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丘の頂上から右に下ると、塩釜街道に面する場所に建物が建っていて、 中をのぞくと石碑がある。
「 多賀城は天平九年(737)に「多賀柵」として初めて「続日本紀」に登場し、
宝亀十一年(780)以後は「多賀城」として史料に現れる。
多賀城は奈良時代の養老四年(720)の蝦夷(えみし)の反乱を契機として、
新たなる支配体制整備のために神亀元年(724)に造られた奈良・平安時代の陸奥国府である。
軍事を担当する鎮守府も置かれ、蝦夷対策を進める拠点でもあった。
陸奥国だけでなく、古代東北の行政・経済・文化の中心地だった。 」
建物中にある石碑は多賀城碑とか、壺碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれたものである。
「 この碑は多賀城外郭南門の北東に位置し、江戸時代に土中から発見されたと伝えられる。
碑面には「多賀城の位置」、「按察使大野東人による神亀元年(724)の創建」、
「藤原朝狩による天平宝字六年(762)の改修」が百四十一文字、刻まれている。
発見当初より、歌枕にある壺碑(つぼのいしぶみ)ともみなされ、芭蕉をはじめ多くの文人が訪れたという。 」
多賀城は松島方面から南西に延びる低丘陵の先端に位置し、
仙台平野を一望できる。 芭蕉は松島を訪れた際、訪れた。
以下に芭蕉の奥の細道で壺碑を訪れた時の文章を掲載する。
「 壷碑 市川村多賀城に有。 つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。 此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。 天平宝字六年参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣修造而、十二月朔日と有。 聖武皇帝の御時に当れり。 むかしよりよみ置る哥枕、おほく語傳ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、 木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、 今眼前に古人の心を閲す。 行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。 」
奈良、平安時代に都から多賀城に赴任した人々が、周辺の美しい自然を和歌に詠みこんだことから、
多賀城は都人のあこがれを集め、広く知られるようになり、歌枕となった。
仙石線の多賀城駅の南西には恋愛をテーマとする歌に詠み込まれた「末の松山」があり、
芭蕉はそこにも訪れている。
塩釜街道を左に斜め横断して左側の小道に入ると工事中。
業者の人の話では多賀城の関連工事だが、予算の関係から完成時期は分らないという。
その先に石仏が横に並べられているところがあるが、発掘調査の際、出土したものか、
江戸時代からあるものかは分からなかった。
多賀城は東辺約千メートル、西辺約七百メートル、南辺約八百八十メートル、
北辺約八百六十メートルのいびつな四角形で構成され、外郭には築地塀や材木塀を巡らせ、
南、東、西辺には門が開かれていたという。
石仏群の先を左折すると大きくゆったりした階段道が現れたが、これは多賀城政庁南大路跡である。
説明板「 多賀城政庁」
「 多賀城の正門で、外郭南門から中枢部の政庁まで南北に通じる道路跡である。
発掘調査から、道路幅は政庁第T〜U期(8世紀)は約十三メートル、第V〜W期(9〜11世紀中頃)は約二十三メートルだったことが分かった。
政庁南西斜面は自然石を並べた階段が設けられ、排水用の暗渠も設置されていた。
政庁第T〜U期の姿で復元された。 」
階段を上りきると、前方に広い空間が現れたが、
外郭のほぼ中央部のこの小高い丘に建っていたのが政庁である。
政庁復元模型(1/200縮尺)があり、説明板が立っている。
「 この模型は第U期(8世紀)の姿を推定復元したもので、 主要な建物である正殿、東・西脇殿、南門の他に東・西楼と後殿が新たに建てられた。 広場は石敷きになる。 南門の左右には翼廊(よくろう)が付き、 築地塀には東・西殿や北殿などの装飾的な建物が加えられた。 」
政庁は政務や儀式が行われる城内で最も重要な場所で、
周囲は東西約百六メートル、南北約百七十メートルで、築地塀で囲まれ、
内部には正殿を中央に後殿、左右前方に東脇殿、西脇殿などの建物が建てられていたことが、
案内板などと共にある復元模型で実感できた。
多賀城は八世紀初めから十世紀半ばまで存続し、その間大きく四回の造営が行われている。
左手に「政庁南門跡」の説明板と「西翼廊跡」の標石があり、南門の形跡を示す赤褐色の舗装と礎石がある。
説明板「政庁南門跡」
「 ここには南正面の門があった。
奈良時代後半の第U期は礎石式で、東西には門を飾る翼廊が付いていた。
現在表示している石組溝の石は当時のものである。 」
説明板「政庁正殿跡」
「 政庁の中心となる建物で、礎石式の四面廂(ひさし)付建物で、
その南は石敷の広場になっていた。
現在は建物の基壇(きだん)のみを復元表示しているが、
礎石の一部は当時のものである。 」
中央にある正殿跡は建物の大きさがわかるようにコンクリートで、 土台が復元整備されていた。
「 中央政府の蝦夷進出は七世紀前半は多賀城柵までであったが、
その後、八世紀後半には秋田城、
九世紀後半には盛岡の志波城まで城柵は延びていった。
延暦二十一年(802)、坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、
戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城へ移された後は、
兵站的機能に移ったと考えられている。
貞観十一年(869)の大地震により、多賀城では多くの施設が被害を受け復興したが、
十世紀後半頃には維持、管理されなくなり、多賀城は次第に崩壊していった。
なお、南北朝時代には後醍醐天皇率いる建武政府において陸奥守に任じられた北畠顕家と
父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城へ赴き、
多賀城に東北地方、および北関東を支配する東北地方の新政府、
陸奥将軍府が誕生させている。
多賀国府は多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、
伊達政宗の祖父、行朝の所領である伊達郡の霊山に移転している。 」
政庁跡の奥に降りると、右手に駐車場があり、
その脇に多賀城跡管理事務所(政庁跡北側、9時〜16時)がある。
日本100名城のスタンプはここにあった。
この近くにあった案内板には多賀城全体図があり、地区の案内も書かれている。
「 多賀城は周囲を土で固めながら積み上げて、上に屋根をかけた築地で、
城外とを区別していた。
築地は幅が約三メートル、高さは四メートルを超すと想定される。
地盤が軟弱な場所では、築地の代わりに丸材や角材を密に並べた材木塀が作られたという。
城内には多数の実務的な役所、木工や鍛冶などの工房、警備をする兵士の宿舎などがあり、
都から赴任する按察使(あぜち)、国司、鎮守府官人など二十名前後の役人の他、
書生などの下級役人、工人、兵士などがいて、
全体で千二百人を超えると試算されているというから、
都に伝えれ、話題になったことはうなずける。 」
多賀城の南東千二百メートルには多賀城廃寺があり、
昭和四十一年(1966)に、「多賀城跡 附 寺跡」として、
国の特別史跡に指定された。
以上で多賀城の探勝は終了である。
多賀城へはJR東北本線国府多賀城駅から徒歩約15分
多賀城のスタンプは多賀城跡管理事務所(政庁跡北側)にて