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石段の手前に「飯盛山動く板道」の看板を付けたスロープコンベヤがあり、手前に切符売り場があった。
以前訪れた時にはなかった。 江の島にあるのと同じ施設である。
石段を上ると、頂上まで183段。 普通なら利用しないが、朝早く長距離運転してきたし、
この後の行程も考え、利用した。
途中で、乗り換え、石段155段目にあるそばや飯盛分店の前で終了した。
残りの28段は急な石段で、上りきる両側の門柱の先に広場が広がっている。
その左側に「会津藩殉難烈婦」の石碑がある。
説明板
「 戊辰戦争(1868年)で自刃または戦死した会津藩の婦女子230余名の霊を弔うため、
昭和3年(1928年)、元白虎隊士で東京帝国大学総長などを務めた山川健次郎らの篤志家によって、
建てられました。 」
左手奥、狛犬、常夜燈の先に石段があり、一段高いところにあるのが白虎隊士の墓である。
傍らにある説明板
「 白虎隊は16歳・17歳の少年たちで編成され、士中、寄合、足軽の各隊がありました。
正面の墓は慶応4年(1868年)8月28日(新暦10月8日)、
ここ飯盛山で自刃した士中白虎二番隊19名の墓です。
隊士の遺骸は、西軍(政府軍)によって手を付けることを禁じられていましたが、
村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ、仮埋葬され、後にこの地に改葬されました。
現在の形に整備されたのは、明治23年(1890年)で、二度にわたり、墓域が拡張されています。
右側の墓は、領内各地で戦死した31名(士中3名、寄合22名、足軽6名)の墓で、
同33年(1900年)に建てられました。
左側の慰霊碑は白虎隊所属の有無に関係なく、領内をはじめ、京都、新潟、栃木などで、
大人と一緒に戦い、戦死した14〜17歳の少年武士62名の慰霊碑です。
「白虎隊の仲間達」として、平成13年(2001年)に建てられました。 」
少年武士慰霊碑は、白虎隊所属の有無に関係なく、領内をはじめ、京都、新潟、栃木などで、
大人と一緒に戦い、戦死した14〜17歳の少年武士62名の慰霊碑である。
墓所の右手前に、白虎隊碑と白虎観音が祀られていた。
白虎隊の歌碑もあった。 ローマ市より、昭和3年(1928)に寄贈された、
円柱の上に大鷲の像の石碑があった。
ドイツ記念碑の脇にある石段を降りると旧滝沢村民の共同墓地である。
石段を降りながら、びっしり詰まった会津若松の町並を見た。
「 飯盛山は、会津若松市街の東2キロにあり、城下町を一望できる小高い山で、
その頂上には1650〜1700年前に築かれた前方後円墳、隠れキリシタンの祠があり、
地元瀧川村住民の共同墓地でもある。
そして、古くは、古代四道将軍、弁財天、日本武尊などの神話も残り、
1800年以上、連綿と会津盆地を見守る信仰と山です。
ここに、白虎隊十九士の墓、各地で戦死した三十一士の墓、イタリア並びにドイツから贈られた記念碑、
さざえ堂、宇賀神堂、厳島神社、白虎隊引揚の洞門、市天然記念物の太夫桜など、数多くの神話、史跡、
名所が残っております。
また、ふもとには戊辰戦争時には会津藩の本陣となり、
藩主松平容保公が白虎隊に戸の口原への出陣を命じた旧滝沢本陣、
2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」のオープニングで使われた、市天然記念物の石部の桜がある。
現在では、「ならぬことはならぬ」の会津精神、戊辰戦争の折に、白虎隊が自刃した地として、
あまりにも有名です。 木々に囲まれ並ぶ墓石には今もなお、訪れる人が多く、
山腹の墓前には御線香の煙が絶えることはありません。 」
共同墓地の一角に飯沼貞雄の墓があった。
説明板
「 白虎隊自刃者中ただ一人蘇生した飯沼貞吉(のち貞雄)は、印出新蔵の妻、ハツに助けられました。
後に逓信省の技師となり、仙台逓信管理局工務部長に進み、我が国の通信事業に貢献を果たし、
昭和6年(1931)仙台市で78歳の生涯を閉じました。
白虎隊の実録は、彼によって知ることができました。
戊辰戦争役90年祭が行われた昭和32年(1957)、多くの友が眠るこの地に遺髪などが移され、
墓碑と顕彰碑が財団法人前島会仙台支部によって建てられました。 」
その右手に「白虎隊殉難士各霊塔」と書かれた大きな石柱があり、その左側手前に鶴ヶ城を見ている像がある。
「 士中白虎二番隊は、会津藩校日新館で学ぶエリート隊だった。 彼らは戊辰戦争の8月28日、戸の口原の戦いで、決定的な打撃を受け、潰走し、負傷者を抱えながら、 郊外の飯盛山に落ち延びました。 ここから眺めた戦闘による市中火災、黒煙と炎に包まれた鶴ヶ城を見て、いち早く会津の負けを悟り、 自ら命を絶ちました。 ここは士中白虎二番隊二十名が自刃した場所で、その内、一人(飯沼貞吉)が蘇生した。 」
