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二戸駅からバスで、呑香稲荷神社前で降りる。
「 九戸城は、上の全体図でわかるように、 本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)、 松の丸などの曲輪からなり、曲輪の間は高い空堀で囲まれていた。 」
バス停の右奥に鳥居があるが、
その奥の呑香稲荷神社の社殿が建つ高台が松の丸跡である。
郵便局前を過ぎた先の三叉路を右折し、
少し行くと右側に寺の墓地があるが、これが松の丸跡である。
道脇に「案内図」という石標が建っている。
近くの道標には「←二の丸搦手391m、石沢館339m、 二の丸大手391m、
若狭館561m→」 と書かれている。
道標に従い、左折して、二の丸搦手へ向うと左手に駐車場とガイドハウスがあるが、
このあたり一帯が三の丸の跡である。
道を進むと左右は高い土塁で囲まれているが、 道である空掘の左右は広く、兵は多く押し寄せてこられるが、 土塁は急でもろく、登るのは困難、上から鉄砲や弓矢で一斉に攻撃されてしまうので、 城を落とすことが困難である。
「 九戸城主、九戸政実は、 南部宗家相続争いで九戸氏を差し置いて惣領を継承した田子信直に対し、 天正十九年(1591)、南部氏二十六代当主の座に弟を擁し、兵を挙げ、 三戸城の田子信直と奥州南部を二分して争った。 緒戦は九戸軍が優勢だったが、田子信直が天下人秀吉の領地安堵をとりつけたことから、 天下の謀反人として、 秀吉の派遣した奥州仕置軍(豊臣秀次を総大将に浅野長政、 蒲生氏郷や関東、奥羽の諸将を鎮圧軍として派遣)と戦うことになり、 形勢が逆転、九月二日、馬渕川流域をはさんで、再仕置軍は約六万人、 九戸籠城軍は約五千人が対峙し、九戸城を包囲したが、城は落ちなかった。 」
上の地図に九戸城を取り囲んだ仕置軍の配置が書かれている。
「 籠城を続ける九戸軍に対し、
九月四日、助命の約束で降伏開城させた。
しかし、約束は反故にされ、政実を始め主な者は処刑され、
城内にいたものは皆殺しにされた。
開城後、九戸氏の残党に対する警戒から、
秀吉の命により仕置軍の軍監、蒲生氏郷が城と城下町を改修して、
姓を変えた南部信直に引き渡され、南部信直は三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めたが、
領民は九戸氏に対する思いから九戸城と呼び続けたといわれる。
慶長二年(1597)、盛岡城の完成で、南部氏の居城は盛岡に移ったが、
九戸城は寛永十三年(1636)まであったという。 」
土塁は草や木が生い茂っていたので、当時の姿ではないと思うが、
NHKのヒストリアで九戸政実の乱が取りあげられた際、
奈良大の教授が「鉄壁の曲輪と土塁だ!!」と賞賛していたのを思い出した。
「二の丸搦手門跡」の石柱があるところにくると、ここは一段高くなっていて、
庚申塔と金毘羅大権現の常夜燈と土井晩翠の歌碑が建っていた。
「二の丸搦手門跡」の説明板が立っていた。
「 二の丸搦手は二の丸の出入口である虎口の一つで、
南部信直が居城にした福岡城の普請の際、改修したと推定される。
現状は細い通路になっているが、古絵図では二の丸大手と同じく、
方形の空間を持つ枡形の虎口だったものがある。
二の丸搦手から堀底道を通り、若狭館、石沢館、三の丸の曲輪に行くことができる。
また、九戸氏の本拠である九戸方面への道筋に通じていることから、九戸氏時代から重要な虎口だった可能性がある。
平成二十七年に実施された地中電気探査では、
虎口に関連がある階段状の遺構の存在が確認されている。 」
空掘に架かった土橋を渡るが、下の空堀は大きく深いものである。
その先に「本丸追手口跡」の石柱がある。
「 本丸追手門は二の丸から本丸に入る虎口の一つで、 南北双方から伸びる土塁がここでクランク状に屈曲していて、枡形になっている。 この枡形は戦国時代末期に特色的に見られる虎口の形態で、 敵の軍勢が一挙に攻め込みにくい形の防御施設である。 現在、二の丸とは土塁で繋がっているが、 当時石垣の築かれていたこの空堀には土橋はなく、木橋が架かっていたと思われる。 」
その先に「九戸城本丸跡」の石柱がある。
「 本丸はほぼ百メートル四方の方形の曲輪で、 西南、東南、西北の隅に櫓が築かれ、東北隅は一段低い特別の区画になっている。 南側と東側には土塁が築かれ、土塁の両面は石積あるいは石垣が築かれている。 また、土塁の一部には枡形と呼ばれるクランク状の屈曲が見られ、 本丸と二の丸を結ぶ虎口を形成している。 この他、西南隅にも三の丸に降りる虎口があったと見られる。 二の丸、松の丸とともに直線的な造りであり、 石垣とともに近世的な特色が強く現れていて、 落城後に南部信直により築かれたものと推定されている。 」
