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城図の薄紫部分は、上から、米蔵、諏訪曲輪、中央は本丸、その下が二の丸で、
藩主の御殿があった。
その下の肌色が三の丸、その左の成田門があり、橋でその下の勘定所の島に繋がり、そこに
熊谷門と三階櫓が建っていた。
これらの曲輪は沼で囲まれていて、島の間は橋で繋がっている構造であった。
これらの沼は明治維新後埋め立てられて、現在は紺と濃い水色の部分しか、沼は残っていない。
また、諏訪曲輪と本丸の部分と三の丸の濃い水色の部分だけが、
現在、忍城の遺跡として残るのみである。
今回、忍城の本丸跡に訪れると、水掘の木橋が架かり、橋を渡ると城門があり、 その左には三階櫓があった。
「 三階櫓は、昭和六十三年(1988)、本丸球場が移転した跡に、行田市により、
郷土博物館を建設した際、御三階櫓を併設したものである。
三階櫓は「忍城鳥瞰図」や文献を基に、コンクリート構造として外観復興された。
江戸時代、三階櫓は今昔地図にあるように、三の丸に建っていたので、建つ位置は違う。
また、規模も違う。 」
門から中に入ると、鉄砲狭間や弓狭間のある土塀で囲っているが、
これもその時造ったものであるが、その下の小高い土地は忍城時代の土塁のようである。
その先に前述の博物館に三階櫓が繋がって建っている。
三階櫓の内部は展望室や行田の歴史を紹介する展示室になっている(有料)
係りの人に、さきたま古墳群への展望を聞くと、展望室は格子状なので、視野が狭いので、
どうだろうか?、とのことなので、入場は遠慮した。
博物館の見学はやめたが、ロビーに続名城のスタンプがあるので、捺印して、
博物館を後にした。
三階櫓の近くに時鐘楼が建っていたが、「時の鐘」は諏訪曲輪からの移築である。
博物館の門をでようとすると、多くの人が集まって、一点を見ている。
そこに目を転じると、つるべいの声が耳に入ってきた。
NHKのつるべいの家族ばんざいの収録が行われていたのである。
雨が結構強く降っていたので、雨宿りを兼ねて、
城に訪問してきた人を相手にしたのかもしれないが、
邪魔は禁物とすぐにその場をはなれた。
門を出て、左折(郷土博物館館の南側)すると、藩校進修館の門が移築されて建っていた。
説明板「伝進修館表門」
「 この門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、
かっての藩校「進修館」の表門であったと伝えられている門です。
一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されています。
また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保三年(1832)に御奉行後藤五八、
大工町世話方大工宋兵衛等によって、建立されたことが判明しています。
戦災によって一度移築されていたことなどから、
藩校「進修館」の門であるのかは確定していませんが、
現存する行田市唯一の武家屋敷の表門として貴重な歴史建造物であると言えます。
平成十八年三月 行田市教育委員会 」
来た道を引き返し、左右に駐車場があるところを過ぎると、国道125号に出た。
道の対面に「諏訪神社」の石柱とこんもりとした森が見えるが、
これが忍城の遺産である諏訪曲輪跡で、土塁は残されているが、
現在は東照宮と諏訪神社になっている。
雨が強かったので、土塁の確認はあきらめ、国道を右(東)に行き、信号を右折すると忍城通りで、
忍城の東側に出た。
左に入る三叉路入口には「忍の時鐘楼跡」の石柱が建っている。
諏訪曲輪から移されたと聞いていたので、ここも諏訪曲輪の一角が、
聞いた情報が間違いなのか、頭の中が混乱した。
二の丸の周辺の堀は埋め立てられ、市役所やその他の施設が建てられた。
鐘楼跡の横に門があり、その中の道には「浮き城の径」という名が付いている。
石畳の道を歩くと、左に小さな流れが続き、裸婦の像もあった。
道なりに進むと、左手は市役所、右側は産業文化会館アートギャラリーであるが、
明治以降に埋め立てられた二の丸跡である。
産業文化会館の前の道(常磐通佐間線)を右に進む。
小生は行かなかったが、左の市役所の交叉点を右折すると、
商工センターの裏側に「足袋とくらしの博物館」があり、この界隈に行田蔵が沢山ある。
「 行田市は、江戸時代中期から足袋つくりが大変盛んで、 最盛期の昭和十三年には年間約八千五百万足、全国シエア約八割を占める、 日本一の足袋の生産地であった。 市の中心地には、足袋蔵と呼ばれる足袋の商品倉庫を中心に、洋風足袋工場があり、 今もその栄華を伝える商品倉庫や洋風足袋工場、そして、蔵造りの店舗や住宅が残っている。 」
産業文化会館から道に沿って南東に進むと、忍城バスターミナルがあり、
その隣に本丸児童公園と市民プールや公衆トイレがある。
また、「水奇公園周辺案内図」もあった。
