mrmaxの城めぐり 宮城県3 (白石城)


白石城は伊達政宗の重臣・片倉小十郎景綱が城主を務めた城で、 益岡城あるいは枡岡城ともいわれた平山城である。 
続日本100名城の第105番に選定された。 



かうんたぁ。




令和三年(2021)五月二十九日、向羽黒山城を見学後、 喜多方、裏磐梯の五色沼、山岳道路を通って、 福島西ICに出て、東北道で白石城へ向かうルートをドライブした。 




喜多方

ナビに従い、喜多方蔵の里を目指し、到着したのは12時であった。 
喜多方蔵の里は、移築された店蔵、味噌蔵、農家の穀物蔵、 新築した座敷蔵など七軒の蔵と、 旧郷頭屋敷(県指定重要文化財)を配置し、喜多方地方の古い町並みを形成している施設である (入場料400円)

「 喜多方は、かって「北方」と呼ばれ、 江戸時代には若松城下と米沢を結ぶ街道の町として、また、物資の集散地として栄えた。  喜多方には今でも四千百棟以上の蔵が広く分布している。  このように多くの蔵が建てられたのは、物資の保管、醸造業や漆器業が盛んであったことに加え、 明治十三年の大火で、その耐火性が見直されたこと、蔵を建てることは男の一生の夢だったこと、 蔵造りの名工が数多くいたことによる。 」

旧郷頭屋敷は、江戸初期から幕末まで、郷頭を務めた外島家の住宅で、県指定重要文化材である。 

説明板「 郷頭屋敷 旧外島家住宅 (喜多方市慶徳町豊岡)」
「 外島家は、江戸時代初期の寛永年間から幕末まで、会津藩上三宮代官所支配に属し、 慶徳組十九ヶ村の郷頭職を務めた最上層農民でした。  この住居の主棟および曲がり棟の創建年代は、明和八年(1771)との記録が残っています。  その後、郷頭としての体裁をいっそう充実させるために、 十八世紀末頃に正面右手の座敷ニ室を増築したものと、思われます。  会津地方の農民住居、とくに村役層住居で、旧外島家のように、原形がほぼ判明し、 しかも十八世紀後半という、早期の建立が特定でいる住宅は珍しく、 きわめて貴重な遺構といえます。 」

旧手代木屋敷も県指定重要文化材である。  

説明板「旧手代木屋敷住宅一棟」
「 旧手代木家住宅は、天保年間、小荒井組郷頭手代木から分家した。  この家の初代手代木逸八氏が、下三宮村の肝煎として赴任した折の建築であると、口伝されています。  この建物は、その主屋だけを喜多方プラザに移築して、創建時の姿を復原されたものです。  この住宅は、当時の村役層農民(肝煎)が在郷役人として務めを果たすため、緊急に建築し、 その後徐々に整備し、地方上層農民として、ふさわしい住宅に改めてきたものです。  改造も少なく保存されてきたので、文化財的価値は高く、また異色ある間取りや、 鍵型に曲げて設けられてたうまやや座敷など、江戸時代後期のこの形態の存在を裏付ける遺構として、 貴重な資料となります。 なお、柱・床などに見られる「きずあと」は、 明治元年(1868)の農民一揆の折のもので、当時のありさまを物語っています。 」

白い蔵は旧唐橋家の味噌蔵である。  

説明板「 旧唐橋家味噌蔵 (喜多方市松山町村松)」
「 かって会鶴醸造の味噌蔵として使用されていた間口3間半X奥行8間の大きな蔵です。  道路建設のために解体されることになり、ゆずりうけたものです。  再生にあたっては、柱・貫・梁・桁および小屋組の構造部材をそのまま再利用しました。  内部は木造トラス組の架構をあらわし、規模大きな空間を形づくっています。 」