九戸城の占地や縄張りには南部地方の城の特色が色濃く見られるが、
本丸と二の丸は九戸政実が落城後に築かれたため、
この部分には石垣や枡形虎口などの近世的城郭と特色も強く、
中世から近世への過渡期の城である。
「本丸跡」の説明板があった。
「 本丸平場は東西に石段で区切られ、段差が造営されている。 平場奥の北側、西側は一段高くなり、出入口と推定されている。 本丸には七棟の建物跡が確認されている。 うち、一棟は礎石建物跡であったことが分かっている。 発掘調査の結果、平場の造成層とその下層から異なった遺物が出土して、 平場のほとんどが落城後に造成されたと思われる。 」
説明板の先に階段があり、その先に「隅櫓跡」があるが、 よく見ると石垣で造られている。
「 この石垣は東北最古の城郭石垣で、天正十九年(1591)の落城直後に築かれ、 蒲生氏郷をはじめとする大名の配下で、 穴太衆という石垣構築専門集団によるものと考えられている。 」
本丸と二の丸は空掘で区切られている。 「九戸城二の丸跡」の石柱があった。
「 二の丸は三の丸を除くと城内最大の曲輪であり、 本丸をL字形に囲む形をなしている。 本丸、松の丸とともに、直線的な造りであり、本丸との間の空堀には石垣が築かれ、 虎口は信長や秀吉による全国統一が進行していた戦国時代末期の築城様式である枡形になるなど、 九戸城の中でも近世的要素の強く見られる部分である。 特に石垣は古式穴太積と呼ばれるもので、 これらは九戸城落城後に豊臣秀吉の命により、 蒲生氏郷が行った城普請の際に築かれた可能性が指摘されている。 」
隣に「本丸石垣」の説明板があった。
「 残されている石垣は隅石が失われ、 V字に崩れていることから、寛永十三年(1636)の廃城時に破却された可能性がある。 また、南堀跡は南面の石垣と北面の石垣の積み方が異なる。 北側石垣は横目地が通らないことから、在地系の職人による可能性が指摘される。 」
覗いてみたが、草木で覆われ石垣を見付けるのも困難になっていたのは残念だった。
「本丸虎口跡」の石柱があった。
「 本丸と二の丸を結ぶ虎口はここと追手門の二ヶ所にあるが、 こちらは古図や伝承に名称がなく無名の虎口である。 追手門と同様、枡形になっているが、こちらは堀が途切れる場所にあり、 木橋はなく、二の丸と直接出入りする形になっていて、 門などの堅固な構造物があったと思われる。 平成二年の発掘調査ではこの門に伴うと思われる礎石の一部が確認された。 」
「二の丸大手」の説明板もあった。
「 二の丸には出入口である虎口が三ヶ所開かれているが、
正面とされるのは二の丸大手である。
大手は城郭において政治的、軍事的に重要な道筋で、
堀をはさんで、武方屋敷跡とされる在府小路遺跡と土橋でつながっていた。
二の丸大手は福岡城普請の時に改修されたと推定される。
古絵図では方形の空間を持つ枡形の虎口が描かれている。 」
二の丸大手から時計廻りですすむと、「史跡九戸城跡」の石柱がある道に出た。
この道は先程三の丸へ入った入口の延長線の道で、
それに向って進むと左側に「堀跡」の石柱があり、これは「大手門脇堀跡」とのことだった。
九戸政実の乱だが、城明け渡しの条件が政実と家臣、城に籠った住民の生存だったが、
この約束は反故にされ、政実はじめ主だった首謀者は処刑され、
城内に居た者は女、子供構わず撫で斬りにされて皆殺しされた。
「 九戸政実の乱は、
小田原の北条氏を滅ばした後の秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、
豊臣軍が攻め倦んだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消された。
二ノ丸跡の発掘調査では、
首を刎ねられて刀傷を負った女性を含む複数の人骨が発掘されたという。
慶長二年(1597)の不来方(盛岡)築城により、南部氏の居城は盛岡城へ移されたが、
九戸城は寛永十三年(1636)の廃城、破却まであった。 」
これで三の丸から本丸、二の丸を一周りしたことになり、九戸城の探訪は終了した。
九戸城へはJR東北新幹線・いわて銀河鉄道二戸駅から岩手県北バス「伊保内営業所行き」またはJRバス「二戸病院・軽米病院行き」で3分、
呑香稲荷神社前で下車、徒歩約10分でガイドハウス(三の丸跡)
九戸城のスタンプは九戸城のガイドハウスにて