場所を確認し更にすすむと、右側に蒸気機関車のC5726が置かれていた。
少し歩くと、右側に水堀が現れる。 その先に桜並木があり、市民広場になっていて、
しのぶ庵や築山があり、水城公園の中心である。
さらに進むと、大きな池が目に入ってくる。
水城公園の標木の先の池は沼というには大きすぎる。
これが石田三成を苦しませた忍城の浮島にあった沼跡で、歴史的に貴重である。
道の反対に、10万石饅頭を販売する店があったので、御土産に購入した。
他にも、幾つからの和菓子を買ったが、それぞれおいしかった。
ここから石田三成が陣を構えた丸墓山は距離があるため、車を置いた忍城の駐車場へ戻った。
忍城の所在地:埼玉県行田市本丸
秩父鉄道秩父本線行田市駅から徒歩約15分 バスもある
忍城のスタンプは行田市郷土博物館(月休、9時〜16時30分、入場は16時まで)の受付にある。
(ご参考) 石田三成による忍城水攻め
石田三成の水攻めは、北東が現在の上星川(見沼代用水)の白川戸(西明寺付近)から
(注)利根川は江戸時代に大きな工事が行われ、現在の位置に定着したと思われる、
石田三成の水攻めの際は利根川からとあるので、白川戸付近に利根川があったと、
小生は思っている。
南に、石田三成の本陣があった丸墓山を経由し、堤根や下忍付近を通り、忍川と武蔵水路が
JR上越新幹線の線路を横断するあたりで、Uターンし、
(注)ここには石田堤碑と石田堤史跡公園がある。
元荒川と高崎線に沿って、西北に向い、熊谷の南東の東竹院まで堤を築いた。
(注)荒川は江戸時代以降、大きな工事が行われ、現在地に移動しているので、
当時は元荒川が荒川であったと思われろ。
三成が築いた堤は、利根川と荒川を結んで堤が造られた訳で、
石田堤と呼ばれ、全長十四キロとも二十八キロとも言われる壮大なものである。
既存の堤を活用しながら、付近に点在する古墳を取り崩し、その土を当てるなどにて、
短期間で造り上げられた。
天下人と呼ばれた秀吉が日本で唯一落城させることができなかった城が忍城で、
忍城をテーマにした小説はいくつかある。
その中でおもしろいのは和田竜の小説「のぼうの城」で、映画にもなった。
実際の忍城攻防は以下のようである。
「 豊臣秀吉は武蔵国の岩付城が落城すると、忍城攻めの総大将に石田三成を任じ、
佐竹義宣、宇都宮国綱、結城晴朝などの北関東の諸将を始め、二万余人の軍を引きつれ
忍城へ進攻させた。
その時、忍城城主の成田氏長は北条氏に味方し小田原城に籠城していた。
城主が留守の忍城には成田長親(のぼう様)の父・泰季が城代を務め、
五百余の兵と城下の民を合わせ、三千人で立て籠もった。
本丸に泰季、持田口に成田長親と新田常陸守 長野口に柴崎和泉守と吉田和泉守、
下忍口に坂巻靱負を配置したが、城代の泰季が急死したため、
泰季の奥方(太田資正の娘)は甲斐姫と相談の上、一門と家臣を集め、
長親(のぼう様)を総大将とすることを決めた。
「成田系図」によれば、「 長親らの計略により、水に慣れた者を深夜に城の外に出し、
郭外の堤を断ち切ると、水が敵陣に注いだ。
水は逆行し、敵陣が漂溺したが、城内は小勢であったので、城を出て敵を撃つことはできなかった、
」 とされる。
鉢形城を落した浅野長政が三成の援軍として加わり、秀吉に力攻めを進言したが、
秀吉はあくまでも水攻めを行う旨を伝え、堤をより頑強に修築するよう命じた。
小田原城の落城後、開城を拒んだ成田長親に対し、
当主の氏長の説得と秀吉の仲介により城は開城した。
忍城開城後、城主の成田氏長は秀吉より、蒲生氏郷の傘下に預けられたが、
その後、下野烏山藩二万石の大名に帰り咲いた。
成田氏の家臣団は、藩主の氏長に付いて烏山に行った者と、
氏長と新領主の松平忠吉の家臣になった者と、在地で帰農する者とに別れた。
成田長親の長男の長季は新領主の松平忠吉の家来になったが、
のぼう様の成田長親は成田氏長に従い、烏山に行った。
その後、氏長より「忍城戦の際の逆心」の疑いをかけられたため、、
烏山を去り、流浪の身になった。 その後、無実が判明し、氏長は誤ったが、烏山には戻らなかった。 その後、剃髪し、自永斉と号した。 晩年は
松平忠吉の尾張移封に伴い、従っていた長男の長季の尾張国で暮らし、六十七歳の生涯を遂げた、
という。
また長男の長季の子孫は尾張藩に仕え明治を迎えている。、」
さきたま古墳群
駐車場に車を置き西に向うと、さきたま古墳群案内板があった。
忍城の駐車場から南東に三キロ位、車で十分程のところである。
「 埼玉(さきたま)古墳群は九基の大型古墳からなる古墳群である。
埼玉県の県名の発祥とされる埼玉(さきたま)の地にあり、
前方後円墳が八基と円墳1基の大型古墳が残り、昭和十三年(1938)に国の特別史跡に指定された。
かっては、大型古墳の周囲に陪臣の小型古墳が円墳三十五基、方墳が一基あった、とされる。
昭和初期に周囲の沼地の干拓の際、取り壊されてしまった。
五世紀から七世紀にかけて造られたもので、
