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仙台城跡で降りると、目の前にあるのは宮城県護国神社の鳥居である。
鳥居の先の石垣にあるのは詰門跡。
説明板「詰門跡」
「 仙台城本丸は広瀬川に臨む断崖であり、
西側を青葉山、南側を竜の口渓谷が囲むという天険の要害となっている。
この北側に石垣が築かれ、登城口が設けられていた。
詰門はこの入口に建てられた門で、正保の城絵図によると、
二階建て瓦葺きで、軒の両端に鯱が乗っていた。
左右の石垣間の距離は約十九・五メートルで、
大手門と同じ幅を持つ門の左右(東西)には三重の脇櫓(東詰櫓、西詰櫓)が築かれた。 」
伊達政宗が築いた仙台城は本丸と西の丸で構成される城だった。
その先の左側に仙台城見聞館(9時〜17時)があり、ここで日本100名城のスタンプが押せる。
正面は本丸跡で、発掘調査の結果を基に本丸大広間の建物跡が石や舗装で復元されていた。
奥に見えるのが仙台城見聞館である。
その先に伊達政宗の騎馬像が建っているが、ここは天守台の跡である。
仙台城は天守台はあるが天守は築かれなかったものの、
本丸は六十二万石の大名にふさわしく、
桃山文化の集大成ともいうべき本丸御殿の建物が建ち並び、
その内部は数多くの美術品で飾られていたという。
本丸跡の一角に初代藩主政宗が築いた石垣と十七世紀後半、
四代藩主綱村が築いた石垣の一部が再現され、並べて展示されていた。
本丸から下を見ると広瀬川がUの字のように蛇行して流れている。
その中にあるのは花壇自動車大学校で、その先に霊屋(おたまや)という地名があり、瑞鳳殿がある。
「 政宗は生前に経ヶ峰の頂きを墓所と定めたとされ、政宗の霊廟所である瑞鳳殿は桃山風の建物だが、
戦災で焼けたので、現在の建物は再建されたもの。
近くに感仙殿(二代藩主忠宗霊廟所)、善応殿(三代藩主綱宗霊廟所)がある。
眼下に見ると、仙台城は四方が広瀬川の渓谷や断崖などに囲まれた天然の要害であったことが分かる。
しかし、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、二代藩主忠宗は寛永十四年(1637)、
麓に二の丸造営に着手し、翌年二の丸御殿が完成させ、
その後の伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。
これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られ、
これ以降、仙台城は平山城となった。 」
平成になり、本丸跡の調査が行われ、北部の高石垣が修復されたが、
最も高い部分は十七メートルで、
背後に異なる二つの時期の石垣が埋没していることが確認され、
その一部が本丸の一角に再現されていることは前述の通りである。
なお、仙台城西の丸は宮城県護国神社の境内になっていた。
先程バス停前に戻ると、車道の下り坂に平行して高石垣が続いている。
これは先程上から見た北石垣の端である。
車道を下ると右側に「沢門跡」の説明板がある。
「 仙台城には複数の門や曲輪があったが、沢門は沢曲輪と中曲輪の間にあった門で、 平屋建てで屋根は切妻瓦葺きだった。 」
右に入る小路に入り、沢門跡を写した。 道は左にそして右にカーブしながら、下っていく。
右側に石垣がありその下に「清水門跡」の説明板が建っていた。
「 清水門は三の丸と沢の丸の間の登城道に設けられた門で、
正保二年(1645)の城絵図では入母屋造り、二階建ての二重門になっているが、
創建年代や変遷は不明である。
清水門の名は門付近に仙台藩の御用酒づくりに利用された清水があったことにちなむ。 」
道の反対には「仙台藩御用酒発祥の地」という石碑が建っていた。
道を更に下ると、巽門跡で、その先にあるのは三の丸掘の一部である長沼である。
その先の左側に片倉小十郎の屋敷があったという。
この道の左側にあるのは仙台市博物館であるが、ここが三の丸があったところである。
境内には支倉常長の記念碑や政宗の銅像や魯迅の碑など、多くの碑が建っていた。