白虎隊士石像が望んでいる方向は鶴ヶ城である。
この後、来た道を戻り、飯盛分店の脇に出る。
下に降りていくと、宇賀神堂がある。
「 寛文年間(1661〜1672)に、松平正容が厳島神社の傍社として建てたもので、 明治二十三年に作られた白虎隊十九士の霊像が祀られている。 」
その先にある建物は、国の重要文化財に指定されているさざえ堂である。
「 正しくは、円通三匝堂(えんつうさんそうどう)といい、
寛文八年(1796)に飯盛一族の祖先である飯盛山正宗寺第12世郁堂和尚によって建立された、
西国三十三観音菩薩を祀る六角三層の観音堂である。
さざえ堂の通称があり、高さ約16.5メートルで、
初層真径約6.3メートルの六角形平面に回廊を付け、正面には唐破風の向拝を付している。
正面から入ると右回りにらせん状のスロープを上り、頂上の太鼓橋を越えると、
降りの左回りスロープとなって、背面出口に通じる。
昇降を通じて建物内を三度回ることになることから、三匝堂の名がある。 」
そこを出ると、白虎清水観音があり、その先に厳島神社の石碑があり、 戸ノ口堰洞穴の説明板が立っている。
説明板
「 猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ水を引く用水堰で全長31kmに及ぶ。
元和9年(1623)八田野村の肝煎八田内蔵之助が、開墾のため私財を投じ、工事を行い、
寛永18年(1641)八田野村まで通水した。
その後、天保3年(1832)会津藩は藩士佐藤蓑助を普請奉行に任命し、5万5千人の人夫を動員し、
堰の大改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を掘り、同6年(1835)完成した。
慶応4年(1868)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である。 」
用水の先、山麓に弁天洞穴があるが、水が多くて穴が見えなかった。
橋を渡ると、永徳年間(1381〜1383)に宗像神社として建てられた厳島神社の社がある。
「 正宗寺の別当として、宗像神社がつくられ、 主神は市杵島姫神、飯盛山の別名弁天山の由来になる。 明治の神仏分離令により、厳島神社と改名、仁王門の仁王像は撤去され、 虞舎那仏は阿弥陀寺に移された。 」
以上で、飯盛山の見学は終了し、鶴ヶ城に向った。
会津若松城
会津若松城(鶴ヶ城)へは11時20分に到着し、西出丸駐車場へ車を置いた。
以前、桜の花を撮影に訪れたのと、家族でも訪れたが、当時は日本100名城のスタンプがなかったので、
今回スタンプをゲットすると同時にゆっくり城を見てまわろうと思う。
◎ 会津若松城(鶴ヶ城)の歴史
「 若松城のはじまりは、南北朝時代の1384年(南朝元中元年・北朝至徳元年)、
葦名氏七代目直盛が東黒川館を造ったのが起源とされる。
以後、代々葦名氏の城であった。
戦国時代の中後期には葦名氏中興の祖・葦名盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
天正十七年(1589)、伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視し、葦名義広を攻め、葦名氏を滅ぼし、
黒川城を手にしたが、翌十八年(1590)、政宗は秀吉により会津を召し揚げられた。
代わりに黒川城へ入ったのは蒲生氏郷で、文禄元年(1592)より、
大名に相応しい近世城郭への改造を始め、町の名を黒川から若松へ改めた。
文禄二年(1593)、望楼型七重の天守が竣工し、名は鶴ヶ城に改められた。
慶長三年(1598)、氏郷の子、秀行は転封になり、
上杉景勝が百二十万石で入国したが、徳川家康により、
慶長五年(1600)に三十万石に減封の上、出羽国米沢へ移封となった。
翌六年(1601)、再び、蒲生秀行が入城したが、嫡男の忠郷に嫡子が無く、亡くなったため、
秀行の次男、忠知が後嗣となり、伊予松山に移封された。
代わって、加藤嘉明が入封、子の明成が西出丸・北出丸などの造築を行い、
慶長十六年(1611)に起きた会津地震により倒壊した天守を、
現在見られる層塔型の五重天守に造り変えるなど、大規模な改修が行われ、東北地方屈指の名城といわれた。
慶長二十年(1643)、加藤明成は改易され、徳川家光の庶弟である保科正之が二十三万石で入封し、
以後、明治維新まで会津松平氏の居城になった。
幕末の戊辰戦争で、会津藩は新政府軍と戦った時、一ヶ月間の籠城に耐え、
城の堅牢ぶりを見せつけた。
戦いで傷んだ会津城は明治政府の管理となり、明治七年(1874)末までに、
天守をはじめとする建造物はすべて解体された。
