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「 米沢は平安末期に地頭が置かれ、鎌倉時代中期の暦仁元年(1238)頃、鎌倉幕府の重臣、大江広元の次男、長井時広は赴任地の地名から長井姓を名乗り、
米沢城を築いたのが始めとされる。
その後、伊達氏が二百十二年間、上杉氏が二百七十二年間、
居城を構えたことにより、城下町として町並が形成されていったという。 」
上杉記念館の北側には水堀が巡らされているが、これは米沢城の本丸堀である。
堀に沿って北に進むと松岬神社(まつがさきじんじゃ)がある。
松岬神社は上杉神社に隣接し、米沢藩初代藩主景勝、
九代鷹山、景勝の執政直江兼続などの六柱を祭神にしている。
境内には鷹山の明言、「なせばなる」や「伝国の碑」の石碑がある。
「 上杉鷹山は、高鍋藩主秋月種美の次男に生まれ、十歳の時上杉重定の養子になり、十七才で家督を継ぐ。
上杉家は、十八世紀中頃には借財が二十万両に累積する一方、石高が十五万石(実録は約三十万石)でありながら,
初代藩主、景勝の意向に縛られ、会津百二十万石時代の人員を整理しなかったため、
人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。
鷹山は米沢織、米沢鯉、ウコギ、笹野一刀彫りなどの産業に力を入れ、質実剛健、質素倹約を進め、米沢藩の再興に
寄与した殿様である。 」
松峰神社の左手に大きな常夜燈があり、その先に橋が架かっていて、毘沙門天の幟が建っていた。
参道の左側に「伊達政宗公生誕之地」の石碑が建っている。
「 室町時代初期には伊達氏の支配するところになり、 伊達政宗はここで出生したといわれる。 」
その先には上杉鷹山の銅像が建っている。
その左側は小高い土地で、上って行くと鉄柵で囲まれた石碑があり、 「上杉謙信祠堂(御堂)跡」の説明板がある。
「 江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である。
謙信は天正六年(1578)三月十三日、越後春日山城で逝去亨年四十九才だった。
その遺骸は甲冑を着せ、甕に納め、漆で密封したといわれている。
その後、謙信の遺骸を継いた上杉景勝が会津百二十石、米沢三十万石に移封されるに伴い、
謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した。
謙信公の遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門天が置かれ、
その後ろには歴代藩主の位牌を祀り、最も神聖な場所として、
厳重かつ丁重に祀られた。 明治四年の廃藩置県に際し、
仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祀られる。
謙信の遺骸は同九年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された。 」
参道に戻ると、道の右側に「上杉景勝公・直江兼続公主従像」があり、 「 大河ドラマ「天地人」の放送によって全国に示された主従の強い絆や上杉家に継承されてきた 義と愛の精神を後世に伝えていくことを願い建立された。 」 とある。
「 ドラマの主役になった直江兼続(なおえけねつぐ)は越後坂戸城主長尾政景の家臣・樋口兼豊の長男で、
早くから聡明さを見込まれ、景勝の近習に取り立てられ、与板城主・直江信綱が殺害されると、
名家の断絶を惜しんだ景勝が、信綱の妻・お船と結婚させ、筆頭家老直江兼続が誕生した。
慶長二年(1597)、会津に上杉景勝が入封した際、米沢城主には直江兼続がなる。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いには上杉氏は参戦しなかったが、
徳川家康よりの景勝に謀反の疑いがあるとの嫌疑に、世に有名な「直江状」という文書によって堂々と反論した。
上杉氏が置賜地方と陸奥国伊達郡、信夫郡三十万石に減封されてからも、
君主、領民の為に心血を注ぎ、六十才で生涯を閉じるまで、
現在の米沢の礎を築いた人物で、兜飾りの愛の文字は印象的である。 」
米沢観光コンペンション協会「観光案内所」の脇に直江兼続の人形が置かれていた。
