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宇都宮城は徳川将軍が日光参詣(日光社参という)に行く際、宿泊した城で、 将軍の日光参詣は全部で十九回行われた。
「 将軍の行列はとても人数が多いので、城も城下町も大変なにぎわいだったという。
今も残る絵図面に本丸に大きな建物が描かれているが、これは将軍の泊まる御殿といわれる。 」
宇都宮城で有名なのは宇都宮城釣天井事件である。
本多正純が日光社参(将軍の日光参詣)から帰る将軍・
秀忠をからくり仕掛の天井で暗殺しようとしたという話で有名である。
「 家康の側近の本多正純は日光東照宮を造営した後、 江戸城に出仕した。 将軍秀忠と他の老中は正純を敬遠し、 正純を江戸城から追放しようと画策した。 下野小山三万二千石にすぎなかった正純に十五万五千石という高禄を与え、 元和五年(1619)、宇都宮城に赴任させた。 正純は、元和五年(1619)、 城の大改修と奥州街道の付け替えと日光街道の整備を行い、 現在の宇都宮市中心部の骨格を造った。 元和八年(1622)、山形藩主、最上氏の改易に当り、城を受取に出向いた正純は、 出先で宇都宮城を召し上げられた。 幕府は出羽由利郡五万石を与えようとするが、正純がこれを固辞したため、 幕府の怒りを買い、罪人として秋田の佐竹城へお預けの身になった。 」
吊り天井という話は、家康の側近中の側近だった正純が、
不可解な失脚を受けたことから、憶測を呼んだ噂に過ぎないようである。
現在の宇都宮城の建造物は、史実をもとに昔の位置、規模、構造を基本として復元されたものである。
清明台は本丸の土塁北西部にあった二階建て、瓦葺きの櫓で、広さは三間(5.9m)X三間半(6.9m)である。
清明台下の土塁は他の場所より高くなっていて、宇都宮城には天守はなかったので、
二階建ての清明台は天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれる。
本丸の土塁南西部にあるのは富士見櫓を復元したものである。
江戸時代の絵図には二階建て、瓦葺き、広さは三間(5.9m)X四間(7.9m)と記録されている。
江戸時代は高い建物がなかったので、遠く富士山が望めたことが名の由来である。
水堀も築地塀(土塀)も再現されたものだが、築地塀には矢狭間や鉄砲狭間もあった。
宇都宮城へはJR東北新幹線・宇都宮線宇都宮駅から関東バスで二荒山神社前で下車、徒歩10分
今回訪れなかったが、宇都宮氏とゆかりのある多気山城(たげさんじょう)は宇都宮市田下町にある。
「 多気山城は、康平六年(1063)、宇都宮氏の祖、藤原宗円が築城したといわれるが、定かではない。
宇都宮国綱が多気山城を築城したのは天正四年(1576)、北条氏直が関東を大方平定すると、
常陸、下野に侵攻を繰り返したため、国綱は天正十四年(1586)に宇都宮から多気山城に本城を移した。
国綱は天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原城攻めでは豊臣方として行動し、北条氏滅亡の後は本城を宇都宮城にもどした。
その後、朝鮮出兵に参戦するが、
慶長二年(1597)、秀吉により突然領地没収、追放され改易になり、
鎌倉時代から続いた宇都宮家は滅亡した。 」
宇都宮駅西口から関東バスに乗り、立岩入口で下車、桃畑茶屋の脇から標高三百七十六メートルの多気山へ登る。
途中土塁や堀が見されるが、明確ではない。
本丸跡は多気山の頂上の御殿平である。 東屋がある平坦地である。
帰路は多気不動尊にお参して、バス停に戻る。
バス停の東側に大谷磨崖仏もあつ大谷寺があるので、立ち寄るとよい。