mrmaxの城めぐり 山形県1 (山形城)


山形城は最上氏の祖先が創築、最上義光が大きな城に拡張し、 鳥居忠政が更に大改築を行った。 
日本100名城の第10番に選定された。 



かうんたぁ。




山形城

平成三十年(2018)十一月三十日、仙台から仙山線で山寺に参拝し、 その後、山形城を訪れた。 
山形城は山形市霞城町にあった平城で、霞城(かじょう)、 霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれた城で、 本丸、二の丸、三の丸が同心円状に配置された輪郭式平城である。  

「 山形城は出羽国(山形県と秋田県の一部)を統括する役人として、 鎌倉時代の延文元年年(1356)に山形に入部した斯波兼頼(しばかねより)によって、 翌年の延文二年(1357)に築城された。  兼頼は地名をとって最上氏を名乗り、十一代目の最上義光(もがみよしあき)により、 文禄年間(1592〜96)に十数基の櫓をそなえた全国有数の規模に拡張された。  元和八年(1622)に城主になった鳥居忠政が、大幅な改築を行い、 現在の形に整えられた。 」 

JR山形駅西口から北に向うと霞城セントラルという高い建物があり、 その脇を進むと城南橋という高架橋があり、 その下をくぐると前方に水堀が見えてくる。 
これは二の丸の水掘で、訪れた時は紅葉していたが、 堀の周りは土塁で造られている。 
左折して堀に沿って進むと正面に大手橋、橋の右側の二の丸は石垣になっていた。 
大手橋(現在は橋ではないような気がするが)を渡ると、 両側にある石垣は南大手門の石垣で、二の丸堀に石垣があるのはこの門の周囲だけだった。 

二の丸堀
     大手橋と南大手門跡      南大手門跡
二の丸堀
大手橋と南大手門跡
南大手門跡



「 山形城は、本丸、二の丸、 三の丸が同心円状に配置された輪郭式平城で、三重の堀が巡られていた。  本丸には天守はなく御殿のみで、 防衛の中心は一辺五百メートルほどの方形の二の丸におかれ、 中世の居館を拡張して城郭とし、藩の政庁と御三階櫓が建てられ、 五つの出入り門が作られた。  三の丸は一・五キロから二キロほどの楕円形で、 五百三十四人の上級、中級の最上家家臣の屋敷が建てられ、十一の出入り門が作られた。 」 

江戸時代、大手橋を渡るとあったのが「二の丸南大手門」である。 

「 橋を渡ったところに、高麗門と続き櫓があり、 高麗門をくぐり左折すると枡形で、 その先には巨大な楼門が建ち、行く手を遮る二の丸枡形虎口になっていた。  石垣は表面をたたいて整え、隙間も埋めた打込みハギで造られていた。 」 

「雁木(二の丸南大手門)」の説明板がある。 /p>

「 雁木とは石垣や土塁いに登るための石垣である。  整備前は土中に埋まっていて、その存在は不明だった。  江戸時代の絵図にこの場所に雁木が描かれており、 発掘調査で絵図通りのところに一部の石材が検出された。  一部の石材に追加して現在の雁木に復元した。 」  

その先は二の丸跡で、右側に県体育館、武道館、 左側は桜の園という芝生広場があった。 

「 二の丸は東西約三百九十六メートル、 南北約四百二十七メートル、約五万千八百坪の広さで、 御殿が置かれ、山形藩の政治の中心になっていたというが、 現在は北門や西門に石垣が残るだけで、 西門の北はソフトボール城、北側は児童文化センター、 野球場、弓道場、駐車場になっていて、これといった遺跡は残っていない。 」 

二の丸枡形
     雁木      芝生広場
二の丸枡形
雁木
芝生広場



体育館の先の小高いところは本丸跡で、 「本丸御殿広場発掘調査中」の看板が建っていた。 

「 本丸は東西約百五十メートル、南北約百六十メートル、 約七千坪の大きさで、天守はなく二重櫓が三基、そして本丸御殿が建っていた。 
山形城には山形藩の政庁が置かれたが、鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、 山形藩を治める藩主の石高が減少したため、 江戸中期以降は城の維持が困難になったため、 本丸は幕末には更地になっていたようで、 本丸の堀とともに明治に陸軍によって埋められてしまった。 」 

