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「本丸石垣下」の説明板があった。
「 二本松城は室町時代中期に奥州探題を命られた畠山満泰が 応永二十一年(1414)に築城し、以後畠山氏の居城として百四十年余り続いた。 天正十四年(1586)伊達政宗の南奥制覇のため落城し、 二本松城は片倉景綱、伊達成実が城代になったが、 天正十九年(1591)、秀吉の奥羽仕置で会津領主になった蒲生氏郷の重要な支城として、 中通り警備の任を与えられ、二本松城には石垣が積まれ、 近代城郭として機能し始めたのはこのころと推定される。 その後、徳川時代初期も会津領として、上杉氏、蒲生氏、加藤氏らの支配下にあり、 とくに加藤氏支配時代には、本丸を拡張したことが石垣解体調査で確認された。 平成三年三月から5ヶ月にわたって実施された調査で、 すでに崩壊し滅失したと考えられていた石垣の長さ八十メートルにわたる遺構が検出され、 慶長期の穴太積みや元和、寛政期の様式の他、江戸時代後期の様式が確認できた。 」
石垣に沿って少し進むと右側に枡形虎口に入る石段があり、
石段を上り、右折し、左折し、石段を上ると広い広場になっている本丸跡で、
正面に見える石段と石垣は天守台である。
畠山氏が築いた二本松城は山の頂上と平地の比高は約百二十メートルだが、 その頂上に本丸が置かれ、そこから東、南に伸びる尾根に曲輪が築かれ、 他の山につながる北西の尾根には堀切を設けて遮断し、 北方の尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐ形となっていた。
「 蒲生氏郷が領する城になると城域は拡大され、
本丸直下に穴太積みによる大石垣を用いるなど、織豊城郭式の城に変貌し、
寛永四年(1627)に入城した加藤嘉明は山麓部分の高石垣が築き、
現在の近世城郭の姿に大改修した。
寛永二十年(1643)、丹羽長秀の孫、丹羽光重が十万七百石で入封すると、
二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行い、本丸は石垣で築造された。 」
本丸にどのような建物があったかの案内はなかったので、
詳細は分らないが、番所などの建物があったのか?
本丸には石垣を積み上げた櫓台が三つあり、右奥にあるのが天守台である。
平成五年(1993)から平成七年(1995)にかけ、本丸の修復、復元工事がなされ、
天守台や本丸石垣が整備されたが、天守が建てられたという記録はないという。
天守台からの見晴らしは良い。 天守台から両翼に土塁が延びている。
右手に延びた土塁の先にある隅櫓台は東櫓台である。
本丸の左奥にあるのが西櫓台で、天守台と土塁でつながっている。
天守台に上る石段近くにあったのは、
「安部井又之丞・丹羽和左衛門自刃の地」の石碑である。
「 安部井又之丞は六十五歳、勘定奉行、 丹羽和左衛門は六十六歳、城代家老の職にあった。 慶応四年(1868)七月二十九日、戊辰戦争による二本松城の際、 安部井又之丞と丹羽和左衛門は燃え上がる城を眼下に、共に壮絶な最後を遂げた。 丹羽和左衛門は床几に腰をおろし、軍扇を膝の上に広げ、割腹したのち、 内臓を軍扇の上につかみだし、前屈みになって絶命したといわれ、 丹羽着用の血染めの具足は資料館にある。 」
本丸を出て、反対の右側に石垣に沿って進み、 右側の石垣下に「I面石垣内部」の説明板があった。
「 このI面石垣内部には別の石垣が保存されている。
石垣解体後、裏土の中に長さ七・六メートル、最も残っている部分で、
三段、高さ一メートルの石垣が発見された。
築石は野面石(自然石)と荒削石で、
その積み方は本丸下南大石垣や天守台下西面二段石垣と同じ工法の穴太積みと判った。
この旧石垣は氏郷が築いた慶長初年のもので、
I石垣は加藤氏が修築、拡張した寛永初年のものである。
現在は原状のまま埋め戻されている。 」
安部・丹羽氏自刃の地碑 | I石垣と案内板 |
ここから下に下っていくと、
「奥州探題 畠山氏居城 霞城址」の石碑が建っている。
この石碑は昭和三十年に搦手門入口左側に建立されたものだが、
平成七年に本丸石垣修築復元工事の際、現在地に移設された。
下に降りると見えてくる石垣は搦手門跡である。
搦手門跡は、今は門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残るだけである。
説明板「搦手門跡」
「 二本松城の裏門である搦手門は発掘調査で、
第一期は掘立柱の冠木門(冠木という横木を二本の門柱の上方に貫き渡している門で、屋根はない)で、
現存する礎石のやや南側で発見された。
直径約三十センチの柱の根元が残存していて、栗材と鑑定された。
第二期は現存する礎石の時期で、
この礎石が据えられた当時のまま残されていることが確認された。
柱間は三・二メートル、扉のホゾちいわれる穴があることから、
