|
津城へは近鉄名古屋線津新町駅から徒歩約15分
津城のスタンプは高山神社社務所に置かれている
神戸城(かんべじょう)
神戸城跡には平成十五年(2009)二月十三日、伊勢街道を歩いた時、立ち寄った。
「 神戸城は鈴鹿市神戸五丁目にあった城で、
江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれたところである。
伊勢平氏の子孫関氏の一族、神戸氏は南北朝時代(十四世紀)に飯野寺家町の地に沢城を築いたが、
戦国時代の天文年間(1532〜1555)に四代、神戸具盛がこの地に神戸城を築いて、
本拠地を澤城(神戸西城)からここに移した。
神戸氏七代、友盛は北勢に威を振ったが、信長軍の滝川一益の侵攻により、
永禄十一年(1568)、信長の三男、信孝を養子に迎えて和睦し、信孝は神戸氏の名跡をついた。
信孝は天正八年(1580)、野面積みの天守台の上に金箔瓦を乗せた五重六層の天守閣を築いた。
神戸信孝は本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年、秀吉と対立して知多半島で自刃した。 」
天守は文禄四年(1595)に解体され、桑名城に三重櫓として移築され、神戸櫓と呼ばれた。
本丸だったところには「史跡神戸城址」の石柱が建ち、その奥に天守台が見える。
野面積みの天守台には、神戸信孝により五重六階の天守が築かれ、
北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守であったことが確認されている。
天守台に上ると、狛犬と常夜燈の先に「本多神社」と書かれた石碑が建っている。
「 江戸時代、城主は一柳氏が五万石で入り、その後一時期天領となった時期もあったが、
慶安三年(1650)、石川総長が一万石で当地に入り、三代後、享保十七年(1732)、本多忠統が二万石で入城し、
神戸城を修復したが、天守閣は再建されることはなかった。
明治時代の城壊し令により、明治八年(1875)、城は解体され、その後、城は埋められ、
二の丸跡には現在の三重県立神戸高等学校が建てられた。 」
明治維新まで、本多氏の世が七代百四十年続いたことから、
本多神社がいつからは分らないが、祀られたのだろう。
城の中心部の本丸跡は神戸公園となり、
前述の石垣と水堀だけが城であったことを伝えている。
「 神戸が城下町として発展したのは神戸信孝の時代で、 十日町を中心に小山町、石橋町、新町の神戸四町ができた。 江戸時代に入ると神戸藩が誕生し、城下町を拡張し、町数は八つになり、 本多氏の時代になると、伊勢街道の隆盛と共に神戸宿として町は拡大し、 明治初めには家数が六百軒近くあったという。 」
江戸時代の須賀村と神戸宿十日町の間に「神戸見付」があったが、 その跡は三重県指定文化財になっている。
「 神戸見付は神戸宿の入口にあたり、両側に土塁と石垣を築き、
その間に三間の木戸を設け、城下に入る人を監視していた。
城下を守る番人は夜間には木戸を閉じて、通行を禁じた。
石垣は神戸見付時代のもので、両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っている。 」
神戸城へは近鉄名古屋線鈴鹿市駅から徒歩約15分