郷頭屋敷 旧外島家住宅
     肝煎屋敷旧手代木家住宅      旧唐橋家味噌蔵
郷頭屋敷 旧外島家住宅 肝煎屋敷旧手代木家住宅 旧唐橋家味噌蔵



薄茶色の旧猪俣家穀物蔵があった。

説明板「 旧猪俣家穀物蔵 (喜多方市熊倉町熊倉)」
「 旧米沢街道の宿場町として栄えた熊倉町の穀物蔵です。  建築年代は、明治末期から大正初期と推定されています。  間口2間X奥行4間で、土壁をあげ砂壁仕上げした上に、 置き屋根をのせた二重屋根型式をとっています。  窓は2ヶ所に設けていますが、一方はニ階のみの窓で、正方形に近く、他方は一、ニ階共通のたて長で、 特徴的な外観となっています。 屋根、窓の配置など均整がとれ、 観音開き扉の意匠も美しく、喜多方地方の典型的穀物蔵といえます。 」

旧井上家穀物蔵は喜多方市熊倉町芦平から移築したものである。 

説明板「 旧井上家穀物蔵」
「 間口3間半X奥行2間の農家の穀物蔵で、 墨書に「慶応四戊辰辰年(1668) 小沼村甚五郎作 辰三月建前作之」 とあります。  二重屋根型式の置き屋根はもとは茅葺きで、外壁は土壁仕上げになっており、 風雨にさらされたままになっていました。  しかし、構造材はしっかりしており、大部分を使うことができました。  移築にあたっては、屋根を瓦葺きで再生し、外壁を砂壁で仕上げました。  片開きの土戸の鍛冶金物は、当時のものをそのまま使用しています。 」 

その他、旧東海林家酒造蔵と喜多方地方の典型的商家として、新築の勝手蔵と座敷蔵が新築されていた。 
一二時四〇分を過ぎていたので、喜多方ラーメンを食べ、喜多方の終わりにしようと思った。 
喜多方ラーメンといえばここという、坂内食堂へ行ったが、土曜日でもあり、駐車場へ入れないので、 蔵の里の受付で紹介された「一平」に行った。 

「 喜多方ラーメンは、大正末期から昭和初期に、チャルメラを吹き屋台を引いて、 支那蕎麦を売り歩いていた中国から渡ってきた青年の作るラーメンが元祖と伝えられている。  喜多方ラーメンは、醤油味がベースであるが、店により色合いや風味は千差万別である。  塩味、醤油味、その中間の味といった様々な味がある。 また、麺も店により、太さ、縮れ具合、こしなど 様々である。 一般的には、麺の幅が約四ミリの太麺で、水分が多く含ませじっくり寝かせてつくり、 コシと独特の縮れがあるのが特徴である。 」

喜多方老麺会に加入する店は40店であるが、バブル期に喜多方が蔵の町を売り出し、 蔵の写真を撮るてめの観光客が喜多方ラーメンを有名にした最初の要因である。 」

訪れた一平は、以前訪れた「ふれあいパーク喜多の郷」の南にあった。 
小生がバブル期に訪問した頃は素朴な味わいのスープがどの店も共通していたが、 その味をかたくなに守る店と常に新しい味を求めて変えていく店と二つに分化しているようである。 
一平はじとじとスープにニンニクを加え、チャ―シューと白髪ねぎが盛りたくさんのラーメンで、 先月訪れた奈良天理ラーメンに近い味であった。 
一方、帰りに高速道路のSCで食べたラーメンは昔の喜多方ラーメンの素朴な魚介系の味であった。 
喜多方で売られているので、どの店も喜多方ラーメンと言っているが、 味や具材などに統一的なものはないので、「喜多方老麺会」のパンフレットから、自分の好みにあった店に行った方がよいだろう。 

旧猪俣家穀物蔵
     旧井上家穀物蔵      一平
旧猪俣家穀物蔵 旧井上家穀物蔵 喜多方ラーメン 一平






五色沼から飯坂温泉

五色沼には、国道459号を通り、太塩裏磐梯温泉から坂を上って行くと、道の駅裏磐梯がある。 
下にわずかに見えるのは桧原湖である。 桧原湖は縦に細長く伸びる湖で、 その先に小野川湖、秋元湖とあり、秋の紅葉が美しい中津川渓谷がある。 
 

