mrmaxの城めぐり 岩手県2 (盛岡城)


盛岡城は南部信直、利直父子が二つの川(中津川と北上川)の合流点に築き上げた堅城である。
日本100名城の第6番に選定されている。 


かうんたぁ。




盛岡城

平成三十年五月三十一日、九戸城を見学後、 二戸駅から十三時三十二分発はやぶさ二十号で、盛岡城へ向かう。 
盛岡駅にはあっという間の十三時五十分に着いた。 
泊まるホテルが駅前なので、そこに荷物を預けて、バスで盛岡城に向った。 
盛岡都心循環バスでんでんむし左回りで約十分で、岩手公園で下車。 

「 盛岡城は南部信直、利直親子より北上川と中津川の合流地点の残丘上に築城された連郭式平山城である。 
関ヶ原の戦いで、家康に味方した盛岡藩初代藩主南部信直は、 居城を三戸から不来方(こずかた)に移す決断をし、 慶長二年(1597)、嫡子信利(二代藩主)を總奉行として築城を開始、 翌慶長三年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められた。 
城の縄張は浅野長政の助言によるものといわれ、 北上川と中津川の合流地点に突き出した残丘に、 本丸、二の丸、腰曲輪などを配し、それぞれに石垣を構築し、内曲輪(御城内)とし、 さらに、内曲輪の北側は起伏の激しい土地(現在の内丸地区)を平坦にして堀で囲み、 南部一族や藩の家臣らの屋敷を配して外曲輪にした。  また、外曲輪の中津川対岸の城下を掘で囲み、 武士や町民たちの屋敷街である遠曲輪(総構え)を配した。 
完成までに四十年程の歳月をかけ、寛永十年(1633)に三代藩主南部重直が入城し、  以後明治維新まで、盛岡南部氏代々の居城として続いた。 」 

バス停を降りて目の前に見えたのは二の丸を囲む見事な石垣である。  

「 盛岡城は東北地方では珍しい総石垣造の城で、 盛岡産の大きな白い花崗岩が特徴、 土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っていた。  その石垣の見事さにより、 会津若松城とともに東北の石垣造り三大名城の一つにあげられる。 」 

二の丸に向って上り始めると、左側にある高石垣は榊山稲荷曲輪の石垣で、 右に屈折し進むとその先は枡形になっていた。 
突き当たりは三社跡の四阿で、枡形は吹上御門跡である。  

二の丸を囲む石垣
     榊山稲荷曲輪石垣      吹上御門跡
二の丸を囲む石垣
榊山稲荷曲輪石垣
吹上御門跡



その先に進むと「ここは腰曲輪」の案内板があり、「 この付近は藩主が乗馬の練習をした馬場になっていた。  この説明板と本丸石垣の間である。 」 とあった。 
案内板の正面には腰曲輪の変遷が書かれていた。 

、「 発掘調査により腰曲輪は四期にわたって変化していることが分かった。  最初は不来方城(福士氏の居城)時代で、斜面に空掘、土塁などが階段状に設けられ、 本丸の周囲を廻っていた。  盛岡城第一期(南部氏が居城を開始した時期)で、 本丸や二の丸などに石垣が築かれたが、 腰曲輪は土手のままで、周囲には柵が廻っていた。  盛岡城第二期(壱七世紀後半)、腰曲輪の南側と東側、北東側に石垣が築かれた。  盛岡城第三〜五期(十七世紀後半)腰曲輪西側にも石垣が築かれた他、 南側のくぼ地も次第に埋め立てられ、 江戸末期には現在のような平坦な地形になった。 」 

馬場は吹上馬場と呼ばれ、その先には御宝蔵があったようである。 
手前の左側に 「 月待つや 独り古城の 松のもと 小提灯 」 という句碑が建っていた。 
その脇の石段は本丸に通じる階段である。 

腰曲輪
     句碑      本丸への階段
腰曲輪・吹上馬場
宮野小提灯句碑
本丸に通じる階段



石段を上った先は本丸で、明治時代に南部中尉の銅像が建立されたが、 第二次大戦の時供出され、今は台座だけが残る。 
左手隅(南西端)にあったのは本丸御二階櫓だが、明治七年(1874)に壊されて今はない。 

「 盛岡藩は明治維新時、会津藩などと旧幕府軍に組みしたので、 明治政府からは朝敵とされ、 盛岡城は明治七年(1874)、石垣を残した以外、すべての建物が取り壊されて、 荒廃した。 」 

本丸への石段は明治三十九年(1906)に岩手公園となった後造られたものだろう。 
本丸には中奥や大奥などの建物が建てられていたが、今は「本丸跡」の石柱があるだけである。 
左手隅(南西端)にあったのは本丸御二階櫓だが、 明治七年(1874)に壊されて今はない。  
右手(南東端)の櫓台に四阿が建つが、ここは天守台である。 