明治四十一年(1908)、三の丸の東側と城外に陸軍の練兵場が設置され、
三の丸の一部とその濠や土塁が撤去されたが、本丸、二の丸、北出丸、西出丸と三の丸の一部、
及び、附属する濠は残された。 」
会津若松城は、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置された梯郭式の平山城である。
地元では若松城(わかまつじょう)、あるいは、鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれているが、
同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。
「国の史跡」は若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で、指定されている。
車で入ってきた道を戻ると、西出丸虎口の立派な石垣が残っている。
説明板「西出丸」
「 ここ西出丸は、寛永16年(1639)に藩主加藤明成が本丸の防衛を強化するために整備した郭である。
面積は約4300坪あり、西南と西北には隅櫓がおかれ、出丸内には塩硝蔵や蝋、漆などの蔵が置かれていた。 」
北出丸へ向かう。 土橋を歩き、左折して進む。 土橋はかなり広く、両側は堀である。
北出丸には武徳殿が建っていた。 武徳殿は昭和初めの建物である。
今は木立が繁り、五輪塔のあるところに「北出丸」の看板あった。
鶴ヶ城入口バス停から南に進むと、左に鶴ヶ城会館があり、ツアーバス駐車場と御土産屋である。
本丸茶屋との間に「桜ヶ馬場蹟」の説明板がある。
説明板「桜ヶ馬場蹟」
「 戊辰戦争時、この場所には「桜ヶ馬場」と呼ばれた会津藩の馬の練習場がありました。
当時の鶴ヶ城には、ほかの場所に桜樹はほとんど無かったと言われています。
また、桜ヶ馬場の北側には家老らの武家屋敷が立ち並んでいました。
現在、鶴ヶ城にはいたるところに桜樹があり、春になると見事に咲き誇ります。
これは明治四十年、近隣に陸軍の歩兵連隊が新設された記念として、
城跡内外に桜の苗一千本を植樹したためです。
鶴ヶ城での一ヵ月に及んだ籠城戦ののち、開城した慶応四年(1668)九月二十二日と二十三日、
ここ桜ヶ馬場で人員調べがあり、男子は猪苗代湖送りとなりました。
この時、山本八重は男装し、弟の山本三郎と称して人員検査を通過したのでした。
八重の弟の三郎は、鳥羽伏見の戦いで銃撃を受け亡くなっていました。 」
その先を右折すると、車も通れる幅の広い土橋がある。
左は土橋、水堀の右奥に見える石垣は北出丸の東部分である。
土橋の上の道が大手道で、その先の石垣は北出丸門跡である。
「 北出丸は、直方体の石材で虎口を形成していて、
東は伏兵櫓、南は本丸、西は西出丸に土橋で繋がるが、変形の横に長い長方形の独立した曲輪である。
北出丸と西出丸は、本丸と同じ台地上にあり、
出丸を突破しようとする敵を、高低差を利用して攻撃できるようになっていた。
大手口である北出丸の虎口は、出丸、主郭帯郭、櫓、隣接する西出丸からの射撃が集中し、
その防御の堅さから「皆殺し丸」の別名があった。 」
石垣の手前右側に「枡形(ますがた)」の説明板、左側に「会津鶴ヶ城跡」の石柱がある。
説明板「枡形(ますがた)」
「 ここに見られる石垣は、今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。
若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ(枡形)、
さらに右に曲がった場所には内部を見透かされないように、門(北出丸大手門)がありました。
この枡形は、敵を三方から攻撃できる利点がありました。 」
大手門の石垣をくぐると、出丸の内部へ。 右側の石垣には石段があり、 上に上ると、掘の向うの敵が土橋を渡ってくるのを攻撃できることは得心できた。
「 蒲生氏の後に入った加藤氏により、 従来は小さな馬出しであったこの場所を北出丸に改築し、本丸の北側を守る拠点にした。 」
その先には鶴ヶ城城内絵図があり、会津松平氏の紋章を付けた提灯があった。
直進する椿坂と呼ばれる土橋で、右折すると西出丸方面である。
本丸へ向かうと、本丸虎口で、右枡形になっているが、かってはここに太鼓門が建っていた。
石垣の一角に「太鼓門」の説明板がある。
「 北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、ここには多聞櫓と呼ばれる櫓が建てられ、
直径五尺八寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用したことから、
太鼓門と呼ばれた。 」
太鼓門虎口も枡形で、右折して左折すると、本丸帯郭である。
ここに管理事務所・観光案内所・喫茶コーナーと共同トイレがあり、
