない構造になっていた。
復元された主殿の中に入り、当時の様子を窺うことが出来た。
八幡馬(やわたうま)は南部地方に古く伝わる郷土玩具の一つで、
施された華やかな模様は、この地方で嫁入りする際の乗馬の盛装を表したものと伝えられる。
土地柄を感じさせる様々な食材が溢れる八戸。
鶏肉や野菜などで取ったあっさりとしただしに南部せんべいを割って入れて煮込む八戸せんべい汁は
心も身体も温まる素朴な郷土料理である。
海の幸の宝庫と知られる八戸には新鮮なウニとアワビを使った「いちご煮」や独特の香りと味のホヤがある。
ホヤ好きにはたまらない珍味だが、娘は苦手のようだった。
今回訪問しなかったが、八戸市には江戸時代、八戸城という城があった。
「 根城八戸氏が遠野に移封され、八戸は盛岡藩南部氏の直接支配に変わったことは前述したが、 寛文四年(1664)、盛岡藩三代目藩主、南部重直が跡継ぎを決めずに死去したため、 幕府は南部藩十万石のうち、弟の九戸重信に八万石、 その下の弟直房(中里数馬)に二万石を与える決定をした。 翌年、南部直房を初代藩主とする八戸藩が誕生し、 むつ線本八戸駅に近いところにある三八城山の麓にあった盛岡藩時代の建物を引き継ぎ、居城とした。 八戸藩は将軍が下知したので、正式の藩と認められ、城持ち大名となった。 」
八戸城は根城南部氏二代政長の三男、信助が根城の支城として築いた城で、
本丸と二の丸からなるが、詳細は分かっていない。
現在は三八城神社と三八城公園になっている。
八戸市庁舎向い南部会館前に八戸城角御殿表門があり、
棟門では全国最大級で、県の重要文化財に指定されている。
長者山西麓にある月渓山南宗寺には八戸南部家の墓所があり、
南部家初代八戸藩主、直房からその家族(十一代の麻子まで)の墓が並ぶ。
山門は県重宝に指定されていて、寺には八戸城の遺構の杉戸などが保存されているという。
1
根城へは東北新幹線・東北本線八戸駅から南部バス「司法センター経由」で約15分、博物館前下車、徒歩約5分
日本100名城の根城のスタンプは八戸市博物館にて
三内丸山遺跡
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は沖館川右岸の河岸段丘上に立地する縄文時代前期中頃から中期末の大規模集落跡である。
平成三十年(2018)五月三十日、新青森駅西口でレンターカーを借り、青森空港方面に十分程走ると、史跡三内丸山遺跡の資料館に到着。
入場料を払い建物を出ると広大な広場である。
江戸時代から遺跡が存在することは知られていたが、1992年に県営野球場を建設する事前調査が行われた結果、
大規模な集落跡とみられることが分った。 2000年に国の特別史跡に指定された。
「 三内丸山遺跡は八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、
標高は約二十メートルで、遺跡は約四十ヘクタールの広大な範囲に広がっている。
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、
大型竪穴住居が十棟以上、約七百八十軒にもおよぶ住居跡、
さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。
1994年には直径約一メートルの栗の柱が六本検出され、大型掘立柱建物の跡と考えられた。
現在、発掘調査を基に、柱間と同じ四メートル二十センチ間隔で床を作り、三層の建物を復元している。
屋根はさまざまな説があることから、復元していない。 」
その奥にあるのは縄文前期(約五千年前)の大型竪穴住居を再現したもので、 長さ十メートル以上ある大型竪穴住居は集落中央付近から多く発見されたという。
「 竪穴住居は地面を掘って、床を作り、柱を立て、屋根をかけている。 縄文時代中期(約四千五百年前)を茅葺き、樹皮葺き、土葺きの三種類で復元。 時代によって、平面形、柱の位置、炉の位置や構造に違いが見られるという。 」
掘立柱建物は柱穴を掘り、柱を立てたもので、
地面に炉や床などの跡が見つからないことから、高床建物だったと考えられている。
柱は約三十五センチの倍数で配置されている。
その他、墓やゴミ捨て場、貯蔵穴、粘土採掘穴などが発見されている。
また、板のように薄く造られている板状土偶と呼ばれる土偶が多く出土した。
「 他の遺跡から出た縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。
この遺跡で出土した栗は栽培されていたものであることが分かり、
多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、
さらに一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、
マメなどといった植物も栽培していたことも分かり、
縄文時代の人は自然の恵みのみに依存した採取活動で暮らしていたという定説を覆した。
三内丸山では集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽し、一年草を栽培していた可能性も考えられ、