「 本丸に天守台を築いたが、幕府への遠慮から天守は築かず、 御三階櫓を建て天守の代用とした。  その後、南部藩十二代藩主、南部利済により、 天保十三年(1842)に天守へと改称されたという。  この天守台の左側には多聞櫓があり、その先の脇櫓と繋がっていた。 」  

銅像の台座
     御二階櫓跡      天守台
銅像の台座
奥の櫓台は御二階櫓跡
天守台(御三階櫓)



御末御門は本丸東側の中央にあり、右側に脇櫓、左側は北西端の隅櫓と繋がる多聞櫓で構成され、 入口はスロープの外枡形で守りを固めていた。 
御末とは宮中、将軍家や諸侯などの奥向きで雑用に従事する女中が詰める部屋のことである。  ここでは大奥の裏にある門から名付けられたのだろう。 
本丸の西側中央には、現在、朱塗りの渡雲橋が架かっているが、 城があった当時は廊下橋(屋根付橋)が架けられていた。  

「 御廊下橋は二の丸と繋がっていて、 殿様はこの橋を使用して二の丸と行き来していた。  また、御廊下橋は右側(北東部)にある隅櫓、 左側(北西部)にある網戸櫓と多聞櫓で繋がっていた。 」 

御末御門を下るとクランク状の枡形で、江戸時代には冠木御門があり、 その奥に淡路丸があった。 
左手奥は現在多目的広場になっているが、かっては台所があり、 台所御門があったようである。 

御末御門跡
     朱塗りの橋      淡路丸
御末御門跡
朱塗りの橋
淡路丸



本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られている。 
淡路丸から本丸と二の丸を見ると、それを支える石垣は立派で、 また、防衛力も強かったように思えた。 
本丸と二の丸の石垣には古い打込接乱積(うちこみはぎらんづみ)や新しい打込接布積(うちこみはぎぬのづみ)のほか、 一部に築城当時の野面積が見られる。 
二の丸は周囲に植栽が多く植えられているが、中央に「二の丸跡」の標石があった。 

「 二の丸は明治三十九年(1906)、岩手公園になる際、 ほぼ同一平坦面に整備造成されたため、藩政時代と異なっている。 
それ以前の南東部は二メートル程高くなっていて、 その上に大書院と呼ばれる御殿が建っていた。  本丸が狭かったため、表御殿は本丸ではなく、二の丸に設けられていたのである。  ここではさまざまな儀式や儀礼が行われた他、藩主との対面の場になっていた。 
南西部も二メートル程高くなっていて、南西部の石垣は西側に延びて、 喰違虎口を形成し、淡路丸や台所通じる穴門が設けられていた。  この石垣が明治の公園整備の際に失われた。 」 

西側の望岳亭の四阿に井戸跡の石組が残っている。  また、新渡戸稲造記念碑、警察彰功碑、消防義魂碑が建つ。 
北西部に石川啄木の歌碑があり、それには 「 不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心 啄木 」  と書かれている。  

「 旧制盛岡中学時代の石川啄木は盛岡城跡をしばしば訪れたという。 
当時の盛岡中学は内丸通りにあり、二百メートルと離れていなかった。  学校の窓から逃げ出してきて、文学書や哲学書を読み、白日の夢を結んだのが盛岡城二の丸。  かってはここから岩手山を遠望でき、盛岡市内も見下ろせる風光の地だった。 」 

歌碑は昭和三十年に建立されたもので、歌碑の文字は金田一京助である。 

本丸と二の丸の石垣
     二の丸跡      石川啄木の歌碑
本丸と二の丸の石垣
二の丸跡
石川啄木の歌碑



石川啄木の歌碑の右手(北東部)にあるのは車門跡である。 
二の丸の北側は巾三・五メートル〜五メートルの石土居で囲まれていて、 北東部に車門が設けられ、喰違虎口になっていた。 
車門を出た先は三の丸である。  

「 三の丸には南部稲荷神社が祀られ、その横に烏帽子岩がある。 
盛岡城を築城の時、二代藩主南部利直は三の丸の高さが二の丸とほぼ同じ高さだったので、 地形を削るように命じた。  その命令により、三の丸にあった三角状の岩の周囲も削られた。  しかし、岩の根は深く、堀進むと神事や儀式に用いる烏帽子に似た巨大な岩石が現れた。 これを見た南部利直はまことにめでたい兆しであると喜び、 それ以降、盛岡藩の守り岩として歴代の藩主が崇め、  烏帽子岩には注連縄を張り、権現舞や獅子踊りなどを奉納し、 藩内の平安息災神事が行われた。 」 

その先にある修復中の石垣は三の丸瓦御門の石垣である。 
瓦御門は枡形の虎口で、かっては瓦葺の櫓門になっていた。 
瓦御門跡を過ぎると一段低い場所に桜山神社がある。  