一枚約一・四メートルの扉が付く高麗門だった可能性が高い。
両側に門台石垣が築かれ、その石積み様式から、寛永初期の門跡で、
蒲生時代に掘立柱だった門を加藤氏が石材を用いて整備したことが明らかになった。 」
左折して左に下りていくと「新城館(しんじょうだて)」の説明板がある。
「 二本松城は会津の支城だった。 <
また、三の丸御殿、箕輪門を造り、城下町を整備した。
奥州街道を付け替えて直接時代に、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期があった。
慶長六年(1611)〜寛永十四年(1627)の蒲生秀行、忠郷のときで、
二城代はそれぞれ城内の東城と西城に詰めていたという記録があり、
ここはその西城にあたる。 」
更に下ると、少し開けたところの出た。
明治百年の昭和四十三年(1968)に少年隊の丘と命名されたといい、
日展彫刻家、橋本高昇によるブロンズレリーフ「二本松少年隊奮戦の図」や
顕彰碑「二本松大壇口弔少年隊戦死墓」などが建つ。
その下には「智恵子抄詩碑」がある。
高村光太郎直筆「樹下の二人」「あどけない話」の一節を、
伝説が残る大小一対の牛石に銅板ではめ込んでいる。
周囲の円形野外劇場のイメージは詩人草野心平の発案である。
道を戻り、東に向ってするむと井戸跡が残っている。 /p>
「 日影の井戸といい、千葉県印西市の月影の井戸、神奈川県鎌倉市の星影の井戸と共に、 日本の三井といわれる井戸である。 石積みで、深さは約十四メートル余り、 底から北方に十二メートル余り横掘りされているという。 」
氏郷が築造したとされる本丸下南面の大石垣がこの上部と思われたが、
確認はできなかった。
日影の井戸から階段を下りていくと「二本松藩士自刃の地」の石碑が建っている。
説明板「二本松藩士自刃の地」
「 慶応四年(1868)戊辰戦争において、
薩摩、長州、土佐藩兵を主力として西軍約七千名に対し、
応援兵を合わせても兵力約千名の二本松藩は各所で戦いをくり広げ、
七月二十九日ついに城下、城内の戦いになり、
正午頃二本松城は炎上し、落城した。
二本松藩の戦死者は三百三十七名以上、負傷者五十八名以上、
他藩の戦死者は二百八名以上という戊辰戦争で最大の壮烈な戦いだった。
ここでは主戦論者だった家老、丹羽一学、城代服部久左衛門、
小城代丹羽新十郎が藩主長国に代わって、
戦犯の責任をとり、割腹(切腹)し、壮絶な最期を遂げた。 」
一学の辞世の歌 「 風に散る 露の我が身はいとわねど 心にかかる 君が行く末 」
階段を下り、城内路に出ると右折して西に向う。
その先には智恵子抄碑から下って来た道と合流するが、
ここには各地にすすむ道標がある。
また、その前には溝のような細い川が流れていて、
「二合田用水」の説明板がある。
「 丹羽氏入城まもなく城防備を目的として、
安達太良山麓より尾根伝えに延々十八キロの距離を城内に引水した用水で、幕府には内密だった。
のちに各村に灌漑用水として、城下町には生活、防火用水として活かされた。 」
その先の阿つま屋の近くには土井晩翠の歌碑が建っていた。
「 花ふぶき 霞が城のしろあとに 仰ぐあだたら 峯のしら雪 」
「 旧会津製糸会社の社歌を作詞した晩翠が、
昭和二十四年(1949)発表会のため来松。
花吹雪の中を散策し、その情景を詠んだもので、
歌碑は昭和三十一年に建立されたもの。 」
先程の道標まで戻り、下に下る道を歩くと、右側にぽこっとした平場があるが、
広場の中央に「本宮館」の標柱が建っていた。
手前にひるがえる「丹羽二本松藩」の幟の下にある
社殿は丹羽霊祠殿(通称・丹羽神社)である。
市が正式に調査した際、御霊舎(みたまや)の中に霊牌があったという。
市の説明では 「 丹羽霊祠(れいし)殿から、
戊辰戦争の二本松藩戦死者を弔う約百年前の霊牌(れいはい)が大量に見つかった。
霊牌は全て同じ形で約八十柱あり、戊辰五十年の慰霊祭に合わせて作られたとみられる。
霊牌には武士や農兵の名前が記され、当時の二本松藩関係者は戦死者を身分で区別せず、
等しく慰霊した。
戊辰百五十年の節目や先人の思いを考える上で貴重な史料である。 」 としている。
丹羽霊祠殿の左下に見えるのは霞ヶ城の傘マツである。
別称「八千代の松」ともいわれるアカマツの巨木で、樹齢三百五十年を越す。
一本の幹から三方に枝を伸ばした独特の形状は見事である。
その下にはるり池がある。
二合田用水から分水した水が洗心滝、布袋滝となり流れ込む。
丹羽二本松藩初代藩主光重時代に造園された姿が今も残る庭園で、
小規模な回遊式庭園ながら、
自然との調和の一体感をかもし出している。
るり池と霞池の間の右側の小高いところに建っているのは洗心亭である。
城内に唯一残る江戸期の建造物で、木造カヤ葺き、寄棟平屋造りの茶室。
当時は「墨絵茶屋」といい、光重がこよなく愛したという。
一時城外への移築により戊辰戦争戦火を免れ、明治四十年(1907)に再移築された。
