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その先の右側に地蔵堂があり、その先には観音堂がある。
左側にある薬師堂は清衡が境内に建てた四十数堂塔のひとつで、
当初は別の場所にあったが、明暦三年(1657)に現在地(東谷)に移転した。
「 現在の建物は明治十八年(1885)に改修されたものである。 本尊は慈覚大師作と伝えられる薬師如来、脇侍は日光、月光菩薩である。 また、薬師十二神像が建立当初より併置されている。 」
更に進むと右手の小高いところに本堂があった。
「 中尊寺本堂は中尊寺の中心となる堂塔のひとつで、 年間を通じて多くの法要、儀式、そして様々な行事が行われている。 現在の本堂は明治四十二年に再建されたもので、 本尊の釈迦如来坐像は丈六仏という一丈六尺の大きな仏像である。 この御本尊は平成二十五年に初代清衡公が中尊寺造営の折、 丈六皆金色の釈迦如来を中尊寺の本尊に安置したことにならい、 建立して安置いたという。 本尊の両脇には伝教大師最澄時代から脈々灯りつづける「不滅の法灯」が 本山延暦寺より分燈、護持されている。 」
その先は交叉点で左右は北参道で左の石段を下りると中尊寺バス停方向である。
交叉点の先右側には峯薬師堂と大日堂があり、左手には不動堂がある。
「 峯薬師堂に祀られている薬師如来像は金箔に覆われていてとても煌びやかである。
目の神様とのことで、境内にはひらがなで「め」と書かれた絵馬や「め」がいくつも描かれた旗、
そしてお守りなどに「め」に関するものがたくさんあり、多くの人で賑わっていた。 」
その先右手の高いよころに鐘楼がある。
「 康永二年(1343)に金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。 撞座は長い歳月に渡る打鐘でくぼみ、現在この鐘が撞かれることはない。 鐘身の銘文には建武四年(1337)山上の堂塔が火災により焼失したと記し、 奥州藤原氏以降の歴史を伝える資料として貴重である。 径八十六センチ。 」
その先にあるのは阿弥陀堂で、幟には「金剛蔵王大権現」とある。
その反対側に見えるのは金色堂である。
妻と訪れた十六年前はまっすぐ入ることができたが、
今は讃衛蔵なる建物ができ、そこで拝観券を購入し、弁財天堂にある入口で並び、
十数名毎にグループにして案内する仕組みに変わっていた。
「 讃衡蔵は奥州藤原氏の残した文化財三千点あまりを収蔵する宝物館で、 平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが収納されている。 」
世界遺産に登録されたことで、外国人が多くくるようになり、
当日も中国人や台湾や韓国というようなアジア人が多かった。
平日なので、日本人は修学旅行の学生が大部分である。
金色堂には中国人ツアー客の後について入る。 境内は撮影禁止である。
「 金色堂は天治元年(1124)、奥州藤原氏初代清衡により上棟された、中尊寺の堂塔の中でとりわけ意匠が凝らされ建物である。 清衡は極楽浄土の姿を再現しようと、当時の工芸技術を結集し、 金箔の押された「皆金色」と称される金色堂の内陣部分には 南洋の海からシルクロードを経由して運ばれていた夜光貝を用いた螺鈿細工を施し、 象牙や宝石により飾られている。 須弥檀の中心に阿弥陀如来、その両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、 増長天を配置するという、他に例のない仏像構成となっている。 」
前回見た時より輝いていたので、修復工事が行われたことによるのだろう。
まさに見事の一言である。
「 孔雀のあしらわれた須弥檀の下には、
初代清衡公をはじめ四代の亡骸は金色の棺に納められている 」という説明を聞き、
合掌した。
「賢治詩碑 中尊寺七重の舎利小塔」の木柱の右側に宮沢賢治の詩碑があった。
昭和三十四年に建立されたものである。
「 七重の舎利小塔 蓋なすや 緑の燐光 大盗は銀のかたびら おろがむとます ひざだてば しゃのまなこ
