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「 講堂は三十畳の講堂と周囲一間半の畳敷縁より出来ている。
新年の始業式など際に、舎生、試舎生等の生徒はここに集まりました。
政教一致の御趣意により、学校に会所を立てたが、
その時、郡代、大目付等の重職は講堂に列席し、諸役人の中、行列以上は西畳縁に、行列以下は東畳縁に座した。
なお、行列以上とは役付藩士又は三百石以上の士をいう。
会所は藩の政務を処理する役所である。
藩主が参勤交代で留守の年には二日おきに役所として用いられ、
藩役人が集まって藩政の打ち合わせや会議が行われた。 」
講堂の先には馬場や御元メ詰所や養老堂、学監司業、御台所などが入った建物が建っていたようで、
その間取りがブロックで表示されていた。
また、左側には西御門があった。
これらの藩校致道館は昭和二十六年(1951)に国の史跡に指定されている。
市役所の裏側に鶴岡カトリック教会の天守堂がある。
鶴岡市役所前に「雪の降る町を 発想の地つるおか」の石碑がある。
市役所の道の反対にある白い鳥居の下に「二の丸大手門跡」の標柱と「大手御門」の写真を掲示している。
鶴ヶ岡城は明治四年(1871)の廃藩置県により廃城となり、
明治九年(1876)、城内の建築物は全て破却され、本丸と二の丸の一部が鶴岡公園となった。
「 鶴ヶ岡城の前身は鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏によって築かれた大宝寺城である。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、最上義光は二十四万石から五十七万石を領する大大名となり、
山形城を本城として庄内地方も支配する。
庄内地方の拠点として大宝寺城、東禅寺城、尾浦城などを整備拡張し、
慶長八年(1603)、各城の整備が整うと、酒田浜に大亀が上がったことを祝し
東禅寺城を亀ヶ崎城と改称し、亀ヶ崎に対し大宝寺城を鶴ヶ岡城と改称した。
最上氏三代目義俊の元和八年(1622)にお家騒動(最上騒動)が起こり、最上氏は改易となる。
旧最上領は分割され、庄内地方には信濃国松代より譜代大名の酒井忠勝が入る。
酒井忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。
忠勝は簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へ大改修に着手し、二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。
庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、
三代目忠義の時で、五十四年の歳月を経て完成した。 」
大手門は二の丸から本丸を守る水堀を木橋で渡ると本丸の入口として建てられた楼門である。
現在、大鳥居から庄内神社まで地続きで行けるが、
江戸時代には幅約二十メートルの水堀があり、本丸を守っていた。
水掘の手前は二の丸で、左手の隅(二の丸南西隅)には二層二階の隅櫓が建てられていた。
残された左手の水掘の先に見えるのは大宝館で、その下に石垣が見えるが、ここが本丸中門跡である。
本丸へは二の丸隅櫓前を右折すると本丸中橋があり、
ここを渡ると高麗門と楼門で構成された本丸中門があった。
本丸中門の周囲の堀に石垣が使用されたが、
この城の他の部分は、他の東北地方の城と同様土塁で築かれていた。
本丸中門跡には大正天皇即位を記念して建てられた洋館の大宝館と藤沢周平記念館がある。
江戸時代には本丸中門をくぐると左手に渡り櫓があり、 その奥の北西隅にも渡り櫓があった。 現在の鶴岡護国神社の社殿が建つ先である。
「 鶴岡護国神社は明治二十八年(1895)、 戊辰、西南の戦役に殉じられた藩士の霊を祀るために建立されたもので、 拝殿は酒井氏十代藩主忠器の御霊廟で、江戸時代の貴重な霊廟建築である。 」
大宝館の道の反対に「明治天皇御駐輩之地」の石碑が立っている。
また、藤沢周平記念館の隣の空地に「本丸御殿御玄関跡」の石碑が建っている。
「 本丸には御殿が建てられ、城主の居館である他、庄内藩の藩庁でもあった。
明治十年(1877)、出羽之国庄内の総鎮守として、
