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川越城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さだったが、
明治維新後、その大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館と川越市立美術館、
三の丸跡は埼玉県立川越高等学校になっている。
市立博物館前の三叉路を南に進むと、本丸御殿があり、
そこを含む東部一帯は初雁公園になっている。
「 太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折、
初雁が来て鳴いたことから道灌が初雁城と命名したとされ、
川越城の別名は初雁城とか霧隠城である。
松平信綱が城を改修拡張した時、藩主御殿は二の丸に置かれた。
武具方役所も二の丸に、
隠居屋敷は三の丸に、三の丸南には馬場と馬見所が設けられた。
家老屋敷は外郭に配された。 新郭には米蔵や火薬庫があった。
将軍が使用した本丸御殿は鷹狩が行われなくなった後、解体された。
幕末近い弘化三年(1846)、二の丸御殿が火災で焼失した。
再建にあたり、御殿の用地は当時空地になっていた本丸が選ばれ、
嘉永元年(1848)、藩主、越前松平家、松平斉典により御殿の造営が行われた。
」
再建された本丸御殿は建物の数十六棟、千二十五坪(約3388u)にも及ぶ広大なもので、 城主の住まいだけでなく、城主が政務を行う場や家臣達が常駐する部屋なども設けられ、 文字通り城の中心となる建物になった。
「 明治元年(1868)、戊辰戦争が進む中、藩主の松井松平家、
松平康英は明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋めた。
明治二年(1869)、川越藩は新政府に川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、
城の部分的取り壊しを始めた。
明治四年(1871)、廃藩置県により、川越城の建物のほとんどが壊された。 」
本丸御殿の玄関と広間部分は入間県の県庁となって残った。 また、広間の南西側に建物が増築された。 これは南側にあった大書院などの部材が再利用されたと考えられる。
「 本丸御殿の玄関と広間部分はは、 その後も、入間郡公会所、煙草工場、初雁武徳殿、市立中学校などになったが、 昭和四十二年(1967)に大規模な修理工事を行い、屋根の修理や間口の復元を行い、 現在の姿になった。 」
本丸玄関は巨大な唐破風屋根に間口三間の広い開口部と八寸角の太い柱が、
十七万石の大名屋敷にふさわしい威容を感じさせる。
横に長い本丸御殿には三十六畳の大広間の他、
使者の間や鶴の間など、合計七つの部屋があるが、
来客が城主のお出ましまでの間待機した部屋として使用された。
なお、城主との対面は南側にあった大書院で行われた。
巨大な建物だった大書院は明治初期に解体されてしまったが、
本丸御殿南端の柱群には書院の部材が入れられていたホゾ穴などの痕跡が残っている。
入館して左奥の少し下がったところにある建物が明治棟で、
現在はトイレと第一展示室になっている。
大広間の左奥には西続く廊下があり、
右側は坊主当番詰の部屋で十二畳、第二展示室になっている。
廊下はその先で終わっているが、現在庭になっているところに江戸時代には大廊下が延びていた。
「 庭に埋め込まれた瓦は広間の裏の大廊下の柱の位置を示している。
座敷を取り巻く廊下は場所によっては床の材質が異なる。
玄関のある東側部分及び中ノ口部分はけやき、
南側から西側の広間西側部分は栂、松などが使用されている。 」
廊下の突き当たりを右折すると、家老詰所がある。
「 家老詰所は本丸御殿に勤務していた藩の家老が詰めていた建物で、
藩主は参勤交代があったため、藩政は実質的には家老が行っていた。
創建当時の家老詰所は広間西側から西に延びる大廊下の先にあったというが、
明治初期に売却され、現ふじみ市の商家に移築されていたが、
昭和六十二年に現在地に移築されたという。
家老詰所には記録方詰所、年寄詰所、ニ之間、家老詰所などがあった。 」
館内には当時の執務風景を再現している人形があった。
もと来た道を戻ると、「中の口」という説明板がある。
「 正面玄関に比べ、間口二間半と一回り小さな玄関である。 正面の壁の柱は玄関より見た目を整える装飾のための柱で、半柱と呼ばれる。 屋根の荷重のかからない柱である。 」
川越城の遺跡として残るのは、本丸御殿、家老詰所、富士見櫓台跡、
堀と土塁の一部のみである。
日本100名城の川越城のスタンプは川越城本丸御殿受付で、9時〜16時30分、月、第4金休み、博物館でも可である。
三芳野神社・富士見櫓
本丸御殿の東の天神曲輪跡に三芳野神社があるが、