道の駅裏磐梯
     桧原湖      桧原湖
道の駅裏磐梯 桧原湖 秋の桧原湖



ここから、冬季は通行止めになるが、磐梯吾妻レークラインで福島へ抜けるルートがある。 
今回はその道には入らず、五色沼方面へ向かうと、桧原湖の湖岸に裏磐梯物産館があり、 そこが五色沼の入口である。 
五色沼自然探勝路は、全長約4kmで、 片道1時間から1時間30分程の比較的平坦なハイキングコースである。 
明治二十一年(1888)に、磐梯山頂北側の小磐梯を含む部分が水蒸気爆発により、 山体崩壊が起き、岩なだれが川をせき止め、この地区に数百もの湖沼が出来た。  その一部が五色沼である。 
裏磐梯物産館の中の壁に分かりやすく、開設されていた。 
物産から歩き始めると最初にあるのが柳沼である。 
そこから少し歩くと見えてくるのが青沼である。 
水質と光の屈折により青く見える。 

五色沼誕生解説板
     柳沼      青沼
五色沼誕生解説板 柳沼 青沼



その先右側のるり沼は草に覆われ、散策路からは見えないが、右奥に入ると見晴台があり そこからるり沼を見ることができる。 
遠くに裏磐梯の山容が見え、その前にるり沼が青沼より、青緑色の色をしていて浮かんでいる風景があった。 
また、少し歩くと左側に見えてくる大きな沼は弁天沼である。 
歩きだして三十分強であった。 
水面に名を知らない草が茂っていて、太陽に射す角度により、色々な色を表していた。 
その先、竜池、緑色をしたみどろ沼と続く。 みどろ沼には水草が多く繁茂していた。

るり沼
     弁天沼      みどろ沼
るり沼 弁天沼 みどろ沼



赤沼を過ぎると、五色沼では一番大きい毘沙門沼がある。 
毘沙門沼では貸ボートを楽しむカップル達がいた。 
ここからは水蒸気爆発により破壊された裏磐梯の山肌をしっかり見ることができる。 
その先は、五色沼探索のゴールで、駐車場へは五色沼入口バス停から駐車場のある物産館まで、 バスで高原駅バス停で降りるとすぐである。 
最後に、以前秋に訪問した柳沼の風景を掲載する。 

以上、五色沼の探訪に時間をかけてしまったので、白石城の本日の訪問はやめることにした。 
また、冬季通行止の磐梯山ゴールドラインも通行はやめて、 高速道路で本日泊まる飯坂温泉に直行した。 
その結果、十七時頃、飯坂温泉の摺上亭大鳥に到着できた。 
飯坂温泉に宿泊したのは芭蕉は泊まり、のみや蚊にあちこち食われ刺されて、ひどい目にあった様子が 書かれているので、どういう場所か興味があったからである。 

