mrmaxの城めぐり 栃木県4 (黒羽城・那須温泉神社)
黒羽城は那須与一の子孫の那須家の家臣だった大田原資清の嫡子、大関高増が築いた山城である。
黒羽城
黒羽城は栃木県北部の大田原市前田にあった城で、
那珂川と支流の松葉川との間の丘陵に造られた山城である。
「 広さは南北千五百メートル、東西二百五十メートル、
栃木県北部では最大の城である。
黒羽城を築いた大関高増は大田原資清の嫡子である。
天文十一年(1542)、大田原資清は大関増次を殺害し、
勢力拡大の目的で、高増を大関氏の養嫡子にした。
高増は大関氏の家督を継いて、白旗城の城主になったが、
天正四年(1576)、白旗城から黒羽城に城を移し、黒羽藩の基礎を築いた。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは高増の嫡子、資増は徳川方につき、
黒羽城で上杉景勝の動きに備えた。
その後、明治四年(1871)の廃藩置県により廃城になるまでの三百年間、
大関氏の居城になった。 」
JR宇都宮線西那須野駅から大田原市営バスで50分大雄寺入口で下車、
八百メートル徒歩で約20分。
大雄寺入口バス停から松葉川に架かる下高橋の手前を左折し、
百メートル先の突き当たりを右折すると、
黒羽城の大手守備の出丸だった大雄寺に出る。
白幡不動尊の前を通り過ぎると、
このあたりから黒門跡までの間には家臣たちの武家屋敷が立ち並んでいたという。
今は道筋に松尾芭蕉の句碑が点在する。
芭蕉は奥の細道を旅したとき、黒羽に二週間ほど滞在したという。
黒門跡から本丸側にある雨社稲荷社、土塁、水堀跡を眺めながら行くと、
駐車場になっている会所跡に出る。
現在、本丸跡は黒羽城址公園になっている。
土塁や空堀が残り、西側の土塁の上に物見台が復元されている。
三の丸跡に建つ黒羽芭蕉の館を見てから芭蕉の道を下る。
「 大雄寺は藩主、大関氏の菩提寺で、
天正四年(1576)、大関大関が白旗城から黒羽城に移った時、
ここに移されたという。
本堂、禅堂、庫裏、総門、回廊、鐘楼などすべて茅葺き屋根である。
この寺に大関氏累代の墓所がある。 」
那珂川は、日本でも有数の水の綺麗な川であり、ここでとれる鮎が有名。
少し時間と距離がかかるが、雲厳寺は奥の細道にも書かれた由緒正しい寺で、禅道場。 新緑や紅葉の時がよい。
車の場合は那須I.Cからは黒磯経由が良い。
途中に遊行柳があり、西行法師や芭蕉の故事にひたることが出来る。
黒羽城址公園へは西那須野塩原ICより車で30分、矢板ICより車で40分
雲厳寺へは西那須野塩原ICより車で45分
JR西那須野駅から大田原市営バスで60分、
「雲厳寺・須賀川線」雲厳寺前で下車
那須温泉神社
黒羽城及び大田原城の城主、大田原資清や大関高増は那須氏の家臣だが、
那須氏が崇拝したのは那須温泉神社である。
「 那須温泉神社は第三十四代舒明天皇の御代(630年)、
狩野三郎行広が矢傷の白鹿を追って山中に迷い込み、
谷に湧く温泉を発見し、神社を創建、温泉の神を祀り、崇敬の誠を尽くした。
奈良時代の正倉院文書、延喜式神名帳記載(927)によると、
温泉名を冠する神社は十社を数える。
上代より当社の霊験は国内に名高く、聖武天皇の天平十年(738)には、
都より貴人が那須に湯治に下ったことが記されている。
従って、神位が次第に高まり、貞観十一年(864)には従四位勲五等が贈られている。
文治元年(1185)、那須与一宗隆は源平合戦屋島の戦に温泉神社を祈願し、
見事扇の的を射、名声を轟かせ、その後、那須一門を挙げて厚く崇敬した。
那須与一が那須郡の総領となるや、領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、
貞享三年(1686)には正一位に叙せられた。
現在、那須郡内に約八十社の温泉神社があり、
この地方のどれだけの信仰を集めていたかが推察される。 」
大鳥居をくぐると右側にあるのは見立神社で、
温泉を発見した狩野三郎行広が那須温泉の開発の祖として、祭神として祀られている。
その先の左手にあるのは松尾芭蕉の句碑である。
「 元禄二年(1689)、俳人松尾芭蕉は奥の細道をたどる途中、
温泉神社に参詣、那須与一奉納の鏑矢等宝物の拝観、
殺生石見物等を行ったことが曽良日記に載せられている。 」
句碑にあるのは 「 湯をむすぶ 誓も同じ石清水 」
書は徳川氏の奥八城太郎弘賢とある。
ここ那須温泉神社は京都の石清水八幡宮が合祀されているので、
ここに参詣し、その社殿の湯を手ですくうと
両神社にお参りしたことになる。 これは湯が結ぶ縁である、という意。
書は将軍のそばに仕える奥右筆の屋代弘賢と思われる。
温泉神社の本殿は慶長十二年(1607)、那須資晴の建立である。