わらべ唄の「とうりょんせ」の発祥の地といわれる神社である。
「 三芳野神社は、平安時代初めの大同年間(806〜810)の創建と伝えられ、 三芳野十八郷の惣社として崇敬を集めた。 寛永元年(1624)、川越城主、酒井忠勝は幕府の命を受け、 川越城の鎮守として、再建に着手し、幕府棟梁鈴木長次が造営にあった。 その後、明暦二年(1656)、城主松平信綱が奉行となり、 棟梁木原義人が改修を加えた。 社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる権現造りで、屋根はこけら葺き形の銅板葺き、 外部は朱漆塗りを基調とし、内部は軸部を黒漆塗りとしている。 その後、弘化四年(1848)、大正十一年に屋根が変えられている。 」
訪れた時は改修工事により周囲が覆われ、見ることができなかった。
「 川越城内の天神曲輪に再建されたため、
「お城の天神さま」として親しまれ、
七五三参りなどの際には町民も城内に入ることができた。
その際、川越城の南大手門から入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、
さらに天神門をくぐり、東に向う小道を進み、
三芳野神社へ直進する道を通ってお参りしていた。 」
この細い参道が童歌の歌詞の発祥の地といわれる。
三芳野神社から「とうりょんせ」の舞台となった道を歩き、
三叉路を右折して少し行くと、右手に小山があるが、
この山頂には江戸時代、天守の代用となった富士見櫓が建っていた。
「 富士見櫓は川越城の櫓の中では最大のもので、 三重三階もしくは二重二階だったと推定され、 基壇の高さは五十一尺(15.4m)、櫓の高さは五十一尺(15.4m)だった。 」
途中に富士見権現大神の鳥居がある浅間神社と御嶽神社があり、
頂上には空地になっている富士見櫓跡がある。
川越氷川神社
このあと、三の丸だった川越高等学校の前を通り、郭町交叉点を北上すると、
川越氷川神社がある。
神社の入口の大鳥居は平成の御大典を奉祝し建立された高さ十五メートルの木造では日本有数の鳥居で、
扁額の社号は勝海舟が記したものである。
「 祭神に素戔嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命、脚摩乳命、手摩乳命を祀る。
二組の夫婦神と出雲大社の縁結びの神として知られる大己貴命を祀ること、
またこの五柱の神々は家族でもあることから、
特に夫婦円満、家族円満の神として崇敬されている。
古墳時代の欽明天皇二年(541)、入間川で夜な夜な光るものがあり、
これを氷川神の霊光だと捉え、当地に祀られたのが始めとある。
室町時代の長禄元年(1457)、太田道真、道灌父子によって川越城が築城されると、
城の神門(戌亥)の方角に当社が鎮座していたことが奇瑞として、
城内、城下の守護神として崇敬された。 」
太田道灌は当社へ詣で、
「 老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪 」
という和歌を残している。
「 江戸時代に入り、川越藩歴代藩主は当社を藩領の総鎮守として篤くの崇敬し、
社領地と寄進を行い、酒井忠勝、堀田正盛、松平斉典は社殿の造営を行った。
本殿は天保十三年(1842)起工、嘉永二年(1849)に竣工した、
間口四メートル、奥行二・五メートルの千鳥破風及び唐破風向拝付三間社入母屋造銅板葺の建物で、
藩主松平斉典の寄進によるもの。
彫物師は、嶋村源蔵と飯田巌次郎、江戸彫りの精巧な彫刻が施されている。
特に腰回りには、当時の氷川祭礼に引き廻された山車の上の人形が、
彫刻の題材として彫られている。 公開されるのは年に一日だけである。 」
本殿の左側にあるのは八坂神社で、以前は牛頭天王社という名だった。
「 本殿は寛永十四年(1637)に三代将軍徳川家光が 江戸城二の丸に東照宮として建立したもので、 明暦二年(1656)に川越城内の三芳野神社の外宮として移されたが、 川越城廃城後の明治五年(1872)に当社境内に移築された。 」
本殿は江戸城内の宗教的建造物としては現存する唯一の貴重な社殿である。
舞殿は宝永元年(1704)の建立で、御囃子や奉納芸能などが行われる場所である。
柿本人麻呂(人丸)神社は、柿本人麻呂の子孫とされる綾部一族が戦国時代に丹波の綾部から川越に移住した際、
当社境内に奉斎したものである。
歌道上達、学業成就、安産、火防の信仰が残る。
面白いと思ったのは鯉みぐじである。
しっぽにおみくじが挟まっている鯛をさおで釣り上げて、
自分の運勢を見るというもの。 「あいたい」と「一年安たい」の二種類があった。
小江戸・川越
川越城は別名、霧隠城だが、その名は 城内に霧吹きの井戸という井戸があり、
普段は蓋をしておくが危急の際は蓋を開くと霧が城を隠したという伝承による。
井戸は移築され、現在は市立博物館の前庭にある。