ただつぶらにて もろの肱 映えかがやけり 手触れ得ぬ 舎利の宝塔 大盗は礼して没する 」 とある。
松尾芭蕉の「 五月雨の降り残してや光堂 」 の句碑があった。
経堂は国の重要文化財に指定されている。 創建当時の古材を使用して再建されたもので、堂内には平安時代の彩色文様が
確認できる。 国内最古の保安三年(1122)の棟札が伝えられる。
本尊の騎師文殊菩薩と四眷族像(重文)、金字一切経(国宝)などは讃衛蔵に安置、収蔵されている。
その先の奥にある関山天満宮は鎌倉時代、菅原道真第十四世孫、五条為視が勅命により、
奥州平泉に下向逗留の時、出生した乙王丸(後の中尊寺経堂別当第十三世行栄和尚)に京都北野天満宮より勧請して授けた
天満自在天神の御真影と観世音菩薩を祀っている。
道の左側に芭蕉像と奥の細道の石碑があり、その先に旧覆堂がある。
正応元年(1288)の棟札より、鎌倉幕府によって金色堂が修復され、覆堂が建てられたと考えられる。 近年の調査では、
金色堂建立後五十年ほど後、簡素な覆屋根がかけられ、増改築を得て、室町時代中期(十六世紀)に現在の形になったものと
見られる。 昭和三十八年(1963)、新覆堂の建築に伴い、この場所に移築された。
その先に釈迦堂があり、その先で三叉路に出た。
三叉路の左に「国の重要文化財 野外能楽堂」の看板があるので、
鳥居をくぐって進むと、最初にあったのが能楽堂である。
「 能舞台は嘉永二年(1849)伊達藩主伊達慶邦が再建奉納したものである。 なお、天正十九年に関白豊臣秀次と藩主伊達政宗が参拝の折、観覧に拝し、以後今日まで続いている。 明治九年秋、明治天皇が東巡の折に古式及び能楽を天覧された。 」
その奥にあるのが白山神社である。
「 白山神社は仁明天皇の御代、喜祥三年(850)中尊寺の開祖、 慈覚大師が加賀白山をここに勧請し、自ら十一面観音を作って、 中尊寺の鎮守、白山大権現と号させた。 配仏としては樋爪五郎季衛の持仏で 運慶作の正観音と源義経の持仏で毘沙門天が配案されていたが、 嘉永二年(1849)の火災で焼失した。 」
境内には「明治天皇天覧所」の石碑が建っていた。
もと来た道を引き返すと、左手の低いところに弁財天堂があった。
「 本尊の弁財天十五童子は宝永二年(1705)、仙台藩主伊達綱村の正室仙姫の寄進である。 現堂宇は正徳六年(1716)に建立された。 国宝「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図」十帖は仙姫寄進の厨子に奉安されて いたが、今は讃衡蔵に移され、収蔵されている。 」
駐車場まで戻ると、十二時過ぎで中尊寺に一時間四十分程いたことになる。
休憩を兼ねて、店に入り、天もりそばを食べる。 わんこそばが名物だが、もりそばにした。
十三時前出発し、高館義経堂に向う。
交叉点を越えた左に「武蔵坊弁慶の墓」の石碑があり、傍らにあった案内には
「 文治五年(1189)義経居城が焼き打ちされるが、弁慶最後まで主君を守り、遂に衣川で立往生する。
遺骸をこの地に葬り、五輪塔を立て、後世中尊寺僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた。 色かえぬ松のあるじや武蔵坊 」 と
書かれていた。 小高くなっているのが墓なのか? 大きな松があった。
◎ 高館義経堂
踏切を渡ると「←中尊寺 高館義経堂 無量光院跡→」の道標があり、
その左側に「卯の花清水」とある。
「 文治五年、高館落城のとき、主君義経とその妻子の悲しい最後を見とどけ、
死力を尽くして奮戦し、敵将諸共火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣兼房(かねふさ)年六十六。
古来ここに霊水がこんこんと湧き、里人はいつしか卯の花清水と名付けて、愛用した。 」
元禄二年五月、芭蕉は門人曽良(そら)とこの地を訪れた。
その際、曽良は老体に鞭打って義経のために討ち死にした兼房を称え、
