mrmaxの城めぐり 埼玉県3 (菅谷館)


菅谷館は武蔵国男衾郡(現在の埼玉県嵐山町)にあった城で、 源頼朝の御家人・畠山重忠が居館した所と伝えられている。
菅谷城(すがやじょう)とも呼ばれ、昭和四十八年(1973)、国の史跡に指定された。
続日本100名城の第118番に選定された城である。


かうんたぁ。




菅谷館

令和三年(2021)十月九日、埼玉県嵐山町(旧武蔵国男衾郡)にあった菅谷館と杉山城を訪れた。 
早朝に、船橋の自宅を出て、菅谷館へ向かった。 
花輪ICから京葉道路、東京外環状線を経由し、外環浦和ICで降り、国道17号を走る。 
有料道路は車も少なく快適だったが、17号では通勤時間に差しかかり、下りでも車が多く、 信号も多い。 
かって中山道を歩いたので、与野や上尾などは歩いた道を通り、懐かしかった。 
天神二丁目交叉点から県道27号を走り、その後、右折して県道66号(第264バイパス)を走ると、 菅谷館跡の駐車場には
9時に到着した。 2時間半以上かかった。 

菅谷館は菅谷城(すがやじょう)とも呼ばれ、 昭和四十八年(1973)に国の史跡に指定された。 
埼玉県立嵐山史跡の博物館は菅谷館三の郭跡に建てられている。 

「 菅谷館は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、 館の付近を鎌倉街道が通っていた交通の要衝にあった。 
源頼朝の御家人の畠山重忠が鎌倉時代の文治三年(1187)頃、居館した所と伝えられている。 
重忠の父・重能は大里郡畠山荘の荘司で、重忠も同荘内に館を置いていたが、 その後、鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移り、館を構えた。  元久二年(1205)、重忠が武蔵国二俣川で戦死した後、菅谷館がどうなったのかは不明である。 
長享二年(1488)の須賀谷原合戦の前後に、山内上杉氏の家臣・太田資康が、 扇谷上杉氏の川越城の押さえとして、菅谷の旧城を再興した。  その後、戦国時代の十六世紀前半まで、山内上杉氏の拠点として使用され、 その後、北条氏の城となり、戦国末期まで使われていた。  現在の姿は太田資康以降のものである。  」

菅谷館
菅谷館縄張図



博物館の裏に廻ると、「建物跡と井戸跡(三ノ郭)」の説明板があり、  その前に、建物の柱跡と井戸跡を示す石柱が建っている。 

説明板「建物跡と井戸跡(三ノ郭)」
「 史跡の博物館の建設に先立つ発掘調査で、三ノ郭では、掘立柱建物跡4棟、井戸跡3か所、 溝跡などが発見されました。  現在、これらの遺構のうち、掘立柱建物跡1棟と井戸跡1か所の位置が示してあります。 」

博物館脇の遊歩道に戻る途中に、「国指定史跡 菅谷館跡」のモニュメントがあり、 館の姿が表示され、その下に「 菅谷館跡は、鎌倉時代の初めに畠山重忠が居館した所と 伝えられています。  その後、戦国時代までに拡張されて、現在のような5つの郭を持つ大規模な城郭となりました。 」  と、書かれていた。 

三ノ郭跡(嵐山史跡の博物館)      井戸跡と掘立柱建物跡      菅谷館跡モニュメント
博物館(三ノ郭跡)
井戸跡と掘立柱建物跡
菅谷館跡モニュメント



遊歩道を進むと、「←本郭 二ノ郭 埼玉県立嵐山史跡の博物館 入口 →」 の道標があり、 三叉路の左奥の空地前に「二ノ郭(にのくるわ)」の説明板があった。 

「二ノ郭(にのくるわ)」
「 本郭の西側から北側を囲むように造られた平場があり、江戸時代から二ノ郭と呼ばれています。 三ノ郭とは高さが6mもある土塁と堀で隔てられていました。  目の前の道路は堀を埋めたもので、植栽の部分に土塁があったと考えられています。 」

二ノ郭の道の反対に「埼玉県指定史跡 菅谷城跡」の石柱と「国指定史跡比企城館跡群 菅谷館跡」の案内板がある。 

説明板「国指定史跡比企城館跡群 菅谷館跡」
「 菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには、 住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。 
元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが、 鎌倉時代の記録「吾妻鏡」に書かれています。  また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると、長享二年(1488)に、 山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者七百人、馬は数百匹が倒れたと記され、 この菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。 
現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空掘などからなり、 このような姿になったのは戦国時代(十五世紀後半〜十六世紀前半)のことと考えられます。 
昭和48年(1973)に、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として、 国の史跡に指定され、平成20年(2008)3月には比企城館跡群菅谷館と名称が変更されました。 」