本殿の右横下は谷間になっていて、九尾の狐伝説で知られる殺生石は一番奥にある。
「 昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が、
今から八百年程前に日本に渡来し、玉藻前と名乗り、宮廷に仕え、
鳥羽上皇の寵愛を受け、日本を滅ぼそうとしていた。
しかし、陰陽師、阿部泰成に正体を見破られると、九尾の狐は那須の原に逃れてきた。
ここでも悪さをくりかえしたので、
朝廷は三浦介、上総介の両名に命じて遂に九尾の狐を退治した。
すると、九尾の狐の姿は毒石となり、毒気を放ち始め、近づく人や獣を殺し続けた。
これを伝え聞いた泉渓寺の源翁和尚が、毒石に向って大乗教をあげ続けると、
一筋の白煙とともに玉藻前の姿が現れ、石は三つに割れて飛び散り
、一つがここに残った。
それ以来、人々はこの石を殺生石(せっしょうせき)と呼ぶようになり、
今に伝えられる。 」
殺生石は「殺生石」の石碑奥に注連縄に囲まれた岩である。
この付近一帯は硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒な火山ガスがたえず噴出しており、
「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」として古くから知られていた。
小生は幼少期を大田原に過ごしたのでこれまで何回も訪れているが、
硫黄臭がこれだけ少なかったのは始めてある。
この上にある茶臼岳の噴火と連動していると思われるが、
ガスの排出量が多い場合は立ち入りが規制される。
松尾芭蕉も元禄二年(1689)に訪れていて、「おくのほそ道」にその様子が記されている。
「 殺生石は温泉の出づゆ山陰にあり、石の毒気いまだ滅びず。
蜂、蝶のたぐひ真砂の色見えぬほど重なり死す。 」 とあるので、
当時は相当の火山性ガスが発生していたと思われる。
芭蕉は 「 石の香や 夏草赤く 露暑つし 」 と詠んでいる。
( 石は硫黄の香りがして、緑したたるはずの夏草が赤く枯れ、涼しい筈の露は熱く沸騰している。 )
途中に教伝地獄の石碑があり、教伝地蔵と千本地蔵が祀られていた。
「 第九十六代後醍醐天皇(1318年)の頃、
奥州白川在の五箇村に蓮華寺と言う寺があり、教傅(伝)という住職がいた。
教傅は生まれながらの不良少年で、心配した母がお坊さんにしようとして、
この寺に預かってもらいました。
教傅は二十八歳になり、前住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになったが、
行いは少しも直りませんでした。 亨元元年(1336年)のことである。
教傅は二三人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになり、
その日のことである。
教傅は、母が朝食を用意して進めると、まだ旅路支度も出来ていないのにと悪口を言いながら、
腹をけとばし、そのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傅達はある日、殺生石を見学しようと賽の河原付近まで行くと、
今まで晴れわたっていた空が俄かにかきくもり、
雷鳴が天地を揺るがし、大地から火災熱湯が噴出したので、
連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、
教傅は一歩も動くことが出来ませんでした。
友人達がふり向いて見ると 「 おれは寺を出るとき、母の用意したお膳を足げりにして来た天罰を受け、
火の海の地獄に堕ちて行く 」 と教傅が大声をあげて苦しみもがいている。
友人がかけ寄り助けようと引き出したが、教傅の腰から下が炭のように焼けただれていて、
息を引き取ってしまった。
それからも教傅の引き込まれたところには泥流がブツブツと沸いていたが、
いつしか山津波に埋まってしまった。
享保五年、那須湯元の有志が教傅地蔵を建立して供養を行い、
親不孝のいましめとして参拝する者が後を断たなかった、ということである。 」
湯の花場という看板があり、湯の花縁起には
「 この一帯は殺生石賽の河原と呼ばれ、地温は地表下で八十度〜九十度、地下三十メートルは百度以上となり、
烈しい噴気が上がっていた。 この地表からの噴気を活用し、湯畑を作り、昇華させたのが湯の花である。
約百日で結晶体の湯の花が出来る。 昭和十八年までは採集されていたが、今は参考として一部行われている。 」 と
あった。
少し離れたところにある盲蛇石の前には、助けた蛇から湯の花の採取法を教えられたとある。
所在地:栃木県那須郡那須町湯本182
JR黒磯駅から那須湯本行きのバスで35分
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