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昭和六十二年(1987)に戦国時代の上野国の屈指の規模を誇る城跡として、
国の史跡に指定された。
大手門は城の南西にあり、丸戸張の馬出と堀切で守られていたようである。
これは井伊直政に造られたものだろう。
そこから北に向うと城の中心部の南西に虎韜門(ことうもん)がある。
今回駐車したのは虎韜門駐車場である。
その入口に「虎韜門」の石碑があり、
「 虎韜の出展は古代中国の兵法、虎韜で虎の巻きから出た言葉。 」 とあった。
虎韜門から上に上っていく道は大堀切である。 現在は一部が階段になっている。
途中の大堀切西端には「大堀切の石垣」の説明板がある。
「 大堀切は(箕輪城を)南北に二分する役割があり、 現在巾三十メートル、深さ九メートルの規模をほこる。 2001年の発掘調査で、堀底付近で大堀切に直交する石垣が検出された。 石垣の規模は上巾三・九メートル、下巾二・九メートル程度、高さ二・五メートル以上で、 現地表面から約五メートル下が石垣の上端になることから、 本来の堀切は現在よりも七・五メートル以上深かったことになる。 この石垣は敵の侵入に備える防御壁であり、 併せて土砂の流出を押さえる砂防ダムの役割を果たしていたとも考えられる。 なお、電気探査の結果、この堀切には他にも同様の石垣が数ヶ所に築かれていると推測される。 」
大堀切は堀の南側が落されても堀の主要部の北側を守ることができる役割を果たしていた。
大堀切の先には行く手を遮る石垣があり、その下に「大堀切の土橋」の説明板がある。
「 大堀切を渡る唯一の土橋である。
2001、2002の発掘調査の結果、数時期にわたる変遷が確認できた。
城最後までに土橋の南西側の裾に石垣を築くなど、改修が行われ、廃城を迎えていたことが明らかになった。
2011年度に城最終時の土橋の形状を復元した。
廃城後に削られた部分は盛土で復元して、発掘された石垣は地下に保存した。
その上に新たに石垣を復元した。 」
右側の階段を上ったところは郭馬出西虎口で、
その先の四方への道標があるところは木俣だろう。
大堀切にある土橋の先に平成二十八年に復元された門がある。
「 平成十四年度の発掘調査で、ここは郭馬出西側の虎口で、 幅五・七三メートル、奥行三・四八メートルの門跡が確認された。 礎石の配置から二階建ての櫓門と推測され、 関ヶ原の戦い以前では、確認されている中で関東地方最大規模の門跡である。 門の柱を据える礎石は全部で八石あり、 屋根から落ちる雨水を受けるための排水用の溝も良好に残っていた。 」
門をくぐると「郭馬出」の石碑がある。
「 郭馬出しは50m(正式には五十二メートル)X30m(同二十七メートル)程の郭で、 回りに土手を設け、外部から見えない囲いの中に塀を結集し、 土手の両側から一挙に打ち出た所である。 このような大型馬出しを郭馬出という。 高崎城の梅木郭はこの郭馬出を手本としたものだろう。 」
門をくぐった先にある郭馬出は南側に出撃する拠点の役割を持っていた。
郭馬出と二の丸の間には唯一残る土橋があり、「土橋と大堀切」の石碑がある。
二の丸はかなり広く、バイオトイレもあった。
二の丸の石碑脇の石碑には
「 二の丸は縦横各八十メートル程度の郭で、 本丸が持久防衛のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。 東は搦手口に、西は向川口、大手方面へ、南は大堀切、木俣方面へと、四方へ出撃できるようになっている。 」 とある。
その先にあるのは本丸南虎口である。
その先にあるのは本丸南虎口であるが、その手前には本丸門馬出しがあった。
説明石碑「本丸門馬出し」
「 東から南に鉤状の土居があった馬出しで、土居の北側から搦手へ、
南側からは二の丸へ出撃する。
本丸の南側の突き出ている部分はこの馬出しの内外を側面から守るようにできている。 」 とある。
そのあるのは本丸跡で、縦に長い長方形である。 」
「本丸跡」の石碑の脇に説明石碑がある。