旧庄内藩主を敬慕する人々の総意により、酒井家(初代忠次、二代家次、三代忠勝、九代忠徳)を祭神とし
た庄内神社が本丸御殿跡に創建された。 」
続日本100名城のスタンプは庄内神社の社務所(9時〜16時30分、
3月〜11月17時まで)の左隅に置かれている。
庄内神社の右手には「本丸内北門跡」の石柱が立っている。
北門は本丸から二の丸に通じる裏門(通用門)である。
その奥の東北隅の土塁の上には「本丸御角櫓跡」の標柱が立っていて、
その姿を復元した絵が描かれていた。
鶴ヶ岡城は元和八年(1622)に近世城郭へと大改修されたが、
一国一城令が公布された時でもあり、譜代大名ではあるが天守の代わりに二層二階の隅櫓を建てたようである。
訪れた時は紅葉がきれいだったが、鶴岡公園は日本さくら名所100選に選ばれているので、春に訪れたらよいのかなと思った。
御角櫓跡の近くの橋を渡り、水堀を見ながら進むと右側に致道博物館がある。
「 致道博物館は郷土文化向上のため、 旧庄内藩酒井家より伝来の文化財、土地、建物が寄付され、 昭和二十五年(1950)に開設された博物館である(800円3月〜11月9時〜17時、12月〜2月9時〜16時30分 年末年始と12月〜2月の水曜日は休み) 」
受付とミュージアムショップになっている建物を出ると、右手にあるのが旧西田川郡役所である。
「 明治十四年(1881)に創建された擬洋風建築で、ルネサンス様式の模倣が要所に見られる。 棟梁は鶴岡市出身の高橋兼吉と石井竹次郎である。 」
赤門の隣にあるのが旧鶴岡警察署庁舎である。
「 明治十七年(1884)の創建で、 明治新政府が威信を示すため、初代県令三島通庸の命を受けて建築された。 二階バルコニーからの景観、鶴を模した破風妻飾りが見どころで、 平成三十年(2018)に修復工事が行われ、創建当時の姿になった。 」
右手にある茅葺の建物は旧渋谷家住宅である。
「 出羽三山の山麓の田麦俣に文政五年(1822)に建てられた豪雪地帯に適した多層建築で
明治時代に養蚕用に取り付けた高窓が特徴である。 」
美術展覧会場の隣に旧庄内藩主御隠殿がある。
「 元治元年(1864)に江戸中屋敷の一部を移築したと伝わる藩主の隠居所で、
明治の廃城後は旧藩主の住宅、酒井伯爵邸となった。
奥座敷から庭園が眺められる。
酒井氏庭園は江戸時代の作庭で、静かで趣きのある書院庭園である。
築山林泉庭園の形式で、作庭にあたって遠く鳥海山を借景とした。
四季折々の景観、時には鳥のさえずりが楽しめるという。
昭和五十一年(1976)、酒井氏庭園は国の名勝に指定された。 」
庭の片隅に 「 珍らしや 山をいで(出)羽の 初茄子(なすび) 」 という芭蕉の句碑が建っている。
「 芭蕉が奥の細道の途時、鶴岡で詠んだ句で、
鶴岡の俳人、長沢千翅(七郎兵衛)が享保年間に自然庵(現在の本町三丁目にあり、
後に芭蕉庵と称した)の傍らに建立したもの。
後に湯田川温泉に移されたが、年代も古く貴重であることから、
昭和六十年(1985)に当館に寄贈された。 」
鶴ヶ岡城へはJR鶴岡駅からバスで約10分、市役所前で下車、徒歩数分
鶴ヶ岡城のスタンプは本丸跡にある庄内神社の社務所にて
北前船で栄えた酒田
令和二年(2020)十月二十九日、秋田発6時50分の羽越本線で酒田に向う。
午前中に酒田に直行できる列車は鈍行のこの列車だけである。
朝飯として駅弁を買ったが、列車は通学する中高生で満員で、
由利本荘市の羽後本荘駅まで続いた。
学生がいなくなったので、駅弁を食べた。
にかほ市にある象潟駅までには乗客はほとんどいず、貸切状態に。
芭蕉が奥の細道で訪れた象潟はその後の地震による地面の隆起により、
陸の松島化しているようで、訪れずに酒田に直行。
酒田駅に8時44分に到着。 駅に荷物預けて市内観光を行う。
まず、山居倉庫に行った。
「 山居倉庫は明治二十六年(1893)年に酒田米穀取引所の付属倉庫として、旧庄内藩酒井家により最上川と新井田川に挟まれた山居島に建てられた。
舟による米の積み下ろしに便利な立地で、
十二棟の巨大な木造の倉庫を連ねた美しい建物と、
最上川側のケヤキ並木が独特の風情を伝えている。
建設された十四棟のうち十二棟が残っており、現在も米穀倉庫として使用され、
一部は「庄内米歴史資料館」や観光物産館として活用されている。
山居倉庫は、米の揚げ下ろしで雨風に当たらない構造や、
倉庫内の工夫を凝らした空調管理、入庫米の厳しい選別審査などで、
