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ホームページで調べると浪岡駅から徒歩で三十分 、
市民バスで青森空港経由青森駅行に乗車し五分、中世の館前下車し、
そこから約八百メートル、徒歩で十三分とある。
バスの本数が少なく、この後、弘前城に行くので往復タクシーを使うことにした。
タクシーの運転手は親切で、車道から狭い草ぼうぼうの道を走り、
内館の入口の標識があるところに連れていってくれた。
「 内館は主郭で、城主の居館があり、
広さは東西約百二十メートル、南北約八十五メートルで、
南に正門、北に裏口があり、土塁に通じていた。
築城当時の堀は深さ五メートル程あったが、
現在の堀跡は当時より二メートル程浅くなっている。
中央に中土塁があり、一本の堀を二重堀や三重堀にしていて、
この堀に住む場所の区別をしたり、守りを強化していた。
また、中土塁は通路にも使用された。 」
内館の西の西館は、東西は北から約二百メートルメートル、
南北約百五十メートルで、
北館、検校館の間に二重の掘割、その中央に土居があった。
北館は全郭の中でもっとも広く、東西約二百メートル、南北約百メートルで、
全面が二重の堀で囲まれ、堀の中央の敷地は1500年〜1550年頃は屋敷町のように規則的に区画されていた。
現在板塀で区画しているが、当時何を使って区画していたかは分かっていない。
「 一区画に大きな建物が一軒と小さな建物が数軒、
井戸一つで構成され、家臣の屋敷が建っていた。
大きな建物は地面に掘った穴に直接柱を建てる掘立柱建物で、
小さな建物は地面を掘り下げて地下に床を作る竪穴建物だった。
井戸は四〜五メートルの深さがあり、
なかには崩れないよう木で補強されていたものもある。
北館の中に迷路のような道を造り、
本丸である内館までの通路をわかりにくくしたこと、
ここは家臣の住宅で、城に入ってきた人々を監視していたと思われる。
このようにして、
天守や石垣が出来る前には城の中心を守る工夫をしていたのである。 」
北館の中を通り、下に降りると堀が重なっているのが分かる。
橋を二つ渡ると東館である。
「 東館の最広部は東西約百二十メートル、南北約七十メートルで、 北、南に二重の堀があり、南の猿楽館の堀は中央に中土塁(土居)がある。 浪岡城落城後は一時は代官所が置かれたという。 」
東館の南にあるが猿楽館である。
「 最広部は東西約八十メートル、南北約八十メートルで、
西と北に二重の堀があり、東は断崖である。
猿楽館の名称はこの地で猿楽が催されたことによる。 」
猿楽館跡の先には案内所があるが、当日は閉まっていた。
新館は東館の東と国道の南の地域で、南北約九十メートル、東西不明。
西に掘割があり、南は断崖となっている。
現在、発掘調査が行われているようである。
ここは浪岡補佐の目的で置かれた津軽郡代関係の武士の居館だったと思われる。 」
以上で浪岡城の見学は終了した。
案内所前でタクシーを呼ぶと、しばらくして来たのはさっきの運転手さんだった。
かっての浪岡の町は元気だったようだが、
青森市と合併するころから寂びれていったという。
合併で良くなったのは駅舎と庁舎だけと自嘲気味に語られたのが印象的だった。
浪岡城へはJR奥羽本線浪岡駅から徒歩30分、タクシーで約10分
浪岡城のスタンプは中世の館か、浪岡駅に併設されている交流施設のインフォメーションにある