説明板の手前を右に入ったところにある土塁上に階段で登ると、畠山重忠の銅像が建っている。 
直垂姿で鎌倉を望む姿は勇壮な騎馬姿が多いので、直垂姿は珍らしい。 

二ノ郭跡      菅谷城跡石柱と説明板      畠山重忠の銅像本郭土塁と堀
二ノ郭跡
菅谷城跡石柱と説明板
畠山重忠の銅像



階段を降り、案内板の右手の道を進むと、左側は草が茂っているので、 深さはわからないが、堀と本郭の土塁があり、本郭を守っている。 
本郭の土塁の高さは九メートル、これから向かう二の郭の西側の土塁の高さは、 十一メートルである。 
遊歩道を進むと道の左に少し小高くしたところに木が生えていて、 傍らに「出枡形土塁(でますがたどるい)」の説明板が立っている。 

「 目の前にある本郭を守る高い土塁には、凸字状に突き出た箇所があり、 「出枡形」と呼んでいます。 出枡形土塁は、敵が侵入した際、横から矢を射かけるなど、 効果的に防げるようにしたものです。 」

道の右手は一面草が生い茂っているが、ここは二ノ郭跡である。 
二ノ郭は、本郭を囲うように、本郭の北部と西部に造られていた郭で、 先程の二ノ郭説明板付近の北側とこの西側の空地部分で構成されている。 

本郭土塁と堀      出枡形土塁      二ノ郭跡
(左側)本郭土塁と堀(道路側)二ノ郭跡
出枡形土塁
二ノ郭跡



道の右側に東屋があり、休憩している人がいた。 
東屋を越え、南郭に向って直進すると、階段があり、下りていく。
二ノ郭より一段低いところにあったのが南郭で、今は左右に草が生い茂っている。 

「 菅谷館は、本郭、二ノ郭、北に三ノ郭、西に西ノ郭があり、 面積は十一万平方メートルである。 館跡の三方の堀は、今は池や水田などになっているが、 東側と西側の外堀は自然の深い谷を利用し、都幾川に面した南側は断崖で、 その上に南郭や本郭があった。  」

「南郭(みなみくるわ)」の説明板があり、  「 この郭は、本郭の南側に位置し、他の郭より一段低くなっています。  今のところ、どのように利用されたかは、よくわかっていません。 」と書かれていた。

東屋      南郭に向う      南郭
東屋
南郭に向う
南郭



「←左都幾川 南郭  埼玉県立 嵐山史跡の博物館→」と書かれた道標があった。 
南郭は他の郭に比べると、小さい。 三日月形をした郭で、南に都幾川の河川敷があり、 崖が郭を守っていた。 
林の中を進み、右側に土塁があるのを確認しながら、進む。 
本郭と南郭の境を確認しながら進んだが、虎口を確認しないまま本郭に入ってしまった。
本郭は横に長い長方形をしていて、右側は都幾川の崖が郭を守っていた。  また、生門があったようである。 
広い空地の中央部に三叉路があり、 左折すると左に「本郭」の説明板が立っている。

説明板「本郭(ほんくるわ)」
「 堀や土塁、郭が何重にも取り巻く城跡の中心部分の平場は、 江戸時代以降、本郭と呼ばれています。  城の中心的な建物があったと考えられます。 」 

現存する菅谷館は戦国時代に整備拡張されたものである。 
中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、 本郭を中心に二の郭、三の郭、西の郭、南郭の五つの郭がクモの巣の様(扇形)に並ぶ輪郭式の縄張りをしていた。 
畠山重忠の館もおそらく、この郭の中につくられたのでしょう。 

「 畠山重忠が長享の乱で亡くなった後の菅谷城は、 山内上杉顕定の命を受けた太田資康(太田道灌の子)が、 扇谷上杉方の拠点である河越城に対する抑えとして、 また、本拠である鉢形城を守るための城として、この城を復活させた、考えられている。 
以後、十六世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われた。 
戦国時代に入ると、天文十五年(1546)の河越夜戦以降、 この地域に進出した小田原北条氏によって戦国末期まで使われ、 小泉掃部助が城代となって守備している。 」

南郭道標      本郭跡      本郭の説明板
南郭道標
本郭跡
本郭の説明板



本郭から北に向うと、両側の土塁の間に道が通じていることが分かる。 
ここが本郭北虎口である。 
ここをぬけると、両側は深い堀で、そこを過ぎると菅原城址の石碑の脇の二ノ郭跡に出た。 
続いて、博物館脇の道を北上する。 
道の左側は林が続き、左から奥に続く小道がいくつかあるが、その一つに入っていった。
道は右折して北に向い、三叉路に出る。 この林の一帯は三ノ郭跡である。 

説明板「三ノ郭(さんのくるわ)」
「 城跡北側の喰い違い虎口を入ると、江戸時代後期から三ノ郭と呼ばれています。  面積や位置から、武士や騎馬の集合場所として利用されたと考えられます。 」