日本100名城のスタンプが置かれていたので、捺印した。
トイレの脇に石段があるので、帯郭の雁木(石段)を上り、
西出丸方面に行くと、鐘撞堂があった。
説明板「鐘撞堂」
「 鐘守を置いて、昼夜時刻を城下に報じていた堂で、
その鐘は延享4年(1747) 若松の鋳工、早山掃部介(かもんのすけ)安次等の作として知られ、
鐘の撞き方は江戸流であった。
戊辰の役(1868年)では、ここに新政府軍の砲火が集中し、時守が相次いで斃れたが、
開城の間際まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。 」
太鼓門跡まで戻ると、太鼓門の左側に入った先に細い石段が左右にあり、武者走りの説明板がある。
説明板「武者走り(むしゃばしり)」
「 この石垣は、鶴ヶ城の大手門の渡り櫓などへ、
簡単に「昇り」「降り」ができるように造られています。 V字型に造られており、「武者走り」とも呼ばれ、鶴ヶ城の石垣の特色の一つです。
また、地表面での占有面積も少なくてすみ、石積みについての当時の知恵がうかがえます。 」
この上がどうなっているのか、見たかったが、進入禁止になっていた。
その先左側に鶴ヶ城稲荷神社がある。
「 約600年年前に城が築かれた頃から、守護神として祀られたと、伝えられる。 御祭神は宇迦魂命である。 伝説によると、築城の縄張に苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈願したところ、 霊夢を見て目覚めてみると、降り積もった雪の中に狐の足跡があったことから、 それをしるべとして築城の縄張りを決め、今現在、名城と評価の高い名城を築くことができた、 と伝えられています。 」
御使いの狐の頭にに菅笠が載っているのはお愛嬌である。
稲荷様にお参りして石段を降りると、鳥居の先に天守閣が見えた。
その先の右側にあるのは本丸埋門跡である。
石嵌めこまれた説明板「本丸埋門(ほんまるうずみもん)」
「 天守閣の北東にあって、本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。
城内の他の門や建築物に比較して低い門構えの形態をとっていた。
大手口が東であった築城当時は表門だったが、
寛永16年(1639)に完成した加藤時代の改修後は裏門となっている。
本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。 」
ここには御当地ゆるきゃらのお城ロボくんがあった。
本丸へ入らずまっすぐ行くと本丸北側の石垣が屈折しながら続く帯郭である。
がっちりした打込み接ぎの石垣である。 いよいよ廊下橋に続く食い違い虎口へ。
石段(雁木)があり、左進むと廊下橋門の食い違い虎口が見える。
廊下橋門のあった食い違い虎口は迷路のように組み上げられた石垣である。
廊下橋門があったと思われる石垣には、橋を渡ってくる敵を撃つための巨大な雁木(石垣)がある。
東側の二の丸と本丸の間に、当時は城内唯一の木橋(廊下橋)があった。
現在は赤い欄干の廊下橋が架かっている。
「 加藤氏の大改修まではここが大手口で、
芦名氏の時代には屋根のついた廊下造りであったので、廊下橋と呼ばれました。
鶴ヶ城廊下橋は、本丸と二の丸を結ぶ大変重要な橋であると同時に、
鶴ヶ城天守閣と石垣などと共に、歴史的・文化的景観を形成する重要な施設である。
昭和四十四年三月に架設された木造橋は、約五十年を経過し、部材の腐朽が進み、
危険な状況であったため、平成三十年(2018)三月末に、国産総桧を加工し、
橋の上部の高欄は会津産の漆を使用した朱色、橋を支える構造材は黒色で、
以前と同じ色合いで、架け替えられた。 」
本丸東側の石垣は水堀に向ってカーブを描いている。
二十メートルにおよぶ高石垣で、打込接の美しいものである。
「 二の丸も馬出し状の郭であるが、高低差を利用できないため、 堀切を水堀まで堀下げて、約二十メートルの高石垣とし、 橋は廊下橋とすることで、いざという時は切り落す構造で、防御していた。 」
本丸と二の丸との間の内掘には、ハスがが生えていて、夏になればきれいだろうと思った。
二の丸跡の北側はテニスコートになっているが、かっては伏兵郭があった。
本丸埋門まで戻り、本丸へ入ると右手に天守が見える。
「 幕末の戊辰戦争では約一ヶ月に及ぶ戦いが、鶴ヶ城を中心に行われた。
鶴ヶ城は砲弾に晒され傷つき荒れ果てた。 戊辰戦争後、天守は政府の命令で取り壊された。
市民の願いが叶い、鉄琴コンクリート造で天守が再建されたのは昭和四十年(1965)のことである。
天守は外観復興復元されたもので、
内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。
平成二十三年(2010)に天守の屋根瓦が黒瓦から解体以前の赤瓦に復元された。