また、この案内所に続日本100名城のスタンプが置かれている。
「 明治維新により、最後の藩主斉憲は、明治五年(1872)、城内にあった謙信の霊屋(御堂)を鷹山とともに合祀し、上杉神社とした。 明治六年(1873)には廃城令により城の建物が全て破却されたが、 二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場(後に市役所)として利用された。 明治七年(1874)、城跡は松が岬公園となり、明治九年(1876)、 謙信霊棺は上杉家廟所へ、上杉神社を本丸跡に移した。 以上が明治維新時の米沢城の状態である。 」
鳥居の先にあるのが大正十二年(1923)に再建された上杉神社の社殿である。
「 会津若松から米沢に移封になった上杉景勝は、 慶長十三年(1608)、直江兼続に命じ、城の大改修を行い、慶長十八年(1613)、 本丸、二の丸、三の丸からなる十基の櫓と十七棟の門で構成する輪郭式の平城が完成したが、その際、石垣は築かれず、土塁が用いられた。 本丸の中央部に藩主の住居の本丸御殿、東南隅の堤上に上杉謙信の祀る御堂を建てたが、天守は構えられず、 本丸の東北と西北に三階櫓(三層の隅櫓)を建てて天守の代用とした。 」
本丸御殿は上杉神社の社殿とその前の広場あたりにあったと思われる。
上杉神社にお参りして、右に進むと稽照殿がある。
「 大正八年の大火により消失、十二年に上杉神社が再建された際、 代々の遺品などを収蔵展示する「稽照殿」が創設された。 」
稽照殿は冬季は休館で、今日は最終日で、終了時間に近い時間での見学になった。 館内は撮影禁止である。
上杉神社の左手に春日神社がある。
「 春日神社は越後国司に赴任した藤原遠成が、 上越春日山頂に奈良春日大社を分霊したことに始まり、 藩主移封と共に会津から米沢に移ってきた。 減封を続けた上杉家の藩政は苦しく、 再建を願った十代鷹山公は春日社への誓詞奉納は有名な事実である。 明治五年に現在地に移ったが、大正八年に上杉神社などと共に類焼し、 松岬神社に合祀されたが、昭和五十年に再建された。 」
上杉神社の周りを一周したが、城の遺跡は残っていなかった。
この後、タクシーで駅前のホテルへ行き、運転手に紹介された店で、
米沢牛の焼き肉を賞味した。
林泉寺・上杉廟所
翌日は十二月一日、ホテルを出たらみぞれになっていたので、傘を買い駅に行き、
ロッカーに荷物を預け、市内循環バスに乗り、山大正門バス停で降りた。
「 バス停の右手にあるのは、 山形大学工学部の前身である旧米沢工業高等学校の本館として、 明治四十三年七月竣工のルネッサンス様式の木造二階建ての建物である。 国の重要文化財に指定されており、前回妻と娘が訪問した時は見学無料で、 内部は工業機械類の資料館となっていたというが、現在は予約制で自由には入れない。 」
山形大を左に見ながら西に向うと、 堀立川に架かる桶清水橋の先の左側に林泉寺があった。
「 林泉寺は明応五年(1496)に越後春日山城のふもとに建てられたのが始まりである。 長尾景虎(後の上杉謙信)の祖父長尾能景(越後国守護代)がその父重景の十七回忌にあたり、 長尾家代々の菩提所として創建したものである。 上杉となってから二代目景勝の時、越後春日山から米沢に移り、 以来、長尾・上杉家の菩提寺として今日に至っている。 」
堂内拝観は冬季は実施されていないとあったが、
入寺料を入れる場所があり、お金を入れて、パンフレットを入手し、境内を歩く。
境内には藩主上杉氏代々の奥方、子女の墓所がある。
また、直江兼続夫妻の墓は、同じ場所に同じ大きさの墓が並んで建っていて、
県指定史跡になっている。
この時代、夫妻が同じ墓石と言うのは珍しい思った。
とても仲がよかったと言う史実もあり、ほほえましくも、また嬉しくもなった。
武田信清(信玄の六男)の墓は県指定史跡になっている。
その他、上杉氏重臣、鉄砲師、学者など、著名人の墓や米沢三大名園といわれた庭園がある。
残念ながら御朱印はいただけず、名家竹俣当綱(たけつなまさつな)ゆかりの山門をくぐり、林泉寺のお参りは終了した。
山形大學正門前に戻ると、道の反対に一の宮神社があった。