「 卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな 」 という句を詠んでいる。
道標に従い、道を右にとり、その先で右折して上っていくと左側に「高館義経堂」の看板があり、料金所があった。
ここ高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれている。
「 現在はその半ばを北上川に浸食されて狭くなっているが、 この一帯は奥州藤原氏初代清衡の時代から要害地とされてきた。 兄頼朝に追われ平泉に落ち延びた源義経は藤原氏三代秀衡の庇護のもと、 この高館に居館を与えられた。 」
料金を払い、階段を上り、三叉路を左折し進むと丘の頂上に義経堂がある。
「
文治五年(1189)閏四月三十日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子、四代泰衡の急襲にあい、
この地で妻子ともに自害したと伝えられる。
天和三年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村は義経を偲んで義経堂を建て、中に義経の木造を安置した。
その脇には源義経主従供養塔(宝きょう印塔)がある。 」
高館からの眺望は平泉随一といわれ、
東にとうとうと流れる北上川、東稲山が見え、
西からはかってこの流域で前九年、後三年の役の戦いの場であり、
弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流している。
秀峰、東稲山は安倍頼時の時代に桜の木を一万本植えたといわれる桜の名所だった。
藤原三代の頃は見事な花が山々や川面を彩ったと思われる。
「 俳聖、芭蕉が門人曽良を伴い、平泉を訪れたのは元禄二年(1689)旧暦五月十三日(六月二十九日)。 高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺め、 百年に渡り平泉文化を築き上げてきた奥州藤原氏の栄華やこの地で散った義経を 思い、句を詠んでいる。 」
芭蕉が詠んだ有名な歌の句碑が三叉路を右折して行った突き当たりにある。
「 三代の英耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。 秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。
先高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。 (中略) 「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と笈打敷て
時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や 兵共が 夢の跡 」
その手前には頼三樹三郎の詩碑がある。
「 彼は幕末の尊王攘夷派の志士、儒学者で、頼山陽の第三子である。
勤王の志堅く、幕府にとがめられて、盛岡に一時逃れた。
弘化三年(1846)平泉を訪れた時に詠まれた漢詩で、
また、二十二歳の雄渾な筆使いを残す形見である。
安政五年(1858)の安政の大獄で捕えられ、
翌六年、三十五歳で小塚原刑場の露として消えた。 」
◎ 毛越寺(もうつうじ)
駐車場に戻り、車を町営毛越寺駐車場に入れて、毛越寺に行った。
「 毛越寺を造営したのは奥州藤原氏二代基衡である。 毛越寺の由来では 「 嘉祥三年(850)、慈覚大師が東北巡遊の時、この地にさしかかると一面霧に覆われ、 足元を見ると地面に点々と白鹿の毛が落ちていた。 その跡をたどると白鹿が蹲っているのが見えた。 近づくとその姿が消え、やがて、一人の白髪の老人が現れ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げて消えた。 大師はこの老人は薬師如来の化身と感じ、 一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号した。 これが毛越寺の起こりである。 」