現在埋め立てられた御殿跡を発掘調査しているようすである。  
発掘された状態の写真には  「 本丸御殿の発掘調査で、古い時代の堀跡と石垣が発見された。  堀幅約四メートル、深さ一メートル八十センチあり、総延長は約三十メートル。  堀の東側石垣は玉石主体に割石が交じる石垣で、割石は自然角石を使っている。  西側の石垣は玉石のみで、石も東側に比べやや大きな石を使っている。  両岸とも石積みには目地の通りを意識した様子が見られる。  この堀の中には大量の瓦を始め、陶磁器などの遺物が捨てられていて、 火災の痕跡が認められる。 これらは最上氏時代の遺構と遺物と考えられる。 」  という説明があった。 
本丸の南と東部分の本丸堀と土塁が復元されていたが、水堀ではなく空堀だった。 

本丸跡
     発掘された状態      堀と土塁
本丸跡
発掘された状態
復元された堀と土塁



本丸跡南の空堀に沿って右に行くと、「崩れた石垣」と書かれた案内板があった。 

「 本丸堀を発掘した際、 本丸一文字門西側櫓台石垣前の堀跡から石垣石材が大量に発見された。  江戸時代後期の絵図で、櫓台石垣の一部に「御櫓崩」の表記があることから、 その崩落に由来する石材と考えられる。  また、石材の周囲から極めて大量の瓦が出土された。  石垣の崩落という歴史的事実を後世に伝える目的で現況表示にしている。 」  

その先の左側にあるのは大手橋と本丸一文字門の高麗門である。  

「 江戸時代、本丸への出入口は大手口の一文字門と 搦手口の北不明門の二つがあった。 
一文字門は大手橋を渡ったところにある高麗門と枡形櫓台と櫓門で構成された外枡形虎口である。 」 

中村哲叡氏による「霞城本丸・義公桜花之図」があり、 本丸の様子が想像できた。  

「 明治時代に壊され埋められてしまったものを平成十八年(2006)に本丸一文字石垣と大手橋が復元され、 平成二十五年(2013)には本丸大手門枡形内の高麗門と土塀が復元された。 」 

一文字櫓門も復元する計画があるようなので、楽しみである。 
なお、今回訪れた時は高麗門や本丸内が見られなかったが、 冬期閉鎖のためなので、暖かい時期にいけば高麗門内に入ることができる。 

崩れた石垣
     本丸想像図      大手橋と高麗門
崩れた石垣と枡形櫓台
本丸之図
復元された大手橋と高麗門



右(東)側には県立は博物館があり、その南に市郷土館(旧済生館本館)の看板があり、 その奥に変わった形をした建物が建っている。  日本100名城のスタンプはここでもらえるとあったので、訪問し見学した。 

「 一階は八角形で、二階は六角形、三階は四角形という建物を中心に平屋の建物が周りを囲んでいる。 
旧済生館本館は明治十一年(1878)、 初代県令になった三島通庸(みしまみちつね)によって県立病院として、 擬洋風建築で建てられたもので、三条実美(さんじょうさねとみ)により、 済生館と名付けられた。  山形県に西洋医学を教えるため赴任したのは、オーストリーのウイン大學を出た医師・ ローレツで、その診察室などが残っていた。  印象的だったのが中庭で、丸く配置された部屋が並んでいた。  明治初期の擬洋風建築、近代化産業遺産として国の重要文化財に指定されたもので、 市内から移築されてきたものである。 」 

大手橋の前まで戻り、  堀に沿って北に向うと右側に「隅石」 の説明板があり、隅石が一つ置かれていた。 

「 隅石は石垣の角に使われた長方形の切石である。  石垣は出隅を算木(隅石を交互積み)として、高さに耐える構造にする他、 稜線部には江戸霧と呼ぶ先端を鋭利に見せる加工を施していた。  本丸一文字門の隅石は高さ七十五センチ〜八十センチのものが多く、 長さは平均百八十センチある。  表面は整った隅石だが、内面は矢穴やノミによる線彫り、はつり痕跡がよく残る。 」 