だれの墓なのか、不明のようであるが、当地を支配する国造の墓だろうと推察される。
日本書記には 「 安閑天皇より、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)を
武蔵国造に任命していて、笠原(現鴻巣市)を本拠地としたことから、武蔵国造の墓とする説、
知々夫(秩父)国造の墓とする説、などがあるようである。 」
最初に石田三成が忍城の水攻めを指揮したという丸墓山古墳がある方向へ歩いていった。
道の左側に「史跡 埼玉村古墳群」の石碑があり、その先に丸い形をした丸墓山古墳がある。
また、歩いてきたこの道は石田堤の一部である。
「 丸墓山古墳は、直径105メートル、高さ18.9メートルの円墳である。 墳丘表面を覆った葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などが出土していて、六世紀前半の築造とされる。 天正十八年(1590)の小田原征伐の際、忍城攻略を命じられた石田三成はこの古墳の頂上に 陣を張り、忍城を水攻めにするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を築いた。 丸墓山から南にまっすぐ伸びる道は、この堤の名残りである。 」
周囲にある桜は六十年前に植えられたものっで、桜の季節は美しいようである。
古墳の周囲は葦が繁っていたが、ここは沼の名残りのようだった。
丸墓山古墳の右手に見えるの稲荷山古墳で、前方後円墳である。
手前は芝生になっているが、かってはここに陪臣の小さな円墳が多くあったといわれる。
「 稲荷山古墳は、埼玉県で第二位の大きさの大型前方後円墳である。
造営時期は五世紀の後半と考えられている。
稲荷山古墳は、大坂堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵と治定されている)の四分の一の大きさだが、
墳形がほぼ同じであるとあることから、大仙古墳をモデルとしたと見られている。
墳丘は二段に築造されていて、方形をした二重の周濠を持ち、
濠の深さは地表面から一メートル八十センチである。
また、墳丘の長さは百二十メートル、後円部径六十二メートル、高さ約十二メートル、
前方部の幅は七十四メートル、高さ約十一メートルである。
後円墳の頂上には、埋葬施設の復元模型があり、階段を登れば見ることができる。
墳頂部に稲荷社が祀られたことから、その名がついた。
昭和四十三年(1968)に発掘調査が行われ、後円部より金錯銘鉄剣と画文帯神獣鏡、
勾玉などが出土した(一括して国宝に指定された)。 」
稲荷山古墳の右手には将軍山古墳があり、将軍山古墳展示館がある。
「 墳丘の長さは九十メートル、後円部径三十九メートル、
高さ八メートル四十センチ、前方部の幅は六十八メートル、高さ九メートル四十センチである。
築造の時期は古墳時代の後期の六世紀末と考えられている。
出土品は馬具、武器、須恵器などがある。
また、古墳東麓に将軍山古墳展示館がつくられ、古墳の内部に入ることができる。 」
引き返すと、前述の案内図の先の左側に天祥寺があり、その先の左の三叉路に 愛宕山古墳がある。
説明板「愛宕山古墳」
「 全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。
最小ではありますが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の掘が二重に巡ることが、
発掘調査により確認されました。
墳丘内部は未確認であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、
詳しいことはまだ分かっていません。
出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・太刀・盾・きぬがさ(貴人の傘)などを表現した形象埴輪が
あります。 円筒埴輪は、高さが40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。
古墳が造られた時期は、出土した遺物から、6世紀前半と推定されています。
平成21年(2009年)3月 埼玉県教育委員会 」
天祥寺の脇の道を進み、天祥寺の裏に出ると大きな古墳が見える。
天祥寺の裏の道は古墳からかなり離れているが、ここに「二子山古墳」の説明板があった。
説明板「二子山古墳」
「 全長138mの前方後円墳です。 かっての「武蔵国」
(埼玉県・東京都・神奈川県の一部にあたる)で、最大の古墳です。
周囲には、長方形の掘が中堤をはさんで二重に巡り、
墳丘くびれ部と中堤には造出し(つくりだし)と呼ばれる張出しがあります。
現在、遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。