「 残月亭は四畳半の屋敷の茶室を中心に水屋が付き、屋根は寄棟造り柿葺きになっている。 初代仙台区長の松倉恂により建てられたもので、部材の一部は江戸時代の部材を使用していて、 扁額は正保四年(1714)に第五代藩主吉村が初代藩主政宗の筆跡となる残月亭の扁額を模刻したものを 明治二十七年にさらに復刻したものである。 」
博物館を出たところにあったは「子の門跡」である。
説明板「子の門跡」
「 子の門は木造二階建て、瓦葺きの門で、正保の城下絵図(1645)では子の方門とある。
三の丸への北出入口である。 現在も石垣の左右残っているが、昭和に修理されたものである。 」
子の門跡の先の左側には「三の丸堀跡」の説明板がある。
「 三の丸は江戸時代の城下絵図では蔵屋敷、御米蔵、 東丸などとも記載され、 藩に納められた御年貢米などの貯蔵する場所として用いられていたと考える。 奥州仙台城絵図(1645)によると、その規模は東西約百四十四メートル、 南北約百十七メートルで、 周囲は大規模な土塁と堀で囲まれていた。 発掘調査により、初代藩主伊達政宗の時代には 庭園や茶室を伴う屋敷があったことが明らかになった。 土塁と堀は現在も残り、三の丸堀跡の北側は五色池、東側は長池と呼ばれている。 かっては長沼の南端、巽門の東側にもカギ型の堀があり、 巽門と一体になって、城の出入口を形成していたが、現在は埋められている。 」
長沼に沿って進むと三叉路の信号交叉点で、左折して坂を上っていく。
左下には五色沼が見え、前方の右手に石垣が見えてきた。
「 この石垣は仙台城の大手門の北東の石垣で、 石垣の上には桟瓦葺き、漆喰塗の土塁が配されている。 この土塀は空襲で焼失せず残ってもので、仙台城内に現存する唯一の建造物である。 」
道の反対にある建物は大手門隅櫓である。
大手門と共に昭和六年(1931)に国宝に指定されたが、戦災により焼失。
現在の建物は昭和四十二年(1967)に民間の寄付により外観が復元された建造物である。
大手門隅櫓の前に「大手門跡」の説明板があり、 在りし日の大手門の写真が付いていた。
「 大手門は素木造、二階建、屋根は入母屋造、瓦葺きで、 桁行が六十五尺(約19.7m)、側面の梁間が二十二尺三寸(約6.8m)、 高さは十二・五メートルと全国的にも最大級の城門だった。 正面冠木に菊と桐の金箔押の飾金具をあしらい、棟に鯱を頂いていた。 脇櫓と共に国宝に指定されていたが、 昭和二十年(1945)七月九日の仙台空襲により焼失した。 」
脇櫓と道路を隔ててある北東石垣の間に大手門が建っていた訳だから、
如何に大きかったかは分かる気がした。
北東石垣の脇に支倉常長の銅像が建っていた。
支倉常長については前述の博物館の一角にある記念碑に下記の文字が刻まれていた。
「 遺欧使節 支倉常長は通称、六右衛門 仙台藩始祖伊達政宗は使節として慶長十八年(1613)九月十五日、 仙台藩建造のサン・ファン・バプチスタ号に乗り、牡鹿郡月ノ浦を出帆、メキシコ、イスパニアを経て、 元和元年(1615)九月三日ローマに至り、法王パオロ五世に謁見し、使命を遂げ、 同六年八月二十六日帰国。 同八年七月一日没した。 年五十二 」
北東石垣に沿い下り、左折して地下鉄東西線国際センター駅を目指す。
右側にあるのは国際センターで沢山のトラックが列を作っていた。
道の左側の北側は東北大学の敷地だが、かっては仙台城の二の丸だったところで、
広大なものであったと驚く。
左側に「扇坂」の説明板がある。
「 扇坂は千貫沢に架かる筋違橋と大手門を結ぶ道から二の丸に登る坂で、 下に向って広がる形状から扇坂と称された。 坂の前面を横切る千貫沢の水路には南北二ヶ所に石橋を架け、 北側にこれより先は馬を乗り入れないことを示す下馬札が立ち、厩があった。 大手門は藩主の出入と特定の儀式のある式日以外は開門されず、 藩士にとっては、この扇坂と二の丸北方の千貫橋が通常の登城口だった。 」
地下鉄東西線の国際センター駅から仙台駅に出た。
まだ四時半だったが、仙台駅の牛タン横丁の利久で牛タン定食を食べ、帰りにずんだジュースとずんだもちを買い、