天守棟上の鯱は全身銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが埋め込まれている。 」
左側の石垣に沿って進むと、「萱野国老殉節碑」の説明板と石碑が立っている。
説明板「萱野国老殉節碑」
「 萱野権兵衛長修(かやのごんべいながのぶ)は、国家老として内政の責任を担っていた。
慶応4年(1868)戊辰戦争では先頭に立って激務にあたった。
また、敗戦処理に際しては、城の明け渡しや藩主父子の助命嘆願に力を尽くした。
その結果、藩主は死を許されたが、戦争責任は家老田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛にあるとされ、
田中、神保は既に死亡しており、萱野権兵衛のみがその罪を一身に背負い、切腹した。
この碑は昭和9年、有志の手によって建立された。 」
入場券売場で520円を支払い、鉄製の階段に上ると、天守の入口がある。
鉄製階段の左側に石垣をくりぬいた間に石の階段があるが、今は使用しないようになっている。
天守にはこの入口から地下の倉庫(塩蔵)に降り、そこから上って天守一階に出る構造になっている。
入口両側の天守台石垣は野面積みで、巨大な石が入口の上にまたがっている。
天守台は氏郷の時代に築かれたもので野面積みである。
説明板「天守台の石垣」
「 天守閣の土台となっている石垣を天守台といいます。
若松城の天守台は約四百年前の、蒲生氏郷が天守閣を建てたときに築かれたものです。
ただし、内側の石積みは慶長十六年(1611)の大地震の時の被害により、加藤時代に行われた大改修の時に、
積み直されたものです。
天守台の内部は年間を通して、外部より気温が低いため、むかしは塩や保存食などの貯蔵庫として
利用されていました。 現在の天守閣は、鉄筋コンクリート造ですが、
昔のままの天守台に負担がかからないように、地中深く埋められた柱だけで支えられています。 」
地下に降りると、穴蔵の倉庫(塩蔵)になっていた。 外側が野面積みに対し、内部の石垣は打込み接ぎ。 この石垣は加藤時代に積み直されたものである。
説明板「塩蔵」
「 天守の内部は穴蔵になっていて、冷凛な環境を活かして、塩などの貯蔵庫として利用されていたため、
塩蔵と呼ばれている。 常時、「かます」に入れられた塩が積み重なられており、また保存用食料として
乾燥したタニシなども備蓄されていた。 塩を日本海側から阿賀川沿いに運ばれていた。
さまざまな輸送手段が用いられたが、陸上の輸送路は塩の道と呼ばれていた。 」
当時は取りはずしができる木製であったと思うが、今は金属製の階段になっていて、天守一階に出る。
一階には藩主の部屋が再現されていて、火縄銃が置かれていたが、天守の中は撮影禁止である。
天守最上階から本丸御殿が建っていた芝生広場を写した。
天守に接続する走長屋(多聞櫓)、それに交叉する鉄門、
それに繋がる南走長屋と干飯櫓の屋根を確認できたのは収穫であった。
天守の一階に降りると、天守に接続する走長屋(多聞櫓)は売店になっていて、
八重の桜のメモリアルコーナーなどもある。
売店の入口に入ったところに日本100名城のスタンプが置かれていた。
天守に入る料金は必要と思っていたが、スタンプと売店利用のみなら、外側の入口利用で無料である。
売店の先には「復元された干飯櫓・南走長屋」の看板があるが、
平成十三年(2001)に木造で復元されたものである。
「 干飯櫓は、若松城内にあった11棟の二重櫓のうち、
一番規模の大きかった櫓です。
「会津藩家世実記」には糒蔵(ほしいぐら)ともあり、文字通り食料庫であったといわれる建物です。
南走長屋は鉄門(くろがねもん)と干飯櫓を結ぶ走長屋で、武器庫であったといわれる建物です。
いずれも本丸と帯郭を隔てる重要な建物でした。
天守閣とともに明治7年までに取り壊された。 」
ここは天守の入場料を支払った人しか入れず、靴を脱いて袋に入れての見学になる。
南走長屋の廊下の骨組みは柱や梁、そのほかの部材が規則的に重なりあって荷重を分散しながら、
接合部を締め固める合理的な構造になっていて、寛永十六年(1639)に加藤明成が大改修を行った当時
を構造を再現している。
南走長屋は、長い廊下と小部屋が続く。
武具庫であったので、火縄銃や弓矢などが展示されている。
会津には新撰組が逃げてきて、戊辰戦争を戦ったので、新撰組の池田屋事件を再現したジオラマもあった。 また、天守の屋根の赤瓦も展示されている。
石落しと鉄砲狭間があり、戦闘の様子を人形により再現しているが、人形の動作は本物のようだった。
南走長屋から階段で干飯櫓へ入る。
干飯櫓は二階建てであるが、ニ階部分は立ち入り禁止になっていた。
「屋根の構造」
「 干飯櫓・南走長屋の屋根は、野地板の上に手で薄く割った木羽板を屋根全面に重ねて張っており、