内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと、
考えられています。 本格的な発掘調査がされていないため、埋蔵施設の形や大きさ、
副葬品の内容など、詳しいことはわかっていません。
出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。
平成20年(2008年)3月 埼玉県教育委員会 」
説明板があるのは張出し部の下方向にある道である。
「 二子山古墳は二つの山があることから名付けられ、 墳丘の長さは百三十二メートル余り。 後円部径六十七メートル、高さ十一メートル七十センチ、前方部幅八十三メートル二十センチ、 高さ十三メートル七十センチである。 墳形は、稲荷山古墳、鉄砲山古墳と同様、大阪府の大仙陵古墳に類似する。 」
また、張出し部の上方の緑で表示されている部分が中堤で、確かに遊歩道になっていた。
従って、遊歩道から説明板のある道の間に、今は芝生になっているが、
かっては堀があったということになる。
愛宕山古墳にもどり、駐車場脇を通り、左手の車道を渡り、
さきたま史跡の博物館方面に向う。
左側に、埼玉県名発祥之碑があり、その先に移築民家がある。
説明板 移築民家「旧遠藤家住宅」
「 県東南部の幸手市千塚にあった大きな稲作農家で、江戸時代の終わりころに建てられたものです。 通常の農家より広い土間と六間の部屋を持ち、右手には厩がついています。 」
その先にさきたま史跡の博物館があった。
移築民家の脇の道を右に進むと、「さきたま古墳公園 案内図」があり、
その隣に「← さきたま史跡の博物館・瓦塚古墳・愛宕山古墳・丸墓山古墳・稲荷山古墳・将軍山古墳 鉄砲山古墳・中の山古墳→」の道標が立っていた。
このあたりは幼い子でも遊べる広場になっていた。
近くに、「奥の山古墳」の説明板があった。
「 墳丘全長66mの前方後円墳です。
奥の山の名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、
一番奥にあることから付けられました。
発掘調査により、それまで一重と考えれていた周掘りが二重であることや、
墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどがわかりました。
また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。
後円部墳丘西側には張出し部があり、
子持壺や大型器台といった祭祀に使われた須恵器が出土しています。
こうした出土遺物から6世紀中ごろから後半にかけてつくられた古墳と考えられています。
平成24年(2012年)3月 埼玉県教育委員会 」
奥の山古墳を脇を歩き、南東に向うと鉄砲山古墳がある。
「 墳丘の長さは百九メートル、後円部径五十五メートル、 高さ九メートル、前方部幅六十九メートル、高さ十メートル十センチである。 また、周濠を含めた全長は百六十一メートルで、古墳群の中で、 三番目の大きさの前方後円墳である。 この古墳は、全国的に珍しい三重の掘を有していることが確認された。 鉄砲山の名前は、江戸時代に忍藩の砲術演習所(角場)があったことに由来する。 」
鉄砲山古墳の奥に中の山古墳がある。
「 中の山古墳の墳丘の長さは七十九メートル、後円部径四十二メートル、 高さ五メートル、前方部幅四十四メートル、高さ五メートル四十センチである。 六世紀末から七世紀初めの築造で、埼玉古墳群にある前方後円墳の中では、 最後に築造されたと、考えられている。 」
鉄砲山古墳から遊歩道に出て、移築民家に向って進むと、左手に瓦塚古墳がある。
説明板「瓦塚古墳」
「 全長73mの前方後円墳です。 他の前方後円墳と同じく、
周囲には長方形の掘が二重に巡り、墳丘のくびれ部には造出しと呼ばれる張出しがあります。
また、造り出しの正面の外堀には、通路と見られるブリッジ状の掘り残しがあります。
整備に先立つ発掘調査の結果から、その周辺の中堤には、琴を弾く男子、踊る男女、
武人などの人物埴輪、盾形埴輪、家型埴輪など、多数の埴輪が立ち並べられていたと、
推定されています。 墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、
詳しいことはまだ分かっていません。
古墳が造られた時期は、出土した遺物から、6世紀前半から中頃と推定されています。
平成21年(2009年)3月 埼玉県教育委員会 」
以上で、古墳群はすべて見学できた。
なお、古墳に登れるのは丸墓山古墳と稲荷山古墳のみである。
さきたま古墳群へはJR高崎線吹上駅(北口)から朝日バスで10分、
産業道路バス停下車徒歩15分
JR行田駅(東口)から観光拠点循環コースで25分、埼玉古墳公園下車徒歩2分
秩父鉄道行田駅南口・朝日バス新町1丁目(埼玉りそな銀行前)から
「佐間経由吹上駅行き」で8分、産業道路バス停下車徒歩15分