毘沙門沼
     紅葉の柳沼      摺上亭大鳥
毘沙門沼 紅葉の柳沼 摺上亭大鳥






ご参考:芭蕉の奥の細道の関係部分 

「 芭蕉は旧暦5月1日(6月17日)福島の宿を出て、歌枕で有名な信夫文摺(しのぶもじずり) の石を尋ねて、しのぶの里を行き、対面し、「 早苗とる 手もとやむかし しのぶ摺 」 と詠んだ。 
文知摺石は現在、文知摺観音(福島市山口字文字摺)の境内にある巨石で、この上に草木を置き、 布を重ねて、 上から擦って信夫摺の文様を染め出した、と伝えられる石である。 
阿武隈川の月の輪(福島市鎌田)の渡しを越えて、瀬の上という宿場(福島市瀬上町)に出た。
芭蕉は、福島交通の医王寺前駅の北方にある医王寺(福島市飯坂町平野字寺前45)を訪れている。 
この地は当時、鯖野(佐場野)と呼ばれたが、飯坂温泉を発見した鯖湖親王を祀る御宮があったので、 地域の名が鯖野になったと言われている。  医王寺は、真言宗豊山派の寺院で、平安末期の奥州藤原氏の郎党・佐藤元治とその子、継信・ 忠信の菩提寺で、薬師堂には弘法大師作と伝わる薬師如来を安置する。 
芭蕉は佐藤元治の館跡とさせる丸山を尋ね歩き、古寺(医王寺)で、佐藤元治・乙和・継信・忠信の墓碑に 詣で、継信・忠信の二人の妻女の石碑に、女ながら健気な振る舞いをしたという評判が、 よくまあ後世に伝わったと、感涙にむせんでいる。 また、寺で茶を所望し、義経の太刀や弁慶の笈を 所蔵し、寺宝にしている、と記している。 
芭蕉の詠んだ 「 笈も太刀も 五月にかざれ かみ幟 」の句碑が境内にある。 
芭蕉は、 「 その夜、飯塚にとまる。 いでゆ(温泉)あれば湯に入て宿をかるに、 土座に筵を敷てあやしき貧家也。 ともし火もなければ、ゐろりの火かげに寝所をもうけてふす。  夜に入て雷鳴雨しきりに降て、ふせる上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず、持病さへおこりて、 消入計になん。 短夜の空もようよう明れば、また、旅立ぬ。 」 と書いている。 
芭蕉は飯塚にとまる、と記しているが、飯坂温泉の間違いであろう。 
小生が泊まった旅館は農協系の経営で、地元の牛肉や野菜の食事で満足したが、 セントラルヒーチングで、温度調整が出来ず、蒸し暑いので、窓を開けてねたら、 夜なかに蚊の音に目が覚め、芭蕉と同じ、気持になった。 
芭蕉はこの後、馬をやとって桑折の宿場に出て、伊達の大木戸を越して、白石の城下を通り、 笠島郡に入っている。 」 




白石城

令和三年(2021)五月三十日(日)、白石城を訪れる。 
前夜は飯坂温泉に泊まったので、福島飯坂ICまで戻り、東北道に入る。 
桑折JCTを過ぎると、上りがきつくなって、国見町に入ると、昔は伊達藩で、 芭蕉の奥の細道にあるように、伊達の大木戸があったのだろう。 
ここでは二つの峠を越えるが、国見SAがある。 
白石ICは白石市街を通り過ぎたところにあるので、ICを降りて国道4号を走り、 新白石大橋を渡り、交叉点先にある日産プリンス店の手前を左折し、進むと白石益岡公園の駐車場がある。 
白石城へは、これを右に半周すると、介護センターがあり、無料駐車場があるので、 ここに車を停めた。 
白石城は別名、益岡城あるいは枡岡城ともいわれた宮城県白石市の中心部にあった平山城である。 

「 白石城は鎌倉時代、刈田氏の居館であった、と伝えられる。  刈田氏は、後に白石氏を名乗り、伊達氏の家臣となる。 伊達政宗に仕えた白石宗実が著名である。 
天正十九年(1591)、豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、 黒川城(現在に会津若松城) とともに、蒲生氏郷に与えた。  蒲生氏家臣の蒲生源左衛門郷成は、白石城を築城し、城主になった。   慶長三年(1598)、上杉領となるや、、 上杉氏家臣、甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い、居城した。  慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いの直前、伊達政宗は白石城を攻略し、 この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、 以後、明治維新まで二百六十年間、片倉氏の居城となった。 
白石城は、江戸時代、描かれた時期により異なる絵図があることから、 城の領域は拡張傾向にあったと考えられ、 最終的には標高七十六メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、 中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪、丘の上に館掘川を巡らし、 南は空堀で丘陵を切断、館掘川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した曲輪配置になった。 
元和元年(1615)の一国一城令以後も、仙台藩は仙台城と白石城のニ城が許され、 明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ、輪王寺宮が滞城された。  その後、按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、 日本の歴史の変転機には一役を担う重要な城であった。  」

介護センターの右側に「↑白石城I「城來路(シロクロード)歩行者用道路」の標識があり、 坂を上ると突き当たりで、左折して用水が流れる道に入る。 

 白石城は、奥州山脈と阿武隈高地に挟まれた白石盆地の独立丘陵地の北端、 標高七十六メートルの地に築かれた平山城で、 本丸、二の丸を中心に幾重にも外郭を備えた堅城であった。 」