三ノ郭は二ノ郭の北部に横長に展開していた郭で、博物館の北側に搦手門があった。 
周囲は土塁で囲まれていたが、北側は土塁に加えて掘が築かれていた。 

本郭虎口跡      三ノ郭跡      三ノ郭を防御する土塁
本郭虎口跡
三ノ郭跡
(奥)三ノ郭を防御する土塁



道を進むと左側に、「三ノ郭を防御する土塁(しとみどるい)」の説明板がある。  その先のこんもりとした土地が蔀土塁なのだろう。 

説明板「蔀土塁(しとみどるい)」
「 堀に面した虎口の内側にある小さな土塁は、西ノ郭から三ノ郭内の様子を見通せないように するものです。 平安時代の邸宅で使用された風雪や日光を遮る道具の蔀の名前をとって、 視線を遮る土塁を蔀土塁と呼んでいます。 」 

その先は急勾配になっていて、その先に橋が架かっているが、 ここは三ノ郭の虎口跡である。 
その手前の左側に「正てん(土へんに占という字)門と木橋」の説明板がある。

「 ここは、三ノ郭の出入口で、正てん(土へんに占という字)門と呼ばれ、 幅約5間(9メートル)あります。  発掘調査の結果、西ノ郭より約1メートル高く盛土していたことがわかりました。  この盛土は、西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、 敵軍の侵入を困難になるよう工夫したものと思われます。  調査によって堀の中段から、木橋の橋脚を立てたと考えられる石積みが検出されましたが、 現在ある橋はそれをもとに推定復元したものです。  しかし、実際の橋がどのようなものだったかは、わかっておりません。 」

三の郭から西の郭へ通じる復元された木橋はたしかに傾斜が確認できた。 

説明板と蔀土塁      三ノ郭虎口(説明板)      復元された木橋
説明板と蔀土塁
三ノ郭虎口(説明板)
復元された木橋



橋を渡ると、道端の石に「右 西郭」と刻まれていて、 その先の空地は西ノ郭跡で、北側は土塁がめぐっている。 

「 菅谷館では、其々の郭は土塁と空掘、水堀で防備され、 館の外周は自然の浸食谷によって何重にも守られていた。  また、虎口(郭の出入口)付近は、土塁と曲折によってくいちがいを設けるなどの防御の工夫がされていた。 」

西ノ郭は東に三ノ郭、東南に二ノ郭があり、菱形のような形で、西側の角に虎口があった。 
道なりにすすむと虎口、谷川に出て、小さな橋を渡ると、別の駐車場に出た。 
その先は車道で、左にはホタルの里の施設があった。 
車道の対面に「鎌倉街道」と「山王古墳群」の説明板が立っていた。 

説明板「山王古墳群」
「 かってこの付近一帯には、東原・向原・寺山・原・山王など、 大規模な古墳群が点在していた。 その数も百基以上と推定される。  現在では、稲荷塚・寺山一号墳を除いては、ここ山王の二十基ばかりを残すのみとなってしまった。 山王古墳群の特色は、径二十メートル未満の小規模な円墳で、 扁平な河原石を積み上げて胴張りを呈する石室を構築し、 墳丘を算石で覆うところにあり、近隣の古墳群の中でも独自の形態を示す点で、注目されている。  また、その時期は、都幾川を遡上して来た古墳文化の終末期にあたり、 組織的古墳群の造営がこの地で終わりを遂げているという点でも、 貴重な資料と言える。  
   昭和六十二年三月  嵐山町教育委員会   」 

中に入ると、道の左側に「オオムラサキの森」の説明板があり、 右側に昭和十一年に建立された「鎌倉街道」の石碑が建っている。 
この背後に、延長約二百メートルのくぼ地があるが、これは菅谷館の掘跡といわれている。 
道の両側に、小さな盛り上がっているものがあるが、これが古墳群である。 
以上で、菅谷館の見学は終了したが、続日本100名城のスタンプをもらうため、 博物館に入ると、入口の先に置かれていたので、捺印した。 

西ノ郭跡      山王古墳群      菅谷館のスタンプ
西ノ郭跡
山王古墳群
菅谷館のスタンプ



所在地:埼玉県嵐山町大字菅谷  
東武東上本線武蔵嵐山駅西口から嵐山駅入口の交叉点を横断し、国道254号を目指して南に向うと、 三の郭跡に建つ埼玉県立嵐山史跡の博物館に出る。 1.3km 徒歩で約25分。 
関越自動車道東松山ICからも関越自動車道嵐山小川ICからも車で約10分 
菅谷館のスタンプは埼玉県立嵐山史跡の博物館(0493−62−5896 9時〜16時30分、月休)の展示室受付にある 




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