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先程車で通りぬけた中学校の校舎を見ながら坂を登り、公衆便所の所で、
右の道をとると、正面が墓地で、下に積善寺が見える丘に出た。
この丘を登っていくと、嵐山町が設置した説明板がある。
説明板「ー戦国期山城の最高傑作― 杉山城跡 」
「 杉山城跡は鎌倉街道を見下ろす丘陵上につくられています。
傾斜が急な切岸、各郭にめぐらされた横堀と屏風のように連続する折れ、
さまざまな形態の虎口などが複雑に組み合わされていて、高度な築城技術の粋を集めたこの城は、
実戦のための城としての風格をもち、戦国期山城の最高傑作と高い評価を得ています。
(中略)
これまで築城年代や築城者が不明であったが、国指定文化財にむけた発掘調査で、
出土した土器などから、十五世紀末から十六世紀はじめ頃であることがわかり、
さらに”杉山の陣”についての古河公方方・足利高基の古文書も発見され、
関東中が戦乱になった長享・永正の乱において、
関東管領・山内上杉憲房が扇谷上杉氏に対抗するために築城したということがわかってきました。
城郭の発掘調査が完了していないため、新たな発見があるかもしれません。 」
杉山城跡の説明板があるこの一帯は、出郭で、その説明板もあった。
説明板「出郭」
「 大手の前に配置された郭をいい、北側には低い土塁が見られます。
一見無防備な広い空間に見えますが、この説明板部分には発掘調査によって、
溝が掘られていることが分かり、大手には直線的に進入できないような工夫がされています。 」
その先には「←馬出し郭 大手(出郭) 外郭↑」の道標があり、 杉山城跡の構造などを記した説明板が立っていた。
説明板「杉山城跡」
「 この城跡は、戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。
総面積は、約八ヘクタールにも及び、山の高低差を巧みに利用して、
十余りの郭を理想的に配置しています。
まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内で屈指の名城と評価されています。
現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには、
当時の高度な築城技術が偲ばれます。
「馬出し」や「枡形」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛かり」の多用は、
その典型とされるものです。
また、城の立地についても、北方に越畑城・高見城と連絡し、西方全体に鎌倉街道を見下ろすという、絶好の条件を備えています。
当時の社会情勢から判断して、杉山城と鉢形城とをつなぐ軍事上の重要拠点の一つであったと、
考えられます。
築城年代や城主名等に不明な点が多いですが、
地元では、松山城主上田氏の家臣・杉山(庄)主水の居城と伝えています。
この城跡は、すべて私有地であり、地権者のご理解とご協力によって、公開されているものです。
文化財保護に御理解いただき、利用、見学をしていただくよう、お願いいたします。 」
杉山城は、鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根に約十の郭を配した縄張で、
各郭は横堀と帯郭が囲み、塁線には折れが連続している。
木橋や土橋を用いた様々な虎口(郭の出入口)には、進入方向に対し、
真横からも矢を射かけて防御する横矢掛かりが施されていた。
下図は、杉山城の縄張図である。
その先は空堀が横断(横堀)していて、行く手を阻んでいた。
左手に「大手口」の説明板が立っている。
「 大手口は、左側へ細い通路を登ると外郭に入れますが、 正面には高い土塁が立ちちはだかっており、左側は深い空堀がL字形にめぐって、 城内から横矢掛かりが仕掛けられています。 また、防御だけでなく、城内からは反撃に転じることを想定して、 右側にある二重の土塁奥の空堀道と、その右方にある馬出しに伏兵をひそませておくことが できるようになっています。 」
大手口で左に折れるが、説明板がある虎口の左側は深い空掘、反対の大手口の横堀と共に、
攻める敵はこの狭い間の道を進むことになり、横矢を射られることになる。
大手口虎口から外郭に入ると、正面に高い土塁が立ちはだかっている。
その右に「外郭 馬出郭口」の説明板がある。
「 馬出郭外郭から第三の郭へ向かうには、 馬出部と呼ばれる小さな平場を通りますが、 ここには空掘がありますので、本来は木橋を架けて通らなければなりません。 この木橋は、敵の侵入に際しては、すぐに切り落とせるような簡易なものだったはずです。 この橋にも斜め上の南三の郭側からの強力な横矢が仕掛けられて「います。 」
