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蛭子堂は時姫堂とも称し、 当山開基、足利義兼の妻、北条時子(源頼朝の妻、北条政子の妹)を祀る。
「 法名から智願寺ともいう。 本尊は栗のいがを手に持つ姪子像で、安産の神として昔から信仰されている。 」
御霊屋は足利大権現と称し、俗に赤御堂ともいう。
「
正和年間(1313年〜)の当山伽藍配置図にも境内西北に描かれている。
創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川十一代将軍、家斉の寄進によって、
再建されたものである。
本殿に源氏の祖を祀り、拝殿に足利十五代将軍像を祀る。
昭和三十三年に以前の位置より北に十二間移動した。
本殿の裏に当山開基、足利義兼の父、義康、祖父の義国の墓がある。 」
経堂には一切経二千余巻を納めている他、足利歴代の将軍坐像が祀られている。
「 経堂は桁行五間、梁間五間、二重宝形造(ほうぎょうづくり)、
本瓦葺で、内部には八角形(はっかけい)の廻転式の経棚
(きょうだな)があり、一切経二千余巻を納めている。
寺の伝えによると、建久七年(1196)に建てられたとされ、
その後焼失したが、応永十四年(1407)に関東管領、足利満兼
により再建、
宝永五年(1708)に屋根の修理がされたとある。
これだけ大きな経堂は珍しく、国の重要文化財に指定されている。 」
多宝塔は建久七年(1196)に建てられたとされるが火災に遭って焼失。
現在の建物は寛永六年(1629)に五代将軍、徳川綱吉の生母、桂昌院尼公によって再建されたもので、その後も数回の改修が行われている。
「 多宝塔は三間四方、銅板葺瓦棒付の建物で、
塔の内部は簡素なつくりだが、
外観はバランスのとれた姿で、上層と下層との比率、軒の張出し方、
勾配、屋根のそり方などに多宝塔の持つ特徴がよくあらわれている。
塔内に祀られているのは金剛界大日如来(県指定文化財)と勢至菩薩で、
両側に十六羅漢像が安置されている。
県内の木造の多宝塔はこの一塔だけであることから、
県の指定文化財になっている。 」
鐘楼は桁行三間、梁間二間、袴腰附、入母屋造、本瓦葺の建物で、 本堂と同じ建久七年(1196)に建立されたが、火災に遭って焼失、 その後、再建されたが、その時期は不詳である。
「 鐘楼の中央には、 江戸時代に佐野の天明鋳物(てんみょういもの)で再鋳された鐘が吊り下げられていて、 四方吹放し(ふきはなし)となっている。 木鼻(きばな)や斗きょうをはじめ、建物の形状やそのつくり方など、 全体に鎌倉時代の禅宗様建築の特色がよく現われている貴重な建物として、 国の重要文化財に指定されている。 」
鑁阿寺を開基した足利義兼の子、義氏は寺を維持するため、 堀外に十二の支院(十二坊)を鎌倉時代に建て、その筆頭(塔頭)を千手院とした。
「 北門(薬医門)は足利幼稚園の場所にあった千手院の山門で、
弘化二年(1845)に再建されたものである。
明治四年に千手院を除き十一坊は廃院となり、
大正七年(1916)、千手院山門は鑁阿寺の北門として現在地に移築された。
江戸期の特徴を残ている門で、十二坊の名残をとどめる唯一の建造物である。 」
足利氏館(鑁阿寺)へはJR両毛線足利駅から徒歩10分、
東武伊勢崎線足利駅からは徒歩15分
日本100名城の足利氏館のスタンプは鑁阿寺の御朱印受付に置かれている。
足利学校
足利学校は鑁阿寺の南方にあり、その遺跡は大正十年に国の史跡に指定されている。
「 足利学校の創建については、
奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあるが、
歴史が明らかになるのは、室町時代の永享十一年(1439)、
関東管領、上杉憲実(うえすぎのりざね)が国宝に指定されている書籍を寄進し、
鎌倉円覚寺から僧の快元(かいげん)を招いて庠主(学長)として、
学校を再興したころからである。
鎌倉建長寺住持の玉隠永輿は、長享元年(1487)の詩文で、
「 足利の学校には諸国から学徒が集まり、学問に励み、それに感化されて、
野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、
足利はまことに風雅の一都会である。 」 と讃美している。
また、天文十八年(1549)には宣教師のフランシスコ ザビエルにより、
「 日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学 」 と世界に紹介され、「学徒三千」といわれるほどになった。
江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治五年に幕をおろした。 」
入口にある入徳門の額は天保十一年(1840)に掲げられたもので、
現在の門は裏門を移築したようである。
その先の左側に孔子像と稲荷社があり、
正面に「学校」と書かれた扁額がある門は寛文八年(1668)の創建である。
「 学校という言葉は儒教の教科書の一つである孟子の中にある言葉で、 扁額の「学校」は明の書家、将竜渓の書を江戸国史館助教授の狛高康が縮小したものという。 」
門をくぐると右手に南庭園があり、その左奥隅に字降松がある。
読めない字や意味の解らない言葉を紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、
翌日にはふりがなや注釈がついていたことから、「かなふり松」と呼ばれるようになったと伝えられる。
正面の門は杏壇門で、寛文八年(1668)の創建である。
「 明治二十五年(1892)の足利の大火の飛び火により屋根門扉が焼け、明治三十年代に再建されたものである。
なお、杏壇とは孔子が弟子達を教えたところに、
杏の木が植えられていたことに由来する。 」
杏壇門を入ると左手にあるのは不断梅である。
実が熟さないため、青い実が黒くなり冬まで枝に残っている。
「 常に実が断えないことから、その呼び名がある。 」
その奥にあるのは孔子廟(聖廟)である。
「 寛文八年(1668)、徳川幕府四代将軍、 家綱の時に造営されたもので、 中国明時代の聖廟を模したものと伝えられる。 」
孔子廟の右手に並んで建っている建物は、方丈と庫裏、書院である。
「 方丈は学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用されていたところである。 その北側には北庭園がある。 庫裏は台所で、食事など日常生活が行われてきたところである。 その奥にある書院は、庠主(学長)の書斎、庠主の接客や学生に個人授業が行われたところである。 」
方丈と庫裏、書院は平成二年(1990)に復元されたものである。
足利学校の右半分はその時整備されたもので、北庭園と南庭園の他、
裏門、衆寮(学生が勉強したり、
生活をしたところ)、木小屋、土蔵も復元された。