旧済生館本館
     中庭      一文字門の隅石
旧済生館本館
中庭
一文字門の隅石



その先に赤い石と白い石が置かれていて、「安政二年の石垣石」という説明板があった。 

「 本丸堀跡より、 安政二年(1855)の字が彫られた石垣石が二つ発見された。  城主は水野氏の時代である。 一つは石垣の控え(石垣内)にノミで彫られた刻字で、 六月に石垣が完成したことを指すようである。  また、前面の上部に勇の字があった。 この石は割られていなので、 石垣上部の天端石だった可能性がある。  もう一つの赤色の石もほぼ同じ内容であるが、 枡形石垣の修理にかかわる石材と考えられるが、 修理記録が残っておらず、発掘調査による山形城の歴史の新たなる発見の一つである。 」 

 

東大手門広場に最上義光(もがみ よしあき)の騎馬像が建っていた。 

「 最上義光は戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名で、最上氏第十一代当主、出羽山形藩の初代藩主である。  伊達政宗の伯父にあたり、関ヶ原の戦いにおいては東軍につき、 最上家を五十七万石の大大名に成長させて、全盛期を築き上げた人物である。  
最上義光は三の丸まで拡張したが、当時は石垣はなく、石垣が築かれたのは元和八年(1622)に城主になった鳥居氏以降である。  鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、 山形藩を治める藩主の石高が減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になった。  江戸中期に四年間天領(幕府領)となった時、かなり荒廃したようで、 その後、入部した秋元氏により、寛政六年(1794)に石垣を修理したという記録が残る。 」 

山形城の石垣は、本丸と二の丸門、また、 城絵図などから三の丸東部の七日町口、横町口にあっただけで、 その他のところは土塁で築かれていたのである。 
石垣の石材は主に安山岩で、市内の馬見ヶ崎川より産出し、 そりの一種である修羅により運ばれ、加工され築かれた。 
右手にある石垣と続櫓と楼門は二の丸東大手門である。 
東大手門は高麗門、楼門、続櫓などからなる門で、その規模は江戸城の城門に匹敵した。  現在の門は明治時代に壊されものを平成三年(1991)に復元したものである。 
二の丸東大手門楼門には入場が可能である。  日本100名城のスタンプを楼門(9時から17時 月休)にてもらう予定で来たのだが、本丸跡、一文字高麗門そして東大手門楼門の見学は4月6日から11月4日まで、 訪れた十一月末は閉鎖になり、 入門も日本100名城のスタンプも押せず、前述した市郷土館でスタンプをもらった。 

二つの石
     最上義光騎馬像      東大手門
二つの石
最上義光騎馬像
東大手門



東大手門の楼門には再建で苦労された様子の記載があった。 
その先は枡形で、石垣の美しさに目がいった。 ここにも雁木があった。 
高麗門を出ると、二の丸の堀があり、橋が架かっている。  

「 戦後、二の丸の内側は霞城公園として残され、二の丸の堀は良好な状態で保存されたが、  二の丸の外側(三の丸)は市街化した。  三の丸は二百三十五万uと日本国内では五番目の広さで、奥羽地方では最大だったが、 度重なる藩主交代に伴い、石高が削減される一方の山形藩にとっては、維持することすら困難となる広さだった。  幕末には三の丸の西半分は田畑となっていたという。  第二次大戦後は、三の丸の堀は埋め立てられ、耕作地になり、 三の丸十日町口だった歌懸稲荷神社境内など、ごく一部が残っているだけである。 」 

橋を渡り直進すると左手に山形美術館がある。 
山形城訪問の際、ぜひ立ち寄りたいと思っていた施設である。  ここには印象派の絵画が一通り収納されていて、観客も少ないのでゆったり観賞することができた。 
その先には最上義光歴史館がある。 
以上で山形城の探勝は終えた。 

東大手門枡形
     東大手門高麗門      山形美術館
東大手門枡形
東大手門高麗門
山形美術館




山形城へは山形新幹線・奥羽本線山形駅から徒歩約10分  
日本100名城の山形城のスタンプは二の丸東大手門楼門にて。 
但し、冬期は閉門になるので、市郷土館(旧済生館本館)にて押すことができる 




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