mrmaxの城めぐり 三重県3 (津城・神戸城)


津城は藤堂高虎により、伊勢国と伊賀国を統治するために築かれた城で、 続日本100名城の第152番に選定された。 
神戸城は戦国時代の天文年間(1532〜1555)に、神戸具盛により築かれた城で、 江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれていた。 



かうんたぁ。




津城(つじょう)

津城には平成十五年(2009)二月十八日、伊勢街道を歩いた時、立ち寄った。 

「 津の古称は安濃津で、伊勢平氏の支配したところで、 平安時代より伊勢国の政治経済の中心地だった。 
津城は、戦国時代の永禄年間(1558〜1569)に、 細野藤敦が安濃川と岩田川にはさまれた三角州に小さな城を築いたことに始まり、 信長の伊勢侵攻により、永禄十二年(1569)、織田信包が城郭を拡充し、 本丸、二の丸、三の丸を整備し、堀をめぐらせた。   また、天正五年(1577)に、五重の天守閣と小天守を建設している。   慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、東軍についた富田信高の軍は千三百人、 それに対し、西軍の毛利秀元、長宗我部盛親の軍は三万人で、城は落城し、 建物の大半は焼失した。   慶長十三年(1608)、藤堂高虎が伊勢国と伊賀国を併せ 二十二万石をもって入城し、 城を大改修し、中央に内堀で囲まれた本丸、それに付属して東丸と西丸、 それらを取り囲んで二の丸が配された輪郭式の平城に変えた。   藤堂氏は、その後の加増により三十二万三千石の大大名になり、 伊勢街道を移して、城下町を整備し、 伊勢神宮参拝の宿場町として、  「 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ 」 と、 うたわれるまでになったが、 津城は明治の廃藩置県で廃城になった。  」 

現在でも残るのは一部の石垣と本丸と西之丸のまわりの内堀のみだが、 城跡はお城公園とお城西公園として整備されている。 
その他の城跡は津市役所や裁判所、津警察署などの敷地になっている。 
津城の二の丸跡には模造の三重櫓(丑寅櫓)が建設された。 
和風公園の中に、藤堂高虎の威風堂々とした銅像があったが、今でも津市民の誇りになっていることが窺われた。 
五層の天守閣があった南西隅には一段と高い石垣があった。 
高山神社は津城址にある神社で、市役所近くにあり、 江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつで、藤堂高虎を祀る。 
なお、津城は続日本100名城の第152番に選ばれていて、 100名城のスタンプは高山神社(こうざんじんじゃ)に置かれている。 

三重櫓
     藤堂高虎像      高石垣
三重櫓の丑寅櫓
藤堂高虎像
高石垣




津城へは近鉄名古屋線津新町駅から徒歩約15分 
津城のスタンプは高山神社社務所に置かれている  




神戸城(かんべじょう)

神戸城跡には平成十五年(2009)二月十三日、伊勢街道を歩いた時、立ち寄った。  

「 神戸城は鈴鹿市神戸五丁目にあった城で、 江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれたところである。 
伊勢平氏の子孫関氏の一族、神戸氏は南北朝時代(十四世紀)に飯野寺家町の地に沢城を築いたが、 戦国時代の天文年間(1532〜1555)に四代、神戸具盛がこの地に神戸城を築いて、 本拠地を澤城(神戸西城)からここに移した。  神戸氏七代、友盛は北勢に威を振ったが、信長軍の滝川一益の侵攻により、 永禄十一年(1568)、信長の三男、信孝を養子に迎えて和睦し、信孝は神戸氏の名跡をついた。  信孝は天正八年(1580)、野面積みの天守台の上に金箔瓦を乗せた五重六層の天守閣を築いた。   神戸信孝は本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年、秀吉と対立して知多半島で自刃した。 」 

天守は文禄四年(1595)に解体され、桑名城に三重櫓として移築され、神戸櫓と呼ばれた。  
本丸だったところには「史跡神戸城址」の石柱が建ち、その奥に天守台が見える。 
野面積みの天守台には、神戸信孝により五重六階の天守が築かれ、 北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守であったことが確認されている。 
 

神戸城全体図
     本丸跡      天守台
神戸城全体図
本丸跡
天守台



天守台に上ると、狛犬と常夜燈の先に「本多神社」と書かれた石碑が建っている。  

「 江戸時代、城主は一柳氏が五万石で入り、その後一時期天領となった時期もあったが、 慶安三年(1650)、石川総長が一万石で当地に入り、三代後、享保十七年(1732)、本多忠統が二万石で入城し、 神戸城を修復したが、天守閣は再建されることはなかった。 
明治時代の城壊し令により、明治八年(1875)、城は解体され、その後、城は埋められ、 二の丸跡には現在の三重県立神戸高等学校が建てられた。 」 

 

明治維新まで、本多氏の世が七代百四十年続いたことから、 本多神社がいつからは分らないが、祀られたのだろう。 
城の中心部の本丸跡は神戸公園となり、 前述の石垣と水堀だけが城であったことを伝えている。 

「 神戸が城下町として発展したのは神戸信孝の時代で、 十日町を中心に小山町、石橋町、新町の神戸四町ができた。  江戸時代に入ると神戸藩が誕生し、城下町を拡張し、町数は八つになり、 本多氏の時代になると、伊勢街道の隆盛と共に神戸宿として町は拡大し、 明治初めには家数が六百軒近くあったという。 」 

江戸時代の須賀村と神戸宿十日町の間に「神戸見付」があったが、 その跡は三重県指定文化財になっている。 

「 神戸見付は神戸宿の入口にあたり、両側に土塁と石垣を築き、 その間に三間の木戸を設け、城下に入る人を監視していた。  城下を守る番人は夜間には木戸を閉じて、通行を禁じた。  石垣は神戸見付時代のもので、両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っている。 」 

本多神社の石碑
     水堀      神戸見付跡
本多神社の石碑
水堀
神戸見付跡



神戸城へは近鉄名古屋線鈴鹿市駅から徒歩約15分 





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