山門にある拝観券発行所で料金を支払い、中に入ると左に宝物館があり、
毛越寺に伝わる平安時代の仏像、書籍、工芸品などが陳列されている。
右手に芭蕉の「兵共は夢の跡」の句碑がある。
「 その先にある本堂は毛越寺一山の本坊で、 平安様式で平成元年に建立されたものである。 平安時代の作の本尊、薬師如来、脇士日光、月光菩薩を安置している。 」
本堂の右手に円形に池に突き出ている場所は南大門の跡である。
もともとの毛越寺は池の向うに伽藍を林立させた浄土式の寺院で、
ここに寺に入る正門があった。
南大門の両側には仁王像を安置し、正面に金堂円隆寺の勅額が掲げられていた。
また、門の左右には築地塀が廻らされていた。 礎石十二個が完在する。
慈覚大師が嘉祥三年(850)に創建した毛越寺は大火で焼失し荒廃していたが、 奥州藤原氏第二代基衡夫妻と子の第三代秀衡が壮大な伽藍を再興した。 臨池伽藍と浄土庭園である。
「 池は大泉ヶ池で、塔山を背景に仏堂の前に造築された庭園で、池には南大門から中島、さらに円隆寺へと続く二つの橋が架けられていた。
池は海を表現していて、汀には洲浜、荒磯、築山など海浜の景観が配されている。
現在は橋がないので、池に沿って左に行くと池の南西、洲浜、荒磯と対応した位置に築山がある。
水面より約四メートルの高さに築から、水際から山頂近くまで大小各種の石を立て、
海岸に迫る岩山を表現している。 」
その先にある開山堂は毛越寺を開いた慈覚大師を祀るお堂である。
「 慈覚大師は天台宗第三代座主となり、日本初の大師号を授けられた。 在唐九年間の紀行「入唐求法巡礼行記」はマルコポーロの東方見聞録、玄弉三蔵の西域記とともに三大旅行記として 評価が高い。 お堂には両界大日如来像、藤原三代の画像を安置している。 」
その先には広い空地が横たわるが、その奥にあったのは嘉祥寺である。
「 吾妻鏡によると、二代基衡が工事を始め、三代秀衡が完成させた。
その前身は開山までさかのぼり、寺名は年号に由来する。
本尊は丈六の薬師如来であった。
基壇は亀頭式の土壇である。
建物の規模は正面七間(約27.9m)、側面六間(約22.5m)で、左右に廻廊があり、
左側は開山堂まで、右側は池近くまであり、堂の壁と廊には法華経の教えが描かれていたという。
開山堂も嘉祥寺も鎌倉時代以降に火災に遭い、消滅した。 開山堂は最近の建築である。 」
鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」によれば、毛越寺には堂塔四十余宇、
禅房五百余宇があり、
円隆寺と号する金堂、講堂、常行堂、二階惣門、鐘楼、経蔵があり、
嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。
その先にあるのは講堂跡である。
「 講堂は仏法を説き、仏法を聞く堂舎で、 また、潅頂という密教儀式を行う奥州の潅室だった。 正面は五間(19.1m)側面は四間(15.1m)の建物で、礎石三十四個が完在する。 本尊は胎金大日如来。 嘉禄二年(1226)の火災後 再建するも、天正元年(1573)の戦いによる火災で類亡した。 」
毛越寺の中心的なお堂は池向うの中心部にあった円隆寺金堂である。
金堂円隆寺は奥州藤原家二代基衡が建立した勅願所で、
金銀、紫檀をちりばめ、万宝を尽くしてつくられた建物で、
その荘厳は「吾妻鏡」に「吾朝無双」と称えられるほどだった。
基壇は石造り壇上積で、 本尊は雲慶作の丈六の薬師如来だった。
円隆寺から左右対称(東西)に翼廊が延び、それぞれ大泉ヶ池の汀に向って南に折れ、
その先には東端先端の鐘楼、西端先端の経堂があった。
豪華な伽藍の円隆寺は嘉禄二年(1226)の火災で焼失してしまった。
「 毛越寺境内遺跡は、昭和二十九年(1954)より五か年にわたって全面的に発掘調査がなされ、
その規模や構造などの全容がほぼ解明されている。
とくに金堂跡は桁行七間、梁間六間に復原される礎石がほぼ完存しており、