少し行くと、右側に「白石城→」「歴史白石ミュージアム→」の道標が立っている。 
坂を上っていくと、左側に「白石城東口門跡」の標柱と「白石城 二の丸大手ニノ門跡」の説明板が 立っていて、その上には石段を上に伸びている。

説明板「白石城「東口門」
「 白石城「東口門」は、正式には「二ノ丸大手ニノ門」と言い、 白石城東側を迂回するように通った奥州街道沿いの大手口から城内に入り、 外曲輪、三ノ丸内の屈折した通路を通り、ニノ丸へ入る関門であった。  片倉家屏風絵による東口門は、二階に格子窓がつき、その両側に狭間が穿たれている。  また、階下両側にも狭間が設けられ、白石城東側の防衛拠点であった様子がうかがえる。  明治7年(1874)、白石城解体の際、いったん白石駅前通りの専念寺に売却されたが、 明治20年(1887)、東北本線の開通に伴い、白石市本町にある当信寺の山門として移築された。  現在の山門は、二階櫓門で、二階中央間の表と裏に大きな眼象窓(げんじょうまど)が各一つ、 ニ階側面には丸窓がついている。 幕末、この門のニ階に鐘もしくは太鼓を置いて、時を知らせるため、 音の響きをよくするため開いた穴と伝えられ、往時の面影をとどめている。 」 

歩行者用道路
     白石城の道標      白石城東口門跡
歩行者用道路 白石城の道標 白石城東口門跡



その先の左側の「白石城→」の道標の手前に、「白石城本丸跡外郭石垣」の説明板がある。 

「 この説明版の右側斜面に見える石垣は、白石城本丸に築かれた石垣の一部です。  石垣は、本来、土手の上端までありましたが、明治時代に解体され、基底部分のみ残っています。  ここの石垣は、北側と南側で異なる積み方がされています。  この説明版、つまり、南側の石垣は野面積みです。   野面積みとは、自然石にあまり加工をせずに石を積む積み方です。  よく見ると、大きな石の周りに小さな石を取り囲むように積まれています。  積まれた時代は文禄年間(1592〜1595)と考えられています。  北側の石垣は、四角形を基調に加工した石を隙間なく積んでいます。  技法的には、野面積石垣より新しい積み方(横目地が通らない布積み崩しの様式)です。  この箇所はもともと、野面積みであったものが、大雨、地震等で崩れ、建て直されたものです。  度々、石垣が崩れ、修理されたことが、 白石城主であった片倉家の江戸時代の記録(片倉代々記)に記されています。 
石垣の一部には、矢穴と呼ばれる、石を割る際に施工された長方形の穴が石の端に見られます。 」

右側に幟が立っていて、その先に「歴史白石ミュージアム」の建物があり、 立体ハイビジョンシアターと売店、展示室がある(入館料400円)

「 シアターでは、白石の歴史、片倉小十郎について、また、戦国時代の甲冑についての解説などの映画を見せてくれる。 それも3Dである。 説明役には、今をときめく渡辺謙。出演俳優も宍戸錠を始め結構な顔ぶれである。 が、なんとこれも何年か前にNHKの大河「伊達政宗」の時に作ったものだと言う。  恐るべしNHK。 20分程度ではあるが、とてもよく出来ていて、面白かった。 」 

その先の左側に白い漆喰壁の土壁が続いていて、その先に三階櫓が聳えている。 

「 三階櫓(天守閣)と土壁の始まる部分からの石垣を見ると、石の積み方に違いがある。  天守台にあたる部分は、自然石をほとんど加工せずに積み上げていく工法が用いられている。  この工法は野面積みといい、戦国時代の石垣はほとんどこの工法である。  外壁が始まる所から大手門にかけては、石の前面を加工し、 石と石の間に間詰め石を入れる打込みハギ技法である。  外壁には、石落しの他に、矢を射るための四角の穴、鉄砲を撃つための丸い穴が空いている。 」