霞池を左に廻るとるり池から流れ出た水が七ッ滝になり、霞池に注いでいる。
その先の左手の広場は三の丸上段で、左奥くに相生の滝があるが、
訪れた時は枯れて水はなかった。
その右手に上る道があるので上っていく。
その上には観光物産館だったような今は使われていない建物があった。
江戸時代には本坂御殿、別名姫御殿だったところである。
建物前の石段を直下すると三の丸の下段で、南の駐車場と繋がっている。
寛永二十年(1643)に三の丸御殿が築造されたとあるので、このあたりに建物が建っていたのだろうか? br
二本松は菊人形が有名で例年十月中旬から十一月中旬まで行われるが、
三の丸が会場になるようで、このあたりは後片付け中の様相を呈していた。
なお、本坂御殿の南下部は市により発掘調査が行われ、
石垣跡が見つかったようである。
三の丸下段の南側は復元された石垣と土塀で囲まれていて、
その先で道は急に狭くなる。
江戸時代、その先に枡形虎口の箕輪門が建っていた。
右側の門櫓台の上には立派な松の木が生えている。
道はここで百八十度回転し、両側の門の石垣(門櫓台)の間を通り、 枡形の中に入る仕組みである。
「 箕輪門は二本松城の正門で、
丹羽氏が入封された時、丹羽光重により築造された。
ここにどのような門があったか記されていないが、
高麗門があったと考えるのが常識的だろう。
枡形に入ると道は右折するが、左手を見ると広い空間があるので、
江戸時代には建物が建っていたと思われる。 」
枡形の右側に「箕輪門のアカマツ群」の説明板がある。
「 箕輪門北側に沿ってある石垣上にある四本のアカマツは、 三の丸への石段の南東に段状に並び、一本は石段の裾右側の石段上に立っている。 目通り幹囲が二〜二・五メートル、樹高九〜十二メートル、傘状をしているが、 多くの長い枝を石垣下にたらしている。 これらの松は土塀に代えて石垣上に植えられたと思われる。 明暦三年(1657)に門周辺石垣の破損の修理した記録などから推察し、 樹齢は三百五十年を超える。 」
枡形には松の木が多くあった。 その先に見えるのは二層櫓と楼門、多聞櫓である。
「 箕輪門は戊辰戦争で焼失したが、
昭和五十七年(1982)に再建されたものである。
主柱材料のカシの巨木は領内箕輪村山王寺山の御神木を用いたことから、
この名がある。 」
楼門をくぐり、振り返って門を見た。
楼門より、左側の石垣の方が高い珍しい構造である。
箕輪門を出ると左折する構造になっていて、
そこから先の道は広くなだらかに下っている。
右折して左の多聞櫓と別れるあたりにめだたないが、
「大城代内藤四郎兵衛討死之地」の石碑があり、
「 戊辰戦争の際、城門を開いて敵陣に切りこみ、
獅子奮迅の末、壮烈な戦死を遂げた。 」 とある。
道を下ると左側に「二本松少年隊」の銅像群が建っている。
「 戊辰戦争で会津若松の白虎隊が有名だが、
ここ二本松にも同じような話があったのである。
戊辰戦争で二本松藩は慶応四年(1868)七月、
奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦ったが、
藩兵の大半が白河小峰城応援のため、白河口に出向いていて、
城内城下は空虚同然だった。
この緊迫した状況の下、
少年達の出陣嘆願の熱意に藩主は止むなく出陣許可を与え、
十三歳から十七歳の少年六十二名が出陣、七月二十九日、
城内への要衝、大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、
正午頃、二本松城は炎上し、落城した。
彼らは後に二本松少年隊と呼ばれた。
ブロンズ像は、彫刻家、橋本堅太郎によるもので、
二本松戦最大の激戦地・大壇口における少年隊の奮戦する姿を描いたもので、
平成八年の建立である。 」
少年像のあるあたりは千人溜と呼ばれたところで、藩兵が集合する場所であり、
少年隊もここからそれぞれの守備地に出発した。
城の入口には二本松藩七代藩主、丹羽高寛が、寛永二年(1745)、
家臣で儒学者の岩井田昨非に命じ、
一夜のうちに自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針を刻ませた 「 戒石銘碑 」 がある。
「 旧二本松藩庁の前に、
藩士登城の際、その戒にするため書かせたもので、
「 輩の俸 輩の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも
上天は欺き難し 」 とある。
昭和十年(193)、「旧二本松藩戒石銘碑」として、国の史跡に指定された。 」
なお、霞ヶ城公園は日本さくら名所100選に選定されている。
これで二本松城の探訪は終了である。
二本松城へはJR東北本線二本松駅から徒歩約20分で内城入口、入口から本丸まで坂道で約15分
日本100名城の二本松城のスタンプは城にはなく、
二本松駅内の観光案内所と二本松市歴史資料館に置かれている