現在は橋が架けられていないので、下に降りるが、この空堀は堀切のように深く掘られていて、
土は上の高い土塁となっている。
階段を登り、馬出し郭へ出た。
説明板「馬出郭」
「 馬出郭は、南三の郭と大手の間に位置する、堀で囲まれた小さな空間です。
南三の郭南虎口に向って登っていくと、左側の土塁が張り出しており、
横矢掛かりが設置され、防御の工夫を見ることができます。
横矢掛かりは虎口や土塁に地づく敵を横から弓矢で射るために設けられた工夫で、
郭の塁線を突出させることで死角を無くすことができます。
馬出しは、虎口(門)前方に配置された堀で区画された小さな郭をいいます。
攻撃の際には一気に攻め出すために兵を招集したり、守りの際には敵の攻撃から虎口を守るため、
兵の出入りを擁護したりできるように造られた場所です。 」
両側は土塁の階段を登ると、南三郭である。
西側にいくと、「南三の郭 西虎口」の説明板がある。
「 この虎口から西に下ると、細長い帯状(帯郭)が続きます。
右(北)に進むと井戸郭に向い、途中の斜面には市野川沿い(城跡西側)から登ってくる敵に対し、
横方向への動きを防ぐための竪堀が数本ご覧に頂けます。
左(南)に進むと南三の郭の外側を半周して馬出郭に向い、
南三の郭南側の屏風風に折られた空掘をご覧頂けます。 」
西に向うと、道は左右に蛇行し、左右には空堀と林があり、
道は盛り上がった土塁上にあるという感じであるが、これが説明板にある帯郭なのだろう。
北に向うと井戸跡の説明板と左側に少し窪みがあり、大きな石があった。
説明板「井戸跡」
「 現在、城跡内で確認されている井戸跡は、この1箇所です。
城山が岩盤なので、現在でもほぼ一年中水がしみ出しており、
春先には山椒魚の産卵場所となっています。
蓋の石は、おそらく城の造成の際に掘りだされたもので、このような蓋をしたのは、
廃城の際に敵方に使われないように「水の手を断つ」ためだと思われます。 」
井戸跡から戻り、左側の南二の郭に入るが、
杉山城は郭の外の土塁は折歪(おりひずみ)と呼ばれる、
敵方に対して見通しを悪くするための屈曲を多用し、
虎口にはほぼ例外なく進入方向の側面から矢を射掛ける横矢仕掛けなどの防御施設があった。
南二の郭は北側に高い土塁があり、その下に「←井戸郭 南二の郭 ↑本郭↑」の道標があり、
杉山城では広い曲輪である。
南部には「食い違い虎口」の説明板が立っている。
「 第三の郭と第二の郭の間の虎口は、左右の土塁が平行にずれている虎口 (食い違い虎口と言います)になっています。 これも横矢掛かりの変形で、敵の直線的な侵入を妨げ、 二の郭内部を見えにくくする工夫です。 」
北部に向うと虎口が二つあり、東側には「南二の郭 東虎口」の説明板がある。
「 この虎口から一段下がりますと、 馬出状の小さな平坦面(虎口受けと言います)があります。 その虎口受けからは、おそらく木橋が架けられ、 本郭東側の帯状の土塁(帯郭)とつながっていたと考えられます。 」
道を下ると「外郭 帯郭状土塁」の説明板がある。
「 外郭の北西角から延びて南二の郭の東側の裾に向う幅の広い土塁があります。
内側に空掘があり、先端は竪掘に突き当たり行き止まりですが、
上に上がれば本郭へと通じる帯郭へとつながります。
ここは、城の東側から入り込む谷に面しており、斜面の高低差が大きいところです。
一段低い切岸下にも並行する横堀と土塁があります。
東二の郭、三の郭とともに谷を挟みこみ、
本郭の防御を固める機能を果たすとともに、
城内部の連絡通路としても重要な役割を担っています。 」
この帯郭の北端の下は空掘の横堀で、
対面には本郭や東二の郭に通じる帯郭が見える。
帯状の道を進むと、左は切り立った崖(切岸)で、下に向って傾斜が続く。
説明板に谷と表現されていたところである。 崩れ防止にシートが被せられていた。
その先には長方形の外郭があった。
説明板「外郭」
「 外郭は、大手口の内側を守る郭です。
二つの四角の空間が二つ連なっていますが、一方は南三の郭方面に、
もう一方は南西の郭下を通って本郭や東二の郭方面へと通じています。
南二の郭、南三の郭側の塁線は、屏風を立てたように折れ曲がって聳えています。
これを屏風折れと呼びます。 」
外郭の右手には南二郭、南三郭があり、空掘で区切られているが、
折れ曲がりながら続いており、説明板でいう「屏風折れ」である。
ここから帯郭に引き返す。
帯曲輪から対面の東二郭に通じる帯郭には橋が架かっていたような気がするが、
説明板には記載がないので間違っているのかも知れない。
左の道を下り、右に行くと本郭の東側の帯郭に出た。
帯郭といいても、土塁の上といえるもので、左は本郭との間に空掘があり、
左は谷向かって急斜面になっている。
少し上り坂で、正面には幟が立っている。