「 一の宮神社の歴史は古く、陸奥国置賜郡長井荘谷地郷にあり、大明神として祀られたのが始まりと伝えられる。 和銅五年に出羽一の宮大明神として崇拝され、宝永元年(1704)正一位一の宮大明神となり、置賜郡の総鎮守として勅許された。 明和年間(1764-71)米沢城を境に、北の住民は白子神社、南の住民は一の宮神社の氏子となり、現在もその慣例は続いている。 祭神は大巳貴命、少彦名命で、現在の社殿は明治二十一年の再建である。 」
山大正門バス停から一時間に一本の循環バスに乗り、矢来バス停で降りる。
「 上杉氏が築いた米沢城には二の丸に藩の役所と世子御殿が置かれた。 また、本丸の西方に上杉家歴代藩主の墓所である御堂(上杉家廟所)が造営され、 御堂に近侍する法音寺、大乗寺など、御堂に交替で勤仕する真言宗の二十一ヶ寺が設けられた。 」
道路を横断して右に左に行くと、突き当たりに杉木立に囲まれ、 昆と龍の旗の先にあるのが, 上杉家廟所(上杉家歴代藩主墓所)である。 江戸時代には御廟将が置かれ、御廟守、御廟番によって守られていたという。
参拝のしおりによると、
「 上杉家廟所はおたまやとも呼ばれ、東西約百十三メートル、南北約百八十メートルで、
約二ヘクタールの面積を有し、柵の外側には幅約三・六メートルの空掘と土塁が廻らされている。
文化十四年(1817)の「御廟山絵図」によると、江戸時代の御廟は南正面に門枡形を造り、
それを入ると東西に参道が延び、
さらにその参道から各廟堂に向って参道が北行していることが確認できる。
廟屋の前には拝殿があり、御廊下を通って、御拝礼の間に達する。
また、廟屋の前後や各参道の両側には家臣たちが奉献した石灯篭が置かれていて、
絵図内での石灯篭は約八百基が確認できる。
江戸時代の末期には約千五百基を数え、威容を誇っていた。 」 とある。
参道を進むと、中央奥に上杉謙信公廟がある。
その手前の左側に二代藩主景勝、右側に三代藩主定勝の廟屋がある。
両側に廟屋が立ち並んでいる。
「 元和九年(1623)、二代目景勝公が逝去した際、
謙信御遺骸の避難所だったこの地で火葬に附し、灰塵、冠服を葬り、
廟を建てて、位牌を納めて廟所とした。 御遺骨は紀州高野山に納められた。
その後、八代宗房公までは、景勝を中心に右左交互に廟屋を建てて、
高野山に納骨する形式が採られた。 」
十代治憲公(上杉鷹山)は儒教の影響を受け、九代重定公を土葬にし、
以降十二代斉定公までは土葬である。
廟の屋根の形で土葬か否かが分かるという。
火葬の廟屋は入母屋造、土葬は宝形造で、
全体的には上杉家古来の質実剛健で、装飾はない。
「 寛文四年(1664)、四代目上杉綱勝が嗣子を定めないまま急死したが、 江戸幕府より弟の綱憲が末期養子として認められ藩は存続したが、 石高は十五万石に半減された。 石高が減ったのに、藩士解雇が行われなったので、藩の財政は更に逼迫。 その対策として、城下近郊の原野の東原と南原に新たに原方と呼ばれる地域を設置し、 城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。 」
九代藩主重定は聡明とうわさの高い治憲(秋月藩主の次男)を養子として受け入れ、十代藩主にした。 その治憲が上杉鷹山で、藩政改革で財政の再建を果たしたのである。
「 鷹山は十一代藩主に重定の子、治広にした。 治広は鷹山の子の顕孝を次の藩主にすることにしたが、 亡くなったため、十二代目には斉定がなった。 」
墓所の左側、十二代斉定と十代治憲の間に顕孝の墓がある。
明治九年(1876)、謙信御遺骸が御廟中央の少し奥まったところ遷され、
御廟内全体が現在の形に改変された。
上杉家廟所は昭和五十六年に国の史跡に指定された。
隣にある法音寺は天平九年(737)に聖武天皇の勅命により、
越後国魚沼郡藤原に建立された古い寺である。
「 天正年間に上杉家の帰依寺となり、春日山に移された。
後に、上杉藩が会津、米沢と移封されたのに随って、
米沢城の二の丸に建立されたが、明治三年(1780)、藩命により現在地に移された。
本尊は大日如来で、上杉家歴代藩主の位牌、善光寺如来像、
泥足毘沙門天、管谷不動尊を安置している。 」
これにて米沢の探訪は終了した。
米沢城は山形新幹線・奥羽本線米沢駅からバスで10分
米沢城のスタンプは上杉神社内の米沢観光コンペンション協会「観光案内所」にて