「 江戸時代中期寛延二年(1749)、 南部藩八代目(南部家三十三世)利視が南部藩初代(南部家二十六世)信直の遺徳を偲び、 城内淡路丸に神殿を建立、淡路丸大明神として祀ったのが最初。  十一代(南部家三十六世)利敬が文化九年(1812)桜山大明神に改称し、 同十五年(1818)南部家初代光行を合祀した。  盛岡城廃城により他に移されたが、 明治二十二年(1899)に三の丸鳩森下曲輪(御蔵跡、勘定所跡)に本殿、拝殿、神門を建立、 翌年現在地に遷座された。  大正元年(1912)に盛岡藩三代目(南部家三十六世)利政を合祀した。 」 

車門跡
     瓦門跡      桜山神社
車門跡
瓦門跡
桜山神社



桜山神社を出て右折すると内掘があり、その先にもりおか歴史文化館がある。  日本100名城の盛岡城のスタンプはここにある。 
中津川を渡ると左側に赤レンガ造りの建物・岩手銀行赤レンガ館がある。  

「 明治四十一年(1908)に盛岡銀行本店として着工し、 明治四十四年(1911)に竣工した建物で、 日本銀行本店などを手がけた辰野金吾と盛岡出身の葛西萬司が設計を担当。  辰野の作品の中では、東北地方で唯一現存する建物である。  交差点の角に建ち、東南隅に八角形の塔、南面の西寄りには四角形の塔を設け、 東面北端には切妻屋根が突出するなど立体感に富んだ構成で、 外壁は赤レンガに花崗岩の帯を回す。屋上にドームを載せる点、 赤レンガに石材でアクセントを加える点などに辰野の作風が現れている。  平成六年(1994)、岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館の名称で、 現役の銀行建築として初めて国の重要文化財に指定された。 」 

その先の交叉点を右折するとみずほ銀行・青春館前のバス停の右側に 「もりおか啄木賢治青春館」がある。  

「 もりおか啄木賢治青春館は、岩手県出身の石川啄木、 宮沢賢治と彼らが中学生時代を過ごした盛岡の地をメインテーマとする文学館で、 建物は明治四十三年(1910)竣工の旧第九十国立銀行本店本館で、 国の重要文化財に指定されている建物である。 」 

この後、来た道を引き返すが、中津川の橋の手前にあるプラザおでっての二階に観光文化情報プラザがあり、 ここにも100名城のスタンプがある。 
もりおか歴史文化館がある交叉点で右折すると盛岡市役所、 左折した通りには県庁があり、その先に盛岡地方裁判所がある。 
この一帯は内丸と呼ばれるところで、 盛岡城の内堀と中津川で囲まれた区域を意味する。  

「 寛永十三年(1636)、三代藩主、 南部重直は御新丸という別郭を造っている。  中掘は堀と土塁で廻らされ、外の町と区別されていた。  東に内橋御門、北に大手先御門、西に日影御門があり、 検問を受けなければ入れなかった。  明治三年(1870)に門が撤去、堀も埋められて、出入りが自由になった。 
武家屋敷も払い下げられて、取り壊された。  明治維新後は県庁が置かれ、官庁街として発展する。  明治十三年(1880)に盛岡中学(現盛岡第一高校)が設立され、 石川啄木や宮沢賢治などが学んだ。 」 

国の指定天然記念物である石割桜のある盛岡地方裁判所は、 江戸時代に南部北家の武家屋敷があった場所である。 
夕食は盛岡冷麺の元祖とされる食道園に行き、 牛ロースカルビの焼き肉と冷麺を食べた。  冷麺に角切りの大根が乗っているのが特色で真冬の冷えた冷麺は歯ごたいがよく、 秋田からも食べに行くと言っていたのを思い出した。  十数年前に妻と訪れて以来だが、いつ来てもよいと思う。 

岩手銀行赤レンガ館
     啄木賢治青春館      石割桜
岩手銀行赤レンガ館
もりおか啄木賢治青春館
石割桜



盛岡城へはJR東北新幹線・東北本線盛岡駅から「盛岡都心循環バスでんでんむし」左回りで約10分、岩手公園で下車、
すぐ  
盛岡城のスタンプはもりおか歴史文化館か、「プラザおでって」2Fの観光文化情報プラザにて  




花巻

盛岡城訪問の翌日(平成三十年(2018)六月一日)、盛岡駅南口でレンタカーを借り、花巻に向う。 
花巻空港に近いところにある宮沢賢治記念館に行った。  宮沢賢治記念館には賢治の時代、地域、家族といった賢治の周辺を紹介していたが、 現代的展示で賢治の世界とは違和感を感じた。 
花巻に妻と訪れた時には北上川河畔のイギリス海岸に訪れ、 高村光太郎の山荘にも訪れた。  その時訪れた記念館下にあるイートハーブ館に行ったが、 賢治の世界を表すとしていた庭園は荒れ果てた感じになっていて、 哀れな姿になっていた。  以前は季節の花で花時計があったりして、ロマンがあった。 

宮沢賢治記念館
     注文の多い料理店      イートハーブ館
宮沢賢治記念館
注文の多い料理店山猫軒
イートハーブ館






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