後ろに振り返ると、本丸大手門の一の門がある。 

本丸跡外郭石垣
     土塀と三階櫓      白石城本丸一の門
本丸跡外郭石垣 土壁と三階櫓 大手一の門



  一の門をくぐると、右枡形で、 侵入した敵は正面や右側からの狭間から弓矢や鉄砲を受けるということになる。  その先にあるのは楼門のニノ門である。 
NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」(昭和62年)の放送で、 西郷輝彦が演じた伊達政宗の重臣・片倉景綱が注目を集め、城主を務めた白石城を復元する機運が高まり、 平成四年(1992)から復元工事が始まり、 平成七年(1995)三月、三階櫓、大手の一の門とニの門、土塀が復元された。 
ニノ門をくぐると、空地の先に復元された三階櫓があり、その左側の緑地に「本丸御殿跡」の標柱が立っている。

「 ここは本丸跡で、江戸時代の本丸は高さ九メートル余の石垣の上に白漆喰の土塀で周囲を囲み、 右奥角に三階櫓、左奥角に坤(未申)櫓、左手前角に巽(辰巳)櫓、大手ニノ門(ニ階門)の奥に菱御門、 左側中央部に裏御門があり、その中に御成御殿・表御殿・奥御殿があった。  」

本丸跡外郭石垣
     大手ニの門      白石城本丸跡
大手門右枡形 大手ニの門 白石城本丸跡



白石城(本丸)の説明板には本丸の中に、 ぎっしり詰まった建物の配置図が描かれている。 

「 白石城本丸は、仙台藩主伊達家が白石城に宿泊するための「御成御殿」と 執務を行う「表御殿」、城主片倉家の居館である「奥向御殿」から構成されていた。 
「御成御殿」は、「御成上段」、「御次」、「三の間」、「御成寝所、御休所」の部屋で構成され、 本丸の一番奥、西側にあり、警備上一番安全な所が選ばれている。  白石は奥州街道の要衝でもあり、江戸への参府の途中、藩主(仙台伊達家)の宿泊施設として、 たびたび使われ、藩主御成の際は、藩主専用の「御成式台」から座敷に上がった。 
「表御殿」は、片倉家の公式の対面を行う場所で、西端の「御老中ノ間」「御次ノ間」「御書院」 「御広間」の部屋があり、他に中奥ともいうべき、「御用ノ間、御家老詰所」「記録役詰所」 「御小姓頭詰所」「御用番詰所」などの執務部屋からなっている。 
片倉家家中は「中ノ口式台」から出入りした。 
「奥向御殿」は、城主や奥方の日常生活空間であり、表御殿と平行に建っていた。  当主用の「御座ノ間」「御次」「御寝所」、奥方用の「御茶ノ間」「中ノ間」「御休所」があり、 他に「奥老部屋」「女中部屋」「御医師部屋」がある。 
奥へは「奥方式台」から出入りした。 
本丸東南隅には園池のある庭園があり、池際には「御茶室」があった。 」

江戸時代にはニノ門と三階櫓の間に菱御門があり、その左手に井戸と腰掛けがあった。 
今は「本丸井戸」の標柱と井戸、その奥の一段高いところに二階建ての鐘蔵(?)があった。 
天守と称する三階櫓の入口は左側にあり、中に入るには400円が必要。 

「 三階櫓は支城という格と幕府への配慮から、天守の名をはばかり、 「大櫓」と名づけられたとされる。  正保元年(1646)に
幕府に提出した「奥州仙台領白石城絵図」には二階建ての大櫓が描かれている。  ところが、寛文三年(1663)に提出した
「刈田白石城絵図」には、二階建てではなく、 三階建てで描かれている。  この間の正保三年(1646)の四月に、仙台・白石地方に大地震が起きて、櫓や石垣が崩落し、 伊達家は翌正保四年(1664)、城絵図を添えて、幕府に修復の願いを出し、許可を得ている。  江戸幕府は、武家諸法度で、城の新規築城や修築などを制限している。  その中で、ニ階建てから三階建てに変更することが認められたとは考えづらいので、 無届で行われた可能性もある。 
文政二年(1819)、白石城は火災で焼失するが、四年後の片倉宗景の時に再建された。  明治七年の廃城令により廃城処分とされ、ほとんどの建物は破却されたり、売却された。  売却代金は特に片倉家中の北海道移住費用に充てられたと、いわれる。  三階櫓は石垣なども撤去され、更地になった。 」