ホテルで食べた。
仙台城へはJR東北新幹線・東北本線仙台駅から仙台市バス「仙台城跡方面行き」で約25分、仙台城南下車、徒歩約5分
仙台城のスタンプは仙台城見聞館にて
平成二十年(2008)に娘と妻は仙台城と松島瑞巌寺を訪れている。
以下に 妻が書いた 「日本100名城の仙台城と松島瑞巌寺」 を掲載する。
東京に行く用事があったので、
東京まで行くならついでにちょっと足を伸ばして仙台は青葉城址を見に行こうということになった。
Maxは後から東京に来るというので、Okanと「あっ晴れ」のいい加減大好きコンビである。
天気は残念ながら雨、しかもすこぶるつきの雨の予報。捨ててこられるようにコンビニ御用達のビニール傘を持つ。
仙台に着いてみると予報とは違い暑いくらいの晴れ。ちょうど桜の満開時期でもあった。
先ずは仙石線に乗り換えて松島海岸まで。電車を見て、Okanはびっくり。ドアの所に大きなボタンがついているのだ。
乗り降りに自分でボタンを押すのである。雪や風が入り込むのを防ぐための設備、
寒い地方はそのようになっているとは聞いていたが、実際に乗ったのは初めて。
松島には3回目の訪問なのに、前に来たときはどうだったのかまるで覚えていない。
「なんにでも感心するねぇ。」と言われた。ホント!!
松島は桜満開。今日が一番いい…とは土地の人の話。東北に来て桜を見られるとは思ってもいなっかったので、
このサプライズはうれしい。松島駅から瑞巌寺へ向かう途中にある天麟院へ寄る。政宗候の娘、五郎八姫の菩提寺である。
五郎八姫は、家康の六男松平忠輝と結婚、忠輝が流された後仙台に戻っている。
枝垂れ桜が満開で、姫君の菩提寺に優しい風情を添えていた。
円通院は瑞巌寺に隣接しており、政宗候嫡孫、江戸城内で19歳の若さで夭逝した光宗候の菩提寺である。
本堂から更に奥まった所にある霊廟「三慧殿」は国の重要文化財に指定されている。
厨子の扉には、支倉常長が西欧から持ち帰った様々な文化を、模様として描き象嵌されている。
バラの花、ダイヤ模様、クローバー模様、ハート、スペードなどどれをとっても現代に通用するモダンな意匠である。
支倉常長等の苦労多くして報われなかった渡欧の事々を合わせ思うと、胸打つものがある。
さて、瑞巌寺である。正面の参道は長く、さすが仙台藩のお膝元の大寺院という趣である。
重文も中門、御成門、本堂、庫裏と多く、見るべき所はかなりある。本堂前に、臥龍梅という紅白の梅の木がある。
桜も満開なら、其の梅も今日が一番の見ごろという按配。門の両側にあふれんばかりに咲き誇っていた。本堂の中をめぐる。
芭蕉に「金壁荘厳光を輝かし…」と謳われた障壁画は、360年の歳月を経て劣化が著しくなり、
昭和60年から10年の歳月をかけて保存修理が行われ平成7年に完成したばかりであるとか。
警備をしている方が言うには、来年からまた修理に入るから本堂に入れるのは今年までであるとか。
修理の完成したときには、私はもう住所変更しているかもしれない…いいときにくる事ができたなぁ。
瑞巌寺は谷に立地しているため、崖に修行窟のようなものが多数穿がかれている。
遊歩道に沿ってあり、見ることが出来る。以前よりはきちんと整備されてきているが、中を覗くのが怖いような窟もある。
こういう所で修行して、得たものは何なのだろうか。俗人にはうかがい知れぬ、計りがたきものなのであろう。
瑞巌寺をでるとそこは土産物屋が立ち並んでいた。「ずんだ」「ずんだ」「牛タン」「牛タン」ばかりである。
其の一軒でしばし休憩の後、政宗候建立の五大堂に向かう。
瑞巌寺守護のために五大明王がまつられており、小さな島全体が聖域である。
江戸時代中頃に、透かし橋の記録があるから、早くからこういう構造であったということが解かっているとか。
五大堂参詣には、身も心も穢れがないように、脚下をよく照顧し、気を引き締めるようにとの配慮からこういう構造になったとか。
観光バス一団のガイドの説明である。
松島海岸駅から、ボタン電車で仙台駅まで戻る。今晩の夕食、勿論、仙台は「牛タン」!!
