mrmaxの城めぐり 三重県2 (松阪城)


松阪城は築城の名手といわれた蒲生氏郷が天正十六年(1588)に松阪市北部に位置する独立丘陵上に 近江の石工を使い、石垣を主体とした城を築いた。 
日本100名城の第48番に選定されている。  


かうんたぁ。




松阪城

平成三十一年(2019)一月二十二日、伊賀上野城を見学後、 伊賀神戸駅から近鉄特急伊勢ライナーに乗り、松阪駅で降りた。 
近鉄松阪駅はJRと繋がっているので、 JRで名古屋から東京までの新幹線の切符を購入してから、ロッカーを探したが、 個数が少なく空いていなかったので、そのままタクシーで城に向うことにした。 

「 松阪城は天正十六年(1588)、築城の名手といわれる蒲生氏郷(がもううじさと)が、 この北の海に面した松ヶ島城に代わる城として、 松阪市の北部に位置するの四五百森(よいほのもり)という独立丘陵上に構築した平山城である。  氏郷は織田信長の寵愛を受け、近江日野六万石から伊勢十二万石に出世し、 隣国の近江国日野の出身であることから、 近江の石工などの技術者集団を引き連れ、 三層の天守を持つ総石垣造りの安土城とよく似た縄張や建物構成をもつ城を造り、 その際、松ヶ島城を壊し、領民を全てこの地に移住させた。  氏郷はこれまで海より通っていた参宮道を町の中央に通るようにし、 この地を松坂と名付け、商人の保護育成や町の治安維持に努めた。 」 

松阪城
松阪城全体図



タクシーを降りたところは表門(大手門)跡である。 
表門は枡形になっていたようで、そのことを示す石組が残っている。 
正面に見える石垣は本丸下段の多聞櫓の石垣で、 右手には「史跡松阪城跡」の石碑が建っている。 
左手に石垣に沿い進むと、江戸時代には土戸御門があり、 その先には二の丸があった。 二の丸は徳川陣屋と呼ばれたようである。 

「 元和五年(1619)八月、南伊勢は紀州藩の領地となり、 伊勢領十八万石を統括する代官が派遣され、 松阪城は南伊勢を統括する城として城代が置かれた。  寛政六年(1794)、二の丸に紀州藩陣屋(徳川陣屋)が建てられ、 以後、派遣された代官が当地を統治し、明治維新を迎えている。 
明治四年(18711)の廃藩置県により、廃城となり、 明治十年(1877年)には失火により二の丸御殿1が焼失、 明治十四年(1881)頃には他の建造物も概ね破却されたといわれる。 」 

二の丸の跡地には売店、音楽堂の建物があり、中央部に大きな藤棚がある。 
明治十四年(1881)に松阪城跡は城址公園になったが、 明治二十三年、藤田藤助が二の丸跡に料亭 亀甲亭を開き、 南庭に愛知県の旧鍋田村から株分けした樹齢二百年の藤を移植した、というものである。  

「 紫藤で樹齢約三百数十年、藤棚面積三百四十六平方メートル(105坪)、主幹周囲は五メートルで、 四月下旬に紫色の花房が一メートル余り、花の香が高く、松阪の名木として市民に親しまれている。 」 

二の丸跡からは松坂市内が一望でき、また、いくつかの石碑が建っている。 
松阪は梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」の舞台であるため、 二の丸跡に文学碑が建てられている。 

表門跡
     多聞櫓石垣      二の丸跡
表門(大手門)跡
多聞櫓石垣
徳川陣屋跡(紫藤棚)



松阪城は坂内川と愛宕川をそれぞれ北と南の天然の外堀として、 標高三十五メートルの独立丘陵に城を置いた。 
表門跡まで戻り、右手に坂を上ると、江戸時代には左側に遠見櫓があった。 
右手にあるのは松阪市歴史民俗資料館(0598-23-2381)である。  

「 この建物は明治四十三年(1910)、 皇太子(後の大正天皇)の飯南郡への行啓を記念して、 飯南郡の図書館として建築されたものである。  本館は二階建てで、伝統的な和風の意匠をもち、 左右に翼部、中央に玄関が突き出した左右対称の構成に特徴がある。  倉庫は本館の東に隣接して建つニ階建ての土蔵で、漆喰壁を下見板で覆い、 外観の意匠を本館に合わせているが、 高さを低く押さえている点が立ちの高い本館とは対照的になっている。  新聞雑誌閲覧所も建てられたが、昭和初期に解体されて、今はない。  図書館は他に新築され移転したので、現在は松阪市歴史民俗資料館となっている。 」 

日本100名城のスタンプをここで押した。 
更に上ると「助左衛門御門跡」の石柱があり、枡形門の石組が残っている。 
表門(大手門)から入ると二番目の門が助左衛門御門で、本丸下段北側の虎口である。 
「助左衛門御門跡」の石柱の石垣の上は本丸下段で、江戸時代には鐘の丸櫓があった。 