郭町交叉点から市役所に向うと左側に「川越城中門堀跡」がある。
「 川越城への敵の侵入を防ぐために設けられた堀で、 現在は構築当時の勾配を復元し、土塀などが設置されている。 」
川越市役所の前に太田道灌の銅像が建っているが、
その前に「大手門跡」の標柱が建っている。
その先の交叉点は札の辻、江戸時代には高札場などがあり、
町民に知らせていたところである。
現在の川越は小江戸として売り出し、成功して内外から多くの観光客を集めている。
ここから西部新宿線の本川越駅まで趣のある蔵造りの町並が残っている。
「 この町並ができたのは明治時代、
明治二十六年(1893)の川越大火の後、
耐火建築である「蔵造り」が採用されたことによる。
現在も二十軒ほどの蔵造りが軒を連ね、
平成十一年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。 」
大沢家住宅は川越にある最古の蔵造り、寛政四年(1792)の豪商、
近江屋半右衛門が呉服太物を商うための店舗として建てた商家で、
国の重要文化財に指定されている。
時の鐘は江戸時代の寛永年間(1624〜44)に川越藩主、酒井忠勝によって建てられた。
現在の鐘楼は明治時代の川越大火の直後に再建されたものである。
約三百九十年もの間、時を刻み、今は一日四回(六時、正午、十五時、十八時)、由緒ある音を聞くことができる。
札の辻交叉点を直進すると菓子屋横丁がある。
江戸時代にはきしめんを商っている店が多かったようだが、
菓子屋横丁の石畳の道の両側に昭和の初期には七十軒、現在は約二十軒が軒を連ねている。
はっかやにっき飴、煎餅、団子などの昔ながらの菓子が売られている。
喜多院
この後、江戸城と関係のある喜多院に循環バスで行き、成田山前で下車した。
バス停の前にあるのは成田山川越別院である。
「 江戸時代末の嘉永六年(1853)、 下総国新宿(現葛飾区)の石川照温が、 廃寺になっていた本行院を成田山の別院として再興した寺で、 本尊は不動明王である。 」
その先の河越歴史博物館前を過ぎると、喜多院の説明板がある。
「 喜多院は天長七年(830)、淳和天皇の勅を受けた慈覚大師円仁が 創建した、本尊阿弥陀如来、毘沙門天などを祀り、無量寿寺と名付けた寺である。 元久二年(1205)の兵火で炎上したが、 永仁四年(1296)、伏見天皇が尊海僧正に再興を依頼した時、 宮田五十石を寄進したことから、関東天台宗の中心寺になった。 しかし、天文六年(1537)北條氏綱、上杉朝定の兵火で炎上し、寺院は荒廃した。 天海大僧正が慶長四年(1599)、第二十七世住職になると、 徳川家康の後ろ盾を得、 慶長十六年(1611)十一月に徳川家康が川越を訪れたときには親しく接見し、 寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井忠利に工事を命じた。 また、仏蔵院北院を喜多院と改めた。 」
少し歩くと多宝塔が見えてきた。
「 多宝塔は寛永十六年(1639)に山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立された。
老朽化が進んだため、明治四十三年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されたが、
移築に際し大幅に改造されていたため、昭和四十八年(197)に現在地に移し、
解体修理を実施し復元したのが現在の塔である。
総高は十三メートル、方三間の多宝塔で、本瓦葺、上層は方形、上層は円形、
その上に宝形造りの屋根が乗っている。 」
その先にあるのが慈恵堂(本堂)である。
「 慈恵堂は比叡山延暦寺第十八代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる喜多院の本堂で、
大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼ばれている。
裄行九間、梁間六間の入母屋造り。銅版葺で、
中央に慈恵大師、左右に不動明王を祀っている。
川越大火の翌年の寛永十六年(1639)に一早く再建された建物だが、
昭和四十六年度から四年間にわたり解体修理が行われている。 」
堂内には正安二年(1300)に造られた、国指定重要文化財の銅鐘があり、
年に一度だけ除夜の鐘として、
世界平和とすべての人々の安泰を願い撞かれるという。
本堂の右手に寺務所、庫裏があり、御朱印と入場料を支払い、書院と客殿に入る。
「 寛永十五年(1638)、川越大火で現存の山門を除き、 すべての建物が焼失した時、 徳川三代将軍家光が堀田正盛に命じて復興に取り掛かり、 江戸城紅葉山(現在の皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てた。 」
