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歌川広重の東海道五十三次「桑名七里の渡し口」の浮世絵には、 帆を架けた舟が入港する時、左側に往時の城の姿が描かれている。
「 七里の渡しの跡には伊勢神宮の遷宮で建て替えられた鳥居が一の鳥居として、
渡し船から降りた旅人を迎えていた。
東海道はここから南に向って、川口町、片町と続き、
右手は東海道有数の宿場町として賑わっていた。
左側には堀川が流れ、その奥は三の丸で侍屋敷が軒を並べていた。 」
七里の渡しから東海道を堀川に沿って南下していくと、
左側に「歴史を語る公園」があり、当時の姿を再現している。
公園になっているところは「三之丸堀」と呼ばれるところで、 「桑名城城壁」という説明板があった。
「 正面の堀川東岸は桑名城の三之丸地内で、 石垣は桑名城城壁の一部で、 揖斐川に辺する揖斐川川口樋門から南大手橋に至る延長約五百メートルが現存している。 積石は乱積で野面はぎ、打込みはぎの二つの方法による。 また刻石を刻んだ積石も多く見られる。 片町に面したところには出隅、入隅があった。 この城壁には並木を作り、枝が掘へたれ、川水は清々と美しく、 行き交う荷舟で賑わった。 戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三の丸立教小学校まで、堀川は続いていたが、 終戦直後に埋め立てられてしまった。 」
桑名城は四辺形の本丸と中心し、
二の丸と朝日丸や三之丸との間は水堀で囲まれていた。
今は三之丸と本丸の間の堀が埋め立てられて一体になっているように思われた。
南大手橋から本丸へ向うとなみなみとした水掘があった。
本丸跡に「辰巳櫓跡」の説明板がある。
「 辰巳櫓は本丸の東南角にあり、三重櫓だった。 元禄十四年(1701)天守閣が焼失し、再建されなかったので、 この辰巳櫓は桑名城のシンボル的な存在だったが、 明治維新の時、降伏の証として新政府軍により焼き払われてしまった。 」
幕末の桑名藩主は松平容保(かたもり)の実弟、松平定敬で、 京都所司代として、兄と共に京都の治安の任務に就いた。
「 慶応四年(1868)の戊辰戦争の際、
藩主不在の桑名藩では抗戦か恭順かが激論となったが、結局は無血開城した。
しかし、明治政府軍は、桑名藩は抵抗したとして、桑名城を焼き払い、
開城の証とした。
また、四日市港建設の際にも城石を運んで使ったとあり、
明治政府の徳川家への恨みは強かったと思われる。 」
鎮国守国神社があり、藩祖の松平定綱(鎮国公)と松平定信(守国公)が祀られている。
「 文政六年(1823)、松平(久松)家の定永が入藩する。 宝永七年、高田に移封となった松平(久松)家の再入藩である。 松平定永は養子で、実父は松平定信である。 当時の老中は松平定信だったので、御手盛りの感もするが、 この時、藩祖の松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀る鎮国守国神社を城内に建立。 」
神社の境内に楽翁公歌碑が建っていて、
「 朝落花 附日さすも しずけき梢より のどけさそえて
ちるさくらかな 」 と書かれている。
桑名市は松平定信没後百年にあたる昭和三年(1928)に、
本丸と二の丸一帯を整備して桑名城址九華公園とした。
なお、桑名城の遺跡としては城の石垣が一部残るだけで、現存建造物はなく、
桑名城址の石碑と舟入橋の近くには築城した本多忠勝の由々しい銅像が建っているくらいなのは
残念である。
平成十五年(2003)、国土交通省は水門統合管理所を建てることになり、
「蟠龍櫓跡」に二重櫓の蟠龍櫓を外観復元し、
一階は水門管理所、二階は桑名市所管の展望台兼資料室にしている。
以上で、桑名城の探訪は終了である。
桑名城へは近鉄名古屋線桑名駅から市内A循環バスで5分、本町下車