歴史民俗資料館
     助左衛門御門跡      鐘の丸櫓石垣
松阪市歴史民俗資料館
助左衛門御門跡
鐘の丸櫓石垣



道を上っていくと、本丸部に到着する。  

「 本丸は上下二段からなり、上段には御殿と天守を築いた。  到着したところは本丸下段で、その上に本丸上段があり、 それを回り込むようにして歩くが、高石垣が見事である。 」 < /p>

右側の狭い道を進むときたい丸に通じるが、左にすすむと本丸下段に出る。 
本丸上段の東側に位置し、南側に二の丸、本丸下段南側には隠居丸という配置である。  本丸下段の一角に月見櫓跡があり、それを示す石柱が建っている。 

高石垣
     本丸下段      月見櫓跡
高石垣
本丸下段
月見櫓跡



本丸下段は多門櫓で囲まれていたようで、その跡が残っている。 
西側は一段高くなっているが、これは本丸上段である。 
本丸下段の南西には裏門から上ってくる道があり、また、本丸上段への通じる道があるが、 これは本丸上段への枡形虎口である。 

多門櫓跡
     本丸上段高石垣      本丸上段への虎口
多門櫓跡
本丸上段高石垣
本丸上段への虎口



本丸上段に出ると、右側(本丸東南東)に「金の間櫓跡」の石柱があり、 江戸時代には金の間櫓が建っていた。 
金の間とあるので、秀吉が好んだ金に関係するものがあったのだろうか? 
また、「松阪開府」と書かれた石碑があり、 裏面に「蒲生氏郷公開府390年記念」とある。  

「 蒲生氏郷は信長に倣い、 楽市楽座を設けるなど松坂の城下町を整備して、 江戸で活躍する伊勢商人の本拠地として栄えさせたことから、今も松阪の人に慕われている。 」 

本丸上段も周囲に多聞櫓を巡らしていたようで、 金の間櫓から敵見櫓に複雑に折れ曲がて続いている。  その上を歩いてみたが、狭く危険ではあった。 
本丸上段の西側には「本丸跡」の石碑があり、 その奥に金網で覆われた井戸跡があったが、水はなかった。 
その先に石段がある小高いところ(本丸北西角)が天守台で、 その上に「天守閣跡」の石碑が建っている。  

「 天守台の石垣は不等辺四角形をなし、 本丸上段から突き出す形で築かれている。 
天守は蒲生氏郷が建立し、三層だったといわれ、 付櫓と敵見櫓に接続する複合天守だった。  付櫓は御殿と接続していたと伝えられるので、 本丸跡の石碑あたりに本丸御殿があったことになる。 
紀州藩時代、二の丸で伊勢国の政務が行われると、 一国一城令の影響で、本丸域は荒れるに任せ、 天守閣は正保元年(1644)七月二十九日の大風で倒壊したが、再建されず、 築城当時にあった櫓や建物も姿を消していった。 
寛政六年(1794)、二の丸御殿が築造され、徳川陣屋として使用されたが、 城門、石垣、堀などの防御施設が最少限度の修復が施された程度だった。 」 

金の間櫓跡
     本丸跡      天守跡
金の間櫓跡
本丸跡
天守跡



天守跡の一段下に付け櫓、その右側に敵見櫓があったようで、 「敵見櫓跡」の石柱が建っている。 
天守を降りてUターンすると、下に下りる石組があるので、 江戸時代には門があったのかもしれない。 
降りたところは天守台の西側で、「松阪城梅林」の石柱があるが、 江戸時代にはきたい丸と呼ばれた曲輪があったところである。 
外周には石垣が巡らされていて、四隅に設置された櫓の間は、 多聞櫓で結ばれていたのではないだろうか? 
下は木々が茂る森で、角櫓跡からは眺望がよく、周囲の景色を示す案内板がある。 

敵見櫓跡
     きたい丸跡      角櫓跡
敵見櫓跡
きたい丸跡
角櫓跡



  きたい(希代)丸の石垣は野面積みの高石垣である。 
きたい丸の他、主要な曲輪の周囲には見事な高石垣が巡っている。  

「 石垣のつみ方は野面積みを主体に、隅の部分は切り込みはぎ、 算木積みという工法が使われている。   これらの工法は穴太衆と呼ばれる近江国の石工集団が、 安土城で今までの日本にはなかった新しい築城方法を発案。  蒲生氏郷は自分の出身地でもある穴太衆を中心に地元の農民を借り出し、 石垣をくみ上げていったといわれる。  石材の多くは近くの河原から集められた石が使われたが、 天守台などには古墳に埋葬された石棺の蓋まで使用された。 」 