土壇の四周には基壇地覆石がめぐらされ、雨落溝の構造も残っている。
左右には翼廊跡があり、前方に折れてその両端にそれぞれ楼の跡も残っている。
これらのことが毛越寺を世界遺産に認定する根拠となった。 」
鐘楼は金堂東廊の南端に連なる建物で、雨落溝が土檀をめぐり、
その水は池に注ぐように造られている。
土檀の礎石は十六個のうち十三個が完存する。
現在の鐘は昭和五十年、人間国宝香取正彦氏の作で、
天台宗座主山田恵諦大僧正の銘が刻まれている。
姿形は平等院風を思わせ、美しい音色を響かせる、とあった。
円隆寺跡と常行堂の間に流れている水路は遣水(やりみず)である。
山水を池に取り入れるための水路であるが、
谷川を流れ下り更に蛇行しながらゆったり平野を流れる川の姿を表現している。
水底には玉石を敷き詰め、流れに水切り、水越し、横石などの石を配し、
作庭記に記されている技法を目の前にできる貴重な遺構である。
毎年ここでは遣水に盃を浮かべ、流れに合わせて、
和歌を詠む、曲水の宴という平安時代の遊びを再現している。
現在の常行堂は 享保十七年(1732)に再建された建物で、
本尊は宝冠阿弥陀如来、脇士は四菩薩、奥殿に摩多羅神を祀る。
祭礼は正月二十日で、古式の法要の後、延年の舞が神仏に奉納される。
常行堂の東に法華堂と常行堂跡がある。
「 向って右側が常行堂跡で、五間15.4m方形、礎石を残した左側が法華堂で、五間11.8m方形だった。
常行堂の礎石は現常行堂の礎石に使われたのか、残っていないが、根石はあり、
その存在は確認された。
両院はそれぞれ、常行三昧、法華三昧を修法する天台宗の修行の道場で、
渡り廊下で繋がっていた。
平安時代創建の建物は慶長二年(1597)野火により焼失した。 」
その先に「東門跡」の説明板がある。
「 往時は築地塀が境内の東端、南端を囲んでいた。 東門から円隆寺と鐘楼を結ぶ東翼廊まで敷石道が続いていた。 また、東門を出ると観自在院や車宿(牛舎の駐車場)のある街路があった。 」
池を巡る道に出ると左側の垣根に「観自在院」の説明板があり、 垣根越しに池が見える。
「 観自在院は二代基衡の妻が建立した寺院で、
大小の阿弥陀堂が池に臨んで建てられていた。
建物は皆失われてしまったが、
四隅が丸みをおびた方形の池を中心とする浄土庭園は特別史跡、名勝に指定されていて、
境内全体が史跡公園として開放されている。
また、毛越寺との境にある玉石の敷地は車宿があったところで、
現在は駐車場になっている。
大泉ヶ池の東南部に突き出た場所があるが、洲浜といい、海岸の砂洲を表現していて、やわらかな曲線で入江を形作っている。
荒々しい出島、池中立石と対照させた景観である。 」
更に南下すると池に突き出てあるのが出島と池中立石(ちちゅうたていし)である。
荒磯の風情を表現していて、飛島には約二メートル五十センチの立石が据えられている。
池中立石は毛越寺庭園を象徴する景観である。
大泉ヶ池は橋脚を残していて、また、中島や庭石などは旧態をよく示して、
平安時代の浄土庭園を今日まで伝えるものとして世界遺産に登録された。
これで毛越寺の見学は終わりである。
「 毛越寺は鎌倉幕府にも保護されたが、前述の通り、嘉禄二年(1226)に火災に遭い、戦国時代の天正元年(1573)には兵火に遭い、 土壇と礎石を残すだけになった。 江戸時代には仙台藩領内となり、寛文年間ごろには本寺とその周辺は水田化された。 しかし、伊達藩から経済的援助や保護が57-*/-.0行われ、寺として存続した。 明治の後半に南大門の外側に新しい本堂や庫裏を建て、 大正十年(1921)には伊達一関藩の一関陣屋の大手門を移して、山門とした。 」
昭和四十二年に小生は最初に訪れた時は、ユースホステルがあり、
また、今の駐車場なのか分からないが、池に向って広い芝生が広がっていた。
今回訪れると遺跡跡が整備され、案内板できちっとした説明があって、
当時の様子を知ることができたのは収穫だった。
JR平泉駅から中尊寺まで 1.6km、毛越寺まで0.7km