これを土居葺きといいます。
この上に瓦を葺きますが、施工方法には、瓦の形状による分類と、葺き方による分類があります。
干飯櫓・南走長屋では、本瓦葺きで土葺工法が用いられており、伝統的な工法と、職人の業により、
美しい瓦屋根となっています。 」
以前は南走長屋の中央から外に出られるようになっていたが、コロナの影響からか、
売店まで戻り、外に出た。
表門の鉄門へ向かうと、干飯櫓と南走長屋の外観を見ることが出来た。
鉄御門の表側に回ると、外側は完全に鉄板で覆われている。
さすがは、戊辰戦争でも落城しなかった難攻不落の城だったことでけのことはある。
上部の壁面は下見板張りになっていた。
よく見ると、屋根が、続櫓(走長屋)〜鉄門〜南走長屋と続くにつれて、
除々に低くなっている。
説明板「表門」
「 帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門で、北向きの多聞櫓城門である。
扉や柱が鉄で包まれていたことから、鉄門の名がつけられている。
門の石垣の工法は切込ハギと呼ばれる積み方で、四辺形に加工した石を積む巧みな工法となっている。 」
加藤氏時代に鉄門が造られ、これまでの表門の埋門が裏門になった。
鉄門は、 戊辰戦争で籠城中は松平容保の指揮所となった。
江戸時代、表門の鉄門をくぐると本丸御殿が建っていた。
今は芝生公園になっている天守の前の広大な広場が本丸跡である。
「会津鶴ヶ城御本丸図」の説明板がある。
説明文
「 ここから見える芝生とその周辺には、鶴ヶ城本丸御殿が建ち並んでいました。
本丸御殿には、表、中奥、奥向などに分けられていました。
中奥(紫部分)は藩主が日常生活や政務を執る場で、表(赤部分)は藩主の謁見など、
公式な儀式、行事のほか、藩役人の執務の場で、奥(青の左側)には金之間や御茶室などもあります。
また、長局のある奥向(青の右部分)は、いわゆる大奥に
あたり、藩主の家族や女性たちの生活の場でした。 」
上部の朱部分は干飯櫓・南走長屋・鉄門・走長屋・天守である。
右側のピンク部分は本丸と帯櫓の間の石垣に建つ多聞櫓の走長屋である。
芝生広場の中央部分に進むと「表御座跡」と「藩主の居間跡」の標柱が立っている。
江戸時代には、表御門をくぐると左折し、玄関に至り、大広間、大書院の先に長囲炉奥間があり、
その東に御次番と御茶所がありその奥に藩主が政務を執る表御座があった。
表御座の南に張り出した御休息があり、その南方に三階建ての櫓「御三階」が建っていた。
今は城下の阿弥陀寺の本堂として移築され、「御三階」の標石と礎石のみが残っている。
説明板「御三階跡」
「 ここには本丸唯一の高楼建築「御三階」がありました。
藩主の御休息の間のすぐ背後に位置し、限られた人しか近付けなかったと考えられます。
戊辰戦争(1868年)でも焼失すつことはありませんでしたが、
戦いによって本堂を失った市内の阿弥陀寺へ、建物は移築されました。
大正年間に城跡公園として整備が始まってからも、建物のあった石垣は残り、
会津若松市としては将来、再び往時のような姿でよみがえらせることも含めて、
城跡全体の整備計画の中で検討しているところです。
現在は、石垣が積まれたところや、その周囲の地面の中に、
むかしのことを知る手がかりがあるかもしれないとして、発掘調査が行われています。 」
その右手に下見板張りの土塁に囲まれた立派な山門を持つ茶室「鱗閣」がある。
前回訪問した時、妻と内部に入り、御茶をいただいたことを思い出した。
「 平成二年(1990)に茶室「鱗閣」が本丸の元の位置に移築復元された。
天正十九年(1591)、千利休が豊臣秀吉により、切腹を命じられたが、
千利休の茶道が途絶えることを危惧した蒲生氏郷が、利休の子、少庵を会津に匿い、
秀吉に千家再興を願い出た。
この結果、少庵は京都に戻り、千家茶道は小庵の子、宗旦に引き継がれ、
その孫により武者小路家、表千家、裏千家の三千家が興され、現在に伝えられている。
この鱗閣は、少庵が会津に匿われていた時、氏郷のために造ったと伝えられているものである。 」
茶室「鱗閣」の北方の芝生の中に「対面所跡」の石碑が建っている。
このあたりは表の大広間と四室の部屋があったあたりと思った。
馬洗石の説明板があり、「本丸南側土手に、藩主が馬術を稽古する馬場があった。
この石は、馬の口を洗うために用いられたと、伝えられる」 とあった。
干飯櫓の脇の土塁に上ると、「出口」の看板があり、干飯櫓のニ階から出ると、ここが出口なのだろうと、
思った。
干飯櫓の土塁を南に向って進むと、月見櫓跡の石垣がある。
説明板「月見櫓」
「 この櫓には常に武器が納められていた。 また、櫓にかかる月が一際美しかったことから、
このような名で呼ばれた。 役割としては城下南方の物見櫓、
また内壕から続く本丸南側の石垣の横矢掛としても重要な櫓だった。 」