なんと、駅には「牛タン通り」なる飲食街があるのだ。そこで、仙台出身の友人に聞いてきた「牛タン」のおいしい店に。
美味しかったです。仙台にお出かけのときはご連絡を。お教えいたします。
昨日とはうって変わって雨。台風の影響らしいがかなりの降りである。
まぁ。雨の仙台も風情があるかぁと負け惜しみを言ってみる。
仙台には市内観光に便利なバスがある。一回200円一日乗車券600円。「るーぷる仙台」というとても可愛いバスである。
マップもあり、市内の観光場所が網羅されている。一方向運行ではあるが、時間も平日20分ごとで、解かりやすい。
其のマップに沿って、見たい所で下車することにした。
朝一番のバスの運転士さんは、「歴史が好き…」なかたで、説明もわかりやすく、目的地で降りるのが惜しいほどであった。
駅から数えて4番目、「瑞鳳殿前」で下車。「正宗山瑞鳳寺」といい、伊達家の菩提寺である。
参道の長い石段を登っていくと涅槃門に出る。ここは、昭和6年に国宝に指定されたものの、
昭和20年の戦災で焼失、54年に再建されたものである。桃山様式の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築で、平成13年に改修され、
創建当時の姿に蘇ったとか。空襲で焼失した藩主3代の霊屋を再建する際に行われた発掘調査により、
完全な遺骨や副葬品などを発見。藩主の容貌、身長、血液型などまでが現在わかっているという。
どの廟も極彩色に彩られ、実に美しい。資料館では、感仙殿(第2代藩主忠宗霊屋)、
善応殿(第3代藩主綱宗霊屋)の副葬品が展示されている。政宗候の遺品は仙台市博物館にあるという。
お上にめしあげられたのかしら…なぁーんて。
またまたループバスに乗り、博物館まで。バーチャル映像を駆使して、実に解かりやすく見せてくれる。
また、政宗候の遺品も展示されており、ボランティアの説明もある。きれいなレストランも併設されている。
遅めのお昼をここでとる。
雨が激しくなってきたし、バスはタッチの差で行ってしまったので、
折りよく来たタクシーに仙台城址資料館まで乗る。
資料館が一番奥にあるので、そこから順次下りてきたほうが効率がいいと運転手さんが言う。
教えられたとおりにして正解であった。資料館は政宗候の生涯や仙台藩関連の資料を展示。
支倉常長一行の渡欧の話も映像と併せてわかりやすくまとめられていた。
雨は降っていたが折角来たことだし城址の中を歩く。本丸跡に、長い歴史が刻まれた石垣と、
戦後復興された脇櫓が建っている、天守台には政宗候の騎馬像が建っていた。
晴れていたら共に城下を瞠ることが出来たのに…。
城址跡からループバスに乗り、駅に戻る。ループルは一方行周りなので、駅に戻るのに仙台市内を一巡りすることになる。
おかげで青葉通りなど仙台の繁華街もみることができた。
写真でははっきり見えないが、市内の信号機には、伊達家の家紋「九曜紋」がついていた。
台風が来ているとのことなので、新幹線が止まると困るので、少々早めだが東京に帰ることにした。
「ずんだもち」のカップ入り「ずんだもちプチ」というのを買い、車内で食べた。さっぱりした甘さで、
甘いもの苦手の私でも美味しくいただけた。
いつものことながら2日間、松島、仙台と駆け足で巡り、疲れたけれど満足した。