現在の三階櫓は、平成七年(1995)に、文政六年に再建された三階櫓を史実に忠実に、 木造で復元したものである。 

「 三階櫓には、昔ながら工法を用い、補強金具は使われていない。 
木材は、柱は吉野檜、化粧材は青森ヒバ、山陰地方の松丸太、赤杉と全て国産材で造られている。 
壁は当地方と土壁と同じ造りで、土塗りを何回も繰り返し、漆喰で仕上げている。 
壁の厚さは21cm〜24cmあり、日本古来の耐火構造である。 」

本丸配置図
     本丸井戸      三階櫓
本丸配置図 本丸井戸とニ階建て建物 復元された三階櫓



白石城は、木造建築による完全復元天守として、白河小峰城、掛川城に続いて、 平成7年に復元された城である。  忠実に復元され、学術的に意味を持つ天守であると、かなりの御自慢である。 
昔と違うのは、縄梯子が階段になっていること、防災上スプリンクラーなどが設置されていることだけ…と係りの方は力説していた。 

「 三階櫓の一階は東西9間、南北6間、三階は東西5間、南北3間で、高さは石垣天端から16.7m、 戦後の木造復元天守閣では、高さ、広さとも日本最大級を誇る。 
一階内の外壁廻りは武者走りで、戦いの時、武具を付け、武器を持った武士達が 走り回る板張りになっている。 
一階の北側、西側には石落しがあり、石類が保管されていたと、考える。  また、鉄砲狭間、矢狭間がある。 
甲冑が展示されていた。 ニ階は武者走りの中に、三階に上る階段があるだけという、 シンプルな構造であった。 
三階は物見櫓を兼ね、高欄は四周に廻り、火頭形の出入口がある。 
室内は30畳位で、敵の情勢を見ながら、軍議を開くことができる。 
高欄からは白石城下を一望でき、蔵王連峰をはじめ、自然豊かな四季の景色を堪能できる。  」 

以上で、白石城の見学を終えた。 

三階櫓一階
     三階櫓二階      三階櫓三階
三階櫓一階武者走り 三階櫓二階 三階櫓三階



この後、白石の市内を歩くが、「阿梅姫(おうめひめ)のまち しろいし」とある。 
阿梅姫は真田幸村の娘で、片倉小十郎重長の後妻である。 

「 大坂夏の陣で、伊達軍の先陣を切った、片倉小十郎重長は、薄田隼人正兼相、 後藤又兵衛基次の軍を破り、その後、真田幸村軍と激戦を繰り広げ、鬼小十郎の名を天下に馳せ、 伊達日本一の評価を受けました。 大坂城落城後、死を決意した幸村は、敵将片倉を知勇兼備の将と 見込み、片倉の陣に矢文を送り、婚姻の儀を申し入れ、子女阿梅ら五人の後事を託しました。  重長は、阿菖蒲、大八らも白石城二の丸において、 密やかに養育したという説がある。 長じて、四女阿梅は、重長の継室となり、 阿菖蒲は田村定廣(後の片倉金兵衛)の妻に、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、 片倉家家臣から伊達藩士に取り立てられ、正徳二年(1712)守信の息子、辰信の時に真田姓に復した。  阿梅は、亡父幸村と亡夫重長の菩提を弔うため髪を下ろし、大平の地に傑山寺の末寺、 月心院を建立した。 廃寺後は、幸村と重長の位牌は傑山寺に移転され、阿梅の位牌とも祭られている。  なお、愛宕山山麓にある阿菖蒲が嫁いだ田村家墓所内には幸村の供養墓が建立されている。 」