これらのことからこの遺跡の居住者は数百人と推定され、
この極寒の地に大きな集落が存在したことが明らかになった。 」
三内丸山遺跡へは東北道青森ICよりR7バイパス経由、三内丸山遺跡方面へ5分
JR青森駅から市営バス「三内丸山遺跡」行きで30分〜40分
開館時間9時〜17時(6月〜9月とGWは9時〜18時) 第4月休(祝日の時は翌日)
12/3〜1/1
恐山
三内丸山遺跡を見学後、恐山に向う。
恐山には妻と以前浅虫温泉に宿泊した翌日行ったことがある。
娘が以前友達と行く約束をしたが、体調を崩して行けなかったとのことで、
八戸に行く前に寄ることにした。
今回はナビに頼ることにしたが、自動車道が一部完成していたので、
前回とは違うルートになった。
青森中央ICで青森道に入り、青森東ICで一般道になり、みちのく有料道路を走る。
十和田に近い山合を走るので遠回りではないかと思ったが、
車が少なく快適に走れた。
みちのく有料入口交叉点で左折し、国道4号を走り、
野辺地ICで下北半島縦貫道路に入る。
この道は自動車専用道路だが、無料。 吹越しで終わるので、
はまなすライン(国道279号)を走る。
前回、浅虫から野辺地に出て走ってきた道である。
「道の駅よこはま」を過ぎて十分すると陸奥湾が見えてきた。
道の左側に「トラベルプラザサンシャイン」というドライブインがあり、
海岸に近いところに両手にほたてを持った「ほたて観音」が建っていた。
「 平成四年七月 陸奥湾がいつまでも美しい海であるよう漁業の繁栄と操業の安全、 旅行者の健康と交通安全などさまざまな願いを込めて建立される。 製作は南部名久井窯元である砂庭大作氏。 世界でも珍しい陶器製の観音像、高さ一・八メートル、 台座を合わせると約四メートル。 」
陸奥湾の先は霞んではっきりしないが、津軽半島の山々だろう。
ここで早いが昼食を取り、ナビに従いむつ市街を抜けて山道に入る。
恐山は昔からの霊山で道の端に石造の観音像や供養塔が建っていた。
恐山菩提寺は宇曽利山湖の湖畔にあり、日本三大霊場の一つである。
「 伝承によれば、開山は貞観四年(862)、開祖は天台宗を開いた最澄の弟子である慈覚大師円仁。 円仁が唐に留学中、「 汝、国に帰り、東方行程三十余日の所に至れば霊山あり。 地蔵大士一体を刻しその地に仏道を広めよ 」という夢告をうけた。 円仁はすぐに帰国し、夢で告げられた霊山を探し歩いた。苦労の末、恐山にたどり着いたといわれる。 その中に地獄をあらわすものが百八つあり、全て夢と符合するので、 円仁は六尺三寸の地蔵大士(地蔵菩薩)を彫り、本尊として安置したとされる。 」
山門の右側には寺務所と宿坊があり、御朱印をいただいた。
左側にあるのは本堂で、釈迦如来が祀られ、「供養の道場」とある。
「 建物は平屋建て、切妻平入りで、正面に一間唐破風向拝付。 向拝木鼻には象と獅子、欄間には中国の故事、懸魚には鳳凰の彫刻が施されている。 」
山門をくぐって進むと一段と高いところに「地蔵殿 本尊伽羅陀山地蔵大士安置」の標札と 「田名部海辺33番観音巡礼33番札所 恐山菩提寺」 とある。
「 康正二年(1456)、蛎崎の乱の際に焼き払われ、
いったん廃寺となるが、享禄三年(1530)に円通寺開山の宏智聚和尚が再興した。
観音像はこちらの開山堂に安置され、中央の聖観音、十一面観音と共に円空作で、
ナタ彫りという独特の技法で作仏されたものであり、巡礼の結縁所としてはふさわしい霊場である。
そうしたことから、現在は曹洞宗の寺院で、本坊はむつ市田名部にある円通寺である。 」
江戸時代にはこの地方で地蔵信仰が盛んになり、 恐山は地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として、崇敬を集めてきた。
「 下北地方では「人は死ねば(魂は)お山(恐山)さ行ぐ」と言い伝えられている。 立ちこめる硫黄臭と荒涼とした奇観を仏僧が死後の世界に擬したことにより、 参拝者が多くなり信仰の場として知られるようになった。 明治、大正期には「恐山に行けば死者に会える」「河原に石を積み上げ供物をし声を上げて泣くと先祖の声を聞くことができる」 などが俗信され、死者の声が聞けるというイタコの口寄せも話題になった。 」
地蔵殿の左手から奥は三途の河原さながらの風景で、
「無間地獄」などの標札が建っている。
「慈覚大師堂」周囲の岩には供養のために祀られた小さな風車が廻っていた。
前回訪れた時は至る所におびただしいかぜくるまがあったのに今回はほとんど見られなかった。
また、天気が快晴で、白く輝いている風景なので、地獄という印象から乏しかった。
下を見ると宇曽利山湖の湖畔に人が行き来しているのが見えた。
宇曽利山湖が西方浄土の渡り場に例えられていて、夕日が沈む時には厳かな気分になれそうである。
霊場内には恐山温泉がある。 四つの湯小屋は無料(参拝料は必要)であるが、
入る気にはなれず、八戸に向い、途中の古牧温泉(三沢市)で湯浴みした。
恐山へは下北駅から下北交通バスで「恐山行き」で45分