庫裏は、現在拝観者の入口となっている。
「 庫裏は単層で屋根は全てとち葺き形銅葺きで、 裄行十間、梁間四間の母屋、裄行東四間、西三間、梁間三間の食堂、 それに玄関及び広間が付いている。 母屋は一端は入母屋造り、他の端が寄棟造りになっていて、 食堂は一端が寄棟造り、 他の端は母屋につながり、すべて栩葺(とちぶき)形銅板葺。 母屋には、一部に中二階がある。 」
庫裏に繋がるのは客殿と書院で、渡り廊下で繋がっている。
庫裏の先の右側には書院が見えた。
客殿は、寛永十五年(1638)、書院、庫裏とあわせ、
江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したものである。
「 裄行八間、梁間五間の入母屋造りこけら葺き、
十二畳半二室、十七畳半二室、十畳二室、
二面は入り側、十二畳半のうち一室が上段の間で、
床と違い棚が設けられている。
室内は壁紙で囲まれた襖と共に、
狩野探幽筆と伝えられる墨絵の山水画が描かれていて、
格天井の八十一枚全部異なる極彩色の花模様が描かれている。 」
上段の間は、この建物が江戸城にあった頃、
三代将軍徳川家光がここで生まれたということから
「三代将軍家光の誕生の間」と呼ばれている。
中央の十七畳半の一室には仏間が設けられ、仏事を営めるように設営されていて、
仏間正面の壁には豪華な鳳凰と桐の壁画がある。
上段の間の奥には湯殿と厠が設けられている。
室内は撮影禁止なので、その様子を紹介できないのは残念である。
客殿の右側の庭園は遠州流庭園、左側の庭園は紅葉山庭園で、
三代将軍お手植えの桜がある。
書院は少し薄暗く、また、古びた感じだった。
「 書院は客殿と畳廊下でつながり、
桁行六間、梁間五間、単層寄棟造り、こけら葺き、
八畳二室、十二畳二室、一部に中二階があり、階段は取り外すことができる。
八畳間の二室には、それぞれの床の間が用意され、
片方の部屋には脇床も設けられている。
これらの部屋は、この建物が江戸城にあった時、
徳川家光の乳母として知られる春日局が使用していた部屋で、
「春日局化粧の間」と呼ばれている。 」
境内にある五百羅漢は日本三大羅漢の一つに数えられているもの。
「 五百羅漢は川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、
天明二年(1782)から文政八年(1825)にかけて建立されたもので、
十大弟子、十六羅漢を含め、五百三十三体のほか、
中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊、普腎の両菩薩、
左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で五百三十八体が鎮座している。
<笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、
本当にさまざまな表情をした羅漢、
また、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、
観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、
変化に富んでいる。 」
「 正保二年(1645)の建立の、桁行三間、梁間三間の比較的小さな御堂で、
屋根は中央から四方の隅へ流れる宝行造り、本瓦葺背面一間通し、庇付きである。
祀られているのは慈眼大師天海(天海僧正)である。
寛永二十年(1643)に上野寛永寺で亡くなったが、正保二年(1645)、
徳川家光の命により、七世紀初頭の古墳の上に
このお堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置された。 」
その奥に、駿府で没した徳川家康の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたことから建設された仙波東照宮がある。
「 元和二年(1616)、駿府城で徳川家康が亡くなると一旦久能山に葬られたが、
元和三年(1617)、日光山に改葬の途中、遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要が行われた。
寛永十年(1633)、東照宮が祀られる立派な社殿が造営されたが。
寛永十五年(1638)の川越大火により類焼したため、徳川家光の命により、
川越藩主堀田正盛が奉行となり、寛永十七年(1640)に完成したのが現在の社殿である。 」
喜多院では、上記の建造物に加え、山門、鐘楼門などが国の重要文化財に指定されている。
川越城へはJR川越線・東武東上線川越駅または西武新宿線本川越駅より東武バスで札の辻下車、徒歩10分
川越城のスタンプは川越城本丸御殿受付(9時〜16時30分、月、第4金休み)、または川越博物館にて