正面の丘の斜面に何故か梯子が架けられていたが、その左手にあるのが東二郭である。
説明板「東二・三の郭」
「 本郭の北東側の尾根に作られた東二の郭は、
全体的に東三の郭に向って自然地形のまま、緩やかに傾斜しています。
東二の郭と三の郭の間の虎口は、杉山城跡では珍しく直線的な坂虎口となっています。
手前左側の虎口は、本郭からの高低差によって守られ、北二の郭への通路となっています。
東三の郭は、二の郭側の左隅に小口を設けた郭馬出の構造となっています。
東三の郭の先は、平坦で広い尾根が長く延びていますが、自然地形のままで、
城普請をした形跡はありません。 」
幟が立つ丘に向って、階段を登る。
標高約九十六メートル、比高四十二メートルにある
本郭を中心に三方向へおよそ十余りの郭で構成され、
主要部から丘陵の裾まで、郭、土塁、空掘が保存されている。
両側に土塁のある虎口を出ると、広い空地で、ここが杉山城の本郭である。
「史跡杉山城址」の石柱とすでに紹介したと同じ内容の「杉山城跡」の説明板が立っていた。
もう一つの石碑は字がかすれて判読不能であった。
地表に「↑ 北二の郭 本郭 東二の郭 →」の道標があった。
「 本郭は土塁とその横の溝で囲まれ、 東虎口から郭内へはハの字状に広がる構造になっていて、調査時には 巾一・八メートルの石積みが四十三センチの高さで残っていた。 東虎口の西側には石積みを崩したことによって発生したと考えられる礫が多量に検出された という。 」
今回登った階段の先の虎口と思えるところには石積みらしきものはなかった。
南側に行くと右側は土塁が盛られた樹木が生えるところで、正面に黄色の幟があるが、
その手前に「本郭 井戸郭口」の説明板がある。
「 本郭に通じる三つ小口(虎口)の一つになっています。 本郭へは木橋を渡って入ることができますが、ここには右側から強力な横矢がしかけられていて、 敵の侵入を阻んでいます。 本郭は、この部分を突出させて、横側に小口を設けています。 このような小口の形態は、比企型小口とも呼ばれています。 」
本郭から南側へコの字状に張り出した部分が本郭南虎口で、
その先は行き止まりであるが、対面には井戸郭が見える。
当時は木橋(挽き橋)が西方向に井戸郭へ向かって架けられていて、
いざという時は切り落とせるようになっていたと思われる。
本郭南虎口の対岸にあたる井戸郭の東側部分には八メートル×六メートルの長方形で、
周囲との比高差一・二メートルの台状遺構があるのが見えた。
本郭の北側まで引き返した。
「↑ 北二の郭 本郭 東二の郭 →」の道標に従い、左手に進むと、
「本郭北虎口」の説明板がある。
「 北方面の虎口は、強力な横矢掛かりに守られています。 南西の井戸跡方面から帯郭を登り進んできた敵は、 大きく回り込まなければ本郭に侵入できないように工夫されています。 虎口の前には、小さな平場(虎口受けと言います)が見られます。 」
。
本郭北虎口では、左の土塁から横矢が射られる。
坂を下ると、道の両側に竪堀があり、そこにも「本郭北虎口」の説明板があった。
本郭は空掘で守られており、右折すると道が林の中に続いている。
北二の郭、北三の郭、そして、勝手口があるようだが、途中で引き返した。
北虎口から降りきったところまで戻り、南下する。
左は本郭で、途中門跡のように狭まり、曲っているところもある。
屏風のように連続する折れと空掘が続く中、道は土塁の上に帯郭のように続いていた。
その先で先程寄った井戸跡に出た。
左側の土塁は井戸郭の土塁で、その先、左側の土塁の間のくぼみは、
井戸郭と南三の郭の間を仕切る空堀である。
そのまま直進すると、左側の坂道の途中に「南三の郭 西虎口」の説明板がある。
この説明板には先程、南三の郭を訪れたとき、紹介したものである。
道を引き返し、直進すると、深い空掘が折れながら連続していた。
道は帯郭状で、左側の南三の郭の土塁に沿って、左に曲がり、右に曲がり、
そして左に曲がると、南三の郭の南部に出て、
右手の竹林の間から、積善寺の建物の一部が見えた。
左には空掘が続き、出たところは、外郭と馬出郭に挟まれた空掘で、
この空掘は左右に更に続いている。
ここに敵がいると、上から一斉に弓矢が射られ、全滅である。
ここには、「外郭 馬出郭口」の説明板があり、階段を登り、外郭に出て、大手口まで帰ってきた。
これで杉山城の見学は終わった。
所在地: 埼玉県比企郡嵐山町杉山614番地外
東武東上線武蔵嵐山駅から北西に歩き、玉の岡中学校の南入口交叉点を右折し、
市野川に架かる相生橋を渡る。 更に積善寺の右手から上ると、杉山城の大手口である。
関越自動車道の嵐山小川インターチェンジから南東に500m程
杉山城のスタンプは嵐山町役場玄関ホール(0493-62-2150 8.30〜17.15 土日も可)にて