中央市場でも日本一と評される「山居米」を生み出した。
現在の近代的な倉庫の保管機能と比較しても、
決して遜色の無い山居倉庫は庄内米の改良と声価向上を果たし、
農村経済の振興に貢献した。 」
倉庫を見ながら、山居島を出て本間家旧本邸まで歩く。
江戸時代に紅花や米を関西へ運ぶ西廻り航路が開かれ、
酒田は北前船の拠点として「西の堺、東の酒田」と言われるほど酒田は栄えた。
その中でも「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」
と俗謡に謡われるほどの豪商であったのが本間家である。
「 本間家は初代久四郎原光が元禄二年(1689)本町一丁目に新潟屋を開業。 三代光丘は千石船による商いを始める一方、農業振興のため土地改良、水利事業を行い、また、永年にわたる風害軽減のため砂防林の植林に心血を注いだ。 また、庄内藩酒井家の信望を受け、藩財政の相談に関わるなど、 地域社会の発展に努めた。 」
本間家本邸には長屋門の他、東側に薬医門があり、桟瓦葺きの平屋建てになっている。
門をくぐると玄関の前に臥竜の松と呼ばれる樹齢四百年を越える立派な赤松が見られる。
家の上にかぶさるようになっているので、門かぶりの松と呼ばれている。
「 明和五年(1768)、本間家三代光丘が藩主酒井家のため、
長屋門構えの武家屋敷を新築し、庄内藩酒井家に献上した。
その後拝領し、本間家代々の本邸として昭和二十年まで使用されていた。
本屋は平屋建てで二十二の部屋あり、桁行(南北)三十三・六メートル、
梁間(東西)十六・五メートルである。
正玄関は藩主、県知事、菩提寺の住職のみ使用し、一般には使用しなかった。
上り口にある式台には欅、板戸には神代杉が使われていた。
石と苔で蒸した庭があるが、船体を安定させる綿積石(海神石)として
諸国から北前船で運んできた銘石を配したものである。
また、長屋門も同様で、通常は薬医門を使用していた。 」
本間家旧本邸の道の反対にあるのは別館「お店」である。
「 本間家初代原光が新潟屋を開業し、代々商いを営んでいた建物である。 あらゆる事業を行っていたが、事業の柱になっていたのが金融と地主の事業。 このお店には実際に使用された帳場や秤、行燈等が展示されている。 」
隣の駐車場の脇には「旧堀端」の標柱があり、
「 慶長四年(1599)東禅寺城主志田義秀は関ヶ原戦に備えて、
鵜渡川原と旧内町組の一部を掘と土塁で囲んだ。
その内、鍛冶町から本間家本邸東側にかけての所を特に堀端と称し
大欅が並び美観を呈していたが、明治二年に埋め立てられた。
平成二十年十二月 酒田市教育委員会 」 とあった。
この後、二十分程歩いて駅の近くにある本間美術館へ行った。
「 本間美術館には本間家別荘の清遠閣と庭園の鶴舞園がある。
四代目本間光道が庄内藩主が領内巡視する際の休憩場所として築造したもので、
豪華で美しい建物や庭であるが、冬の失業対策として建築されたものでもある。
六千坪の敷地に鳥海山を借景とした林泉の風致をそえた池を中心とした廻遊式の庭、
鶴舞園をはさんで本館と新館(昭和43年竣工)がある。
本館は清遠閣と称され、二階建ての銅板と瓦葺きの建物。
藩政時代には庄内藩主や幕府要人を接待、
明治以降は皇族や政府高官、文人墨客を接待する酒田の迎賓館の役割を果たし、
大正十四年には昭和天皇のお宿になりました。 」
山居倉庫へは鶴岡駅よりバスで10分
本間家旧本邸 山形県酒田市二番町12−13
本間家へは鶴岡駅よりバスで10分
加茂水族館
令和二年(2020)十月二十九日、鶴ヶ岡城の見学を終え、
宿泊地の湯の浜温泉近くにある加茂水族館へ行った。
到着したのが15時26分で、そこから温泉へ行くバスが16時41分発なので、
一時間ほどの見学である。
日本海に面していて、十月末であるが、小雨が降る上強風で寒かった。
この水族館の目玉はクラゲである。
今は各地の水族館でクラゲの展示が行われているが、
場所も悪く資金のないこの水族館の危機を救ったのがクラゲであった。
クラゲ展示の元祖である水族館である。
鶴ヶ岡城と酒田の町めぐりを終え、湯の浜温泉につかり、疲れをとった。
翌日新潟経由で東京へ帰った。
所在地: 山形県鶴岡市今泉字大久保657−1
鶴岡駅から庄内交通の「湯の浜温泉」行きのバスに乗り、
約40分、加茂水族館下車すぐ。
9時〜17時(最終入場は16時) 年中無休