ここから見た天守は美しかった。
その先には茶壺櫓跡の礎石と思えるものが散らばり、説明板があった。
説明板「茶壺櫓」
「 この櫓の下には、茶室鱗閣があり、櫓内には主に貴重な茶器類が納められていたため、
この名がある。 茶壺櫓は、廊下橋の側面の守りとしても貴重な櫓である。
廊下橋両側の石垣は高さ約20mと城内で、最も高く美しい石積みである。 」
茶壺櫓の下に緑の樹木が茶室鱗閣を覆い、その先に天守閣がすっくり建っているのが展望できた。
右手奥には土橋に架かる、赤い廊下橋が正面に見え、敵兵が廊下橋に現れると、
横矢掛かりで、鉄砲や弓矢でばたばた倒すことは可能だと、確信できた。
また、この先の石垣は斜めに傾斜していて、切込ハギで築かれた優美な姿と思った。
その先に廊下橋門石垣があり、上から搦手道を敵が攻めてきても、
石垣の各所から鉄砲や弓矢で、雨のように攻撃可能で、大変堅固な裏門であると思った。
以上で、会津若松城の見学は終了である。 会津城滞在時間は2時間10分であった。
会津若松城へは、
JR磐越西線会津若松駅から会津バス「鶴ヶ城まわり」で約15分、鶴ヶ城北口下車、徒歩約3分
100名城のスタンプは天守閣売店(8時30分〜17時、受付は16時30分まで)と
城内の観光案内所にある。
七日町通り
七日町通りはJR只見線七日町駅から東に伸びる通りで、大正、昭和の建物が残るレトロな町並みである。 <br>
鶴ヶ城から10分程で、駅から2分程の七日町浪漫デッキ(有料駐車場)に着いた。
道の斜め前に阿弥陀寺があるので、訪問した。
入口の左側に「会津東軍墓地」、右側に「阿弥陀寺」の標柱があった。
「 阿弥陀寺は、知恩院を総本山とする浄土宗の寺院で、 慶長八年(1603)、蒲生秀行から土地を賜った良然上人により、開山された寺である。 最盛期には130余名の学僧がいたという。 越後街道・若松城下の西の玄関口にあたり、 江戸時代には門前の七日町通りに木戸が設けられていました。 入口の左手に大きな大仏様がありましたが、太平洋戦争で、供出され、今では台座が残るだけです。 」
中に入ると正面にあるのは東軍墓地である。
両側に獅子と思われる石造があり、その先に石の階段があり、入口の戸には会津藩松平の紋章が付いている。
中を覗くと中央にしだれ桜と思われるものが植えられており、両側に墓碑があった。
「 戊辰戦争終結後、城下及び周辺で戦死した会津藩士の遺骸は、
新政府軍の命令で触れることは許されず、放置されていた。
幾度もの嘆願により、やっと埋葬許可が下りたのは翌年の明治二年(1869)二月、
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、ここ阿弥陀寺には、およそ千三百柱にのぼる遺骸が埋葬された。
今でも春と秋の彼岸には供養会が行われ、戊辰戦争に散った若き藩士の霊を手厚く弔っている。
」
その先の左手に、御三階と本堂が建っている。
説明板「鶴ヶ城の遺構 御三階」
「 江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありました。
明治三年(1870)のこの地(阿弥陀寺)に移されました。
外見は3階ですが、内部は四層になっており、2階と3階の間に天井が低い部屋があります。
3階に上がる梯子は用がないものは上がれないように、上から引きあげる仕組みになっており、
当時は密議所に使用されていたと思われます。
また、本丸北東の正方形の石垣の上に建っていたところから、物見や展望台の役目を果たしていました。
戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が消失したために、長く本堂として使用されてきました。
玄関の唐破風は、城内本丸御殿(大書院)の玄関の一部を配してものです。
鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物である。 」
玄関には会津松平家の紋章の葵の御紋が付いていた。
境内には新撰組副長・斎藤一の墓がある。
説明板「新撰組隊士 斎藤一(藤田五郎)」
「 斎藤一は、弘化元年(1844)、御家人の父、山口祐助・母マスとの間に生まれた。
初名を山口一、のちに斎藤一に改めた。
文久三年(1863) 壬生浪士組のちの新撰組に参加し、副長助勤、三番組隊長として活躍、
沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で、剣術指南も務めた。 池田屋事件にも参戦。
その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命ぢ、新撰組から分離した時、伊東に同調して離脱、
しかし、局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新撰組に復帰し、