片倉家の菩提寺は、御城の南方、南町2丁目にある臨済宗妙心寺派の「傑山寺」である。
広大な境内の本堂前には片倉小十郎の銅像がある。 

「 傑山寺は、片倉小十郎景綱の開基である。 片倉家の当主は、代々、小十郎を名乗り、 景綱は初代である。 景綱は、幼少より武芸に優れ、頭脳明晰にして、判断力が人一倍鋭かったという。  伊達輝宗(政宗の父)の家老・遠藤基信の進言により、当時九歳の梵天丸(伊達政宗)の近侍となる。  時に19歳。 視力を失った政宗の眼球を短刀で切りだしという逸話は有名である。  その後、数多くの戦いに参戦し、朝鮮役では、秀吉から軍船小鷹丸を拝領している。  伊達家の存亡を決めた、小田原攻めでは、藩内の意見は真二つの分かれたが、 景綱の進言により、政宗は参戦を決め、伊達家を安泰に導いた。  秀吉は、景綱の力量を高く評価し、三春の旧田村領5万石を下賜しようとしたが、 主君伊達家に忠節を欠くとして辞退した。 その後、白石城1万3千石の城主となり、 慶長十九年(1614)の大坂の陣では、病床に伏していたため、嫡子重綱(後の重長)を参陣させた。  翌年、景綱は病で死去、亨年59歳。  大坂夏の陣の道明寺の戦いで、嫡子重綱は後藤又兵衛軍などを破る大活躍をし、 鬼の小十郎の異名をとった。  なお、市章の黒釣鐘は、景綱の姉、喜多が考案した旗指物が基になっている。 」

初代小十郎「景綱」の墓は、敵にあばかれないように、墓石を作らず一本の杉を墓標にしたそうで、 寺の裏の緩やかなのぼり道を15分程歩くと、大きな杉の木の前に出る。 
辺りは木々に囲まれて薄暗く、なんともいえぬ風情があった。 

「 白石城は、南北に長い白石丘陵の北端に築城され、 同城の南側には空堀を掘って丘陵の尾根の連続性を断っている。 
空堀より南側の白石丘陵上には常林寺、清林寺、傑山寺などの寺院が並んでいる。  」

清林寺は、真田幸村ゆかりの寺である。  真田家遺臣が建立したとされ、寺紋は「六文銭連」である。

「 片倉重長が、幸村の遺児(阿梅、阿菖蒲、おかね、大八)と遺臣を引き受け、 白石城下に住まわせた。 この寺は、浄土真宗本願寺派の寺で、真田幸村の遺臣の三井奉膳により創建 された寺である。 彼は、本願寺第十二世准如上人のもとで、出家得度し、善久坊を創建、 その後、法源山清林寺と改称した。 」

当信寺には真田幸村の娘、阿梅と息子大八が祀られている。 
阿梅は二代目小十郎の後添いであり、それを慕って関が原の後、幸村の幼い子息、 大八が東北のこの地に来たという。  先程の「清林寺」はそういう謂れがあって建てられた寺であった。
なお、当信寺山門は白石城の東口門が移築されたもので、 厩口門は市内の延命寺の山門になっている。 
お城の北、三の丸外堀に当たる沢蔵川に面した後小路に佇んでいるのは、片倉家中、 旧小関家の武家屋敷である。 
豊かな緑に覆われて、こじんまりとした屋敷である。駐車場に係りの人はいるが、「どうぞ勝手に見てください」と言う風情。私達だけであったので、ゆっくりと拝観できたのはよかった…。

「 小関家初代、太右衛門元成は、 松前家から四代片倉村長に嫁してきた少林院市子の添人として、白石に来て、片倉家中になり、 奥方用人になった。  この屋敷は、墨書に「享保15年2月12日」とあることから、 創建時期は初代、元成の晩年か、二代元友の時代と推定され、260余年前の古建物である。 」

初代片倉小十郎の墓
     清林寺      武家屋敷
初代片倉小十郎の墓 清林寺 武家屋敷



白石城へは、JR東北新幹線白石蔵王駅から車で5分、東北本線白石駅から徒歩10分  
白石城のスタンプは白石城天守(9時〜17時、11月〜3月9時〜16時)にて  




 戻る(城跡めぐり表紙)                              (MR.MAXの世界)へ