ここから本丸上段、同下段まで戻り、 Uターンすると江戸時代には中御門と太鼓櫓があった。 
中御門は枡形虎口で、道を降りていくと途中に「中御門跡」の石柱が建っている。 
本丸域から中御門を出ると、左側には「本居神社」の道標があるが、 そこには江戸時代、土戸御門があり、その先は先程訪れた二の丸跡である。 
中御門は裏二の門ともいわれ、二の丸の南側に位置するが、 この周辺の石垣には巨石が多用されている。 

きたい丸の高石垣
     中御門跡      本居神社の道標
きたい丸の高石垣
中御門跡
本居神社の道標と高石垣



反対側(西側)には石段の上の門があるが、小高いところに門があり、 本居宣長の旧宅の標石が建っている。 
中に入ると右手には桜松閣があり、その先に本居宣長の旧宅、鈴屋が建っている。  

「 本居宣長(もとおりのりなが)の旧宅、 鈴屋は明治以降に市内から移築されたものである。  本居宣長は松坂に生まれた江戸中期の国学者で、医師、 代表作は古事記の詳細解説本で、 記念館には本居宣長が解読した古事記の写本原本(国重文)などが収蔵されているという。  移築されているのはその大半を過ごした住居である。 」 

この曲輪は隠居丸で、江戸時代には宝蔵や道具蔵、米蔵があったようである。 
左手には鈴屋遺蹟之碑があり、 どこから持ってきたか分からないが、 「山室山神社魚町旧宅趾 花岡対山室奥墓 省線松阪停車場 」と書かれた道標が建っている。 
本居宣長の旧宅の左側奥に埋門跡があり、その先に本居宣長記念館がある。 
石段を降り、二の丸跡の前に戻り、坂を降りるが、 江戸時代には裏門があったところで、「裏門跡」の石柱がある。 
二の丸の南東の虎口が裏門で、ここの石垣も素晴らしい。 

桜松閣
     鈴屋遺蹟之碑      裏門跡
桜松閣
鈴屋遺蹟之碑など隠居丸跡
裏門跡



石段を下り、城の石垣が切れたと思ったら、右手に常夜燈が二つ見えてきた。 

「 文政六年(1823)発来とある常夜燈は津の新玉講が寄進したもので、 以前は津の藤枝町にあったが、昭和初期にここに移された。  もう一つは旧櫛田川渡し場常夜燈といわれるもので、 江戸干鰯問屋仲間が安永九年(1780)に寄進した、書家三井親和揮ごうの常夜燈である。  最初は伊勢街道筋の早馬瀬河原にあったが、 昭和二十九年(1954)に現在地に移設されたものである。 」 

裏門を出ると道路を挟んで御城番屋敷が残る。  

「 ここ殿町周辺は紀伊徳川の領地になった時、 三の丸として拡張されたところである。 
裏門跡と搦手門(竹御門)跡を結ぶ石畳の両側に、 美しく整えられた槇垣を巡らした御城番屋敷は、 松坂城を警護する松坂御城番という役職の武士二十人とその家族が住んだ武士の組屋敷である。  現存する江戸時代の武家屋敷でも最大規模を誇る貴重な建造物で、 平成十六年、国の重要文化財に指定された。 」 

御城番の祖先は徳川家康の先鋒隊として活躍した横須賀党で、 家康の子頼宣の家臣として紀州藩の田辺に派遣され、  事ある時は田辺城主安藤家に助勢する使命を帯びた藩主直属の家臣として、 田辺与力と呼ばれていた。   それから二百三十年余り後、突然、安藤家家臣となるよう通達を受けるが、 直臣であることに誇りを持っていた彼らはこれを不満に思い、 藩士の身分を捨てて放浪の身となる。   紀州藩への復帰を嘆願し続け、六年後の1863年に松坂城御城番として帰藩が叶い、 彼らとその家族の住居として建てられたのが御城番屋敷である。  

「 約一ヘクタールの屋敷地に主屋二棟と前庭、畑地、土蔵、南龍神社があり、 主屋は東棟に十戸、西棟に九戸が残っていて、 屋敷には今も子孫の方が住まわれ、維持管理を行っている。  松阪市はこのうち一戸を借り受け復元整備して平成二年より一般公開している。 」 

左側角に南龍神社があり、その奥にあるのが米倉で、 松阪城内に唯一現存している建物である。 
なお、御城番屋敷から暫く市街地を歩いた来迎寺には、 松坂城唯一の遺構である移築城門が残っている。 
以上で松坂城の探訪は終了。 
十五分程歩いて松坂駅に行き、近鉄特急で名古屋へ向った。 

常夜燈
     御城番屋敷      米倉
常夜燈
御城番屋敷
米倉



松阪城へはJR紀勢本線・近鉄大阪線松阪駅から徒歩約15分 
松阪城のスタンプは松阪市歴史民俗資料館にて 




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