山口二郎と改名。 鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り、負傷した土方歳三に代わって、
新撰組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。
しかし、西軍が城下に迫った時、「会津侯(松平容保)あっての新撰組、会津を見捨てることは出来ない」
と隊士十余名と会津に残り、仙台へ向かった土方歳三と別れた。
会津藩降伏後は、一瀬伝八と名乗り、越後高田に幽閉。 明治三年、斗南へ移る際、藤田五郎と改名。
その後、上京して警視庁に入り、容保の媒酌により、会津藩士・高田小十郎の娘・時尾と結婚。
警視庁のおいては西南戦争へ出陣するなど活躍。 その後、東京教育博物館等へ奉職し、
大正四年(1915) 七十二歳で逝去。 半生を会津人として生きた本人の希望により、
ここ阿弥陀寺に眠っている。 」
墓地の石垣に「新島八重ゆかりの史跡 阿弥陀寺」の標板があった。
「 八重の幼馴染みが眠る墓
ここは元新撰組三番隊組長・斎藤一の墓です。 ここに眠っているのが、八重の幼馴染みの高木時尾です。 時尾の高木家と八重の山本家は家が御近所同士で、八重は時尾のおばあさんにお裁縫を習っていました。 八重が籠城戦に挑んだとき、髪をきってくれたのも時尾でした。
時尾は戊辰戦争の後に、旧会津藩主である松平容保を上仲人として、斎藤一と結婚。
今ではこの墓に、一緒に眠っています。 」
御三階の左手にある墓地の一角に黒河内伝五郎の墓がある。
墓碑中央に「進義院剣光尽忠居士」と刻まれ、右は長男、左は二男の法名である。
左隣の墓碑は母か夫人のものと思われる。
説明板「会津藩最後の武芸者 黒河内伝五郎の墓」
「 幕末会津藩の武芸家で、兼規または義信ともいう。 家芸の居合術だけでなく、神夢想一刀流剣術、
宝蔵院流高田派の槍術、その他薙刀、手裏剣、鎖鎌など、武芸百般を極め、藩校日新館で、
武芸指南役を務めていた。 長州・萩に招かれたこともあり、
嘉永五年(1852)に吉田松陰が会津を訪れた時、ひそかに日新館を見学させた。
会津藩最強の剣客といわれ、晩年は失明したが、座頭市を彷彿させるように、
武芸の技は衰えることがなかったという。 会津戊辰戦争で、長男義次は戦死、次男義兼は負傷。
西軍が城下に攻め入った慶応四年(1868)八月二十三日、伝二郎は次男を介錯した後、自決した。
六十五歳だった。 古武士を思わせるような典型的な会津人で、平成二十五年のNHK大河ドラマ
「八重の桜」にも登場している。 」
七日町通りを歩くと、紺の暖簾をかけた渋川問屋がある。
「 渋川問屋は、明治初年に渋川善造が創業した海産物問屋で、山国会津には欠かせない
ニシンや棒タラの塩干物、会津各地の清流に産する鮎などを一手に扱い、後には肥料なども扱っていた。
最盛期には敷地内に渋川家六家族、番頭、丁稚、女中など、五十余人が生活っしていた。
七日町通りに面した木造の店舗は、大正時代の建築で、現在は郷土料理の食事処として利用されているが、
ニ階の離れの一室が2・26事件で、民間人でただ一人処刑された渋川善助ゆかりの部屋である。
この部屋で、幼年期をすごした善助は、陸軍士官学校時代には、御前講演を行うほどの秀才であったと
いわれている。 渋川問屋には、善助の取材に、三島由紀夫や松本清張など、多くの作家が、
訪れている。 三島由紀夫は、この部屋を「憂国の間」と命名した。 」
その隣に、蔵の前に店を突き出したような構造になっている「本家長門屋」があり、
伝統とモダンの新作菓子が多くの賞に輝く長門屋の七日町店である。
その隣に会津木綿を扱う、「もめん絲(いと)」があり、
その隣に古民具に囲まれた落ち着いた雰囲気のコーヒーや茶屋団子セットを出す「やまでら茶屋」がある。
隣の白いビルは「ほしばん絵ろうそく店」で、元祖会津絵ろうそく製造販売所。 只今九代目で、
江戸時代からの伝統を守り続ける。
その他、会津漆器の店などがあり、けやき通りと交叉する交叉点を左折した先には、
会津新撰組記念館(骨董むかしや)があるなど、町歩きを楽しく町並みなので、
時間があればゆっくり歩くのがよいだろう。
今回訪問しなかったが、会津藩関係では会津松平氏庭園 御薬園と会津藩主松平家墓所がある。
「 御薬園は、会津松平家二代藩主、保科正経が領民を疫病から救うために薬草園を整備し、
三代藩主、松平正容は、朝鮮人参を試植し、広く民間にも奨励したことから、薬草園の名で呼ばれるように
なった。
昭和48年に移築された重陽閣は、秩父宮妃が御成婚の報告をされるとき、
東山温泉に建てられた建物である。
会津戦争では、御薬草園は新政府軍の療養所として使用されたため、
御茶屋御殿、楽寿亭は焼失を免れましたが、当時の刀傷が残っている。 」