「 本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、 南北約百メートル、東西約七十メートル、 東側に高い土手を築いて、城内が敵から見えないようにしてある。 この土手が御殿曲輪の東側まで続くことにより、 御殿曲輪も本丸の一部だったと考えることができよう。 本丸と御殿曲輪の間の空掘は東部が浅く、西部が深く、 西の空掘に降りる通路となっていた。 空掘底は初期にはすべて交通濠だったが、 後に掘り下られて、そのはたらきを失ったらしい。 南虎口(出入口)には前に曲尺(かねじゃく)馬出しがつき、 本丸南部が突き出して、虎口前を側面から防ぐようになっている。 」
本丸西虎口は蔵屋敷から本丸に架かっていたと推測される木橋を渡ったところで、 幅二・九四メートル、奥行一・五四メートルの門跡が確認されたという。
「 礎石は全部で四石あり、その配置から一階建ての高麗門と推測される。 本丸に入る三ヶ所の虎口のうち、唯一木橋を渡って入る虎口で、 間口は本丸の中で最大である。 」
本丸跡には「箕輪城跡」の石碑があり、
周囲は土塁に囲まれ、土塁に上がる階段もあった。
また、「箕輪城の歴史」が書かれた石碑もある。
日本100名城のスタンプは高崎市箕郷支所受付窓口(土日祭日は支所北側通用門)、
または高崎市箕郷公民館(祝日と年末年始は休館)にあるが、そこまで行くのは面倒である。
幸い、本丸のポストにスタンプ済みの紙が入っていたので、それで済ますことにした。
本丸北側の土塁の先に八重桜が咲いていて、垣根で仕切られている入口がある。
ここが本丸北虎口跡である。
その先にあるのが御前曲輪である。
説明板「御前曲輪」
「 御前曲輪は本丸の詰にあり、城の精神的な中心であった。
西南に物見、戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。
落城の時、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。
井戸は昭和二年に発見されたものである。 」
説明板「御前曲輪井戸」
「 御前曲輪 井戸 は昭和二年(1927)八月豪雨のため、一部地盤が沈下したのがきっかけで、古井戸が確認された。
深さは20mで、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出された。 」
左側は本丸から御前曲輪にかけてこれまで経験したことがない程の深い大堀切である。
「 長野氏・武田氏の時代は現本丸東側と北側に掘(1号堀と2号堀)があっただけだが、 北条氏時代になると、1号堀は本丸堀と呼ばれている本丸の南東側から西側に巡るL字状の堀に拡大され、 2号堀は埋められ、新たに3号堀が掘られた。 井伊直政時代になると、3号堀は埋められ、本丸と御前曲輪の間に堀が掘られ、 更に本丸と御前曲輪の周囲を囲うように、現在残る大堀切が造られた。 」
地面に「御前曲輪西虎口門跡」の説明板がある。
「 御前曲輪の出入口(虎口)で、 曲輪の西側の堀に架かっている木橋を渡り、この虎口を出入した。 2005年の発掘調査ではここから間口、奥行とも三・一メートルの門跡が確認された。 六つの礎石は全て残り、主柱二本と四本の控柱で支える四脚門と考えられる。 門の雨落溝には百五十六個の石塔の部材が用いられている。 これらは整然と並べられ、格調高く整備された門である。 」
御前曲輪西虎口の木橋は通仲曲輪と御前曲輪を結ぶために造られていた木橋である。
「 夏草や 兵どもが 夢の跡 」 の芭蕉の句碑があった。
「 句碑の筆者は安田一雨(箕郷町西明屋)によるもので、 一雨は元文五年(1740)〜文政十一年(1828)、 通称磯右衛門、前橋の松井素輪に俳句を学んだ。 」
この後、御前曲輪の西側の下に行く道を下っていく。
箕輪城の榛名山から派生した尾根を巡る大堀切や本丸跡を巡る空掘は
戦国時代としては最大級の城の面影を今に伝える壮大な遺構である。
下りると「←稲荷曲輪約320m丸馬出約300m」「三の丸約120m→」
「↑御前曲輪約90m」の道標があった。
ここは大堀切の跡で、御殿曲輪の反対側には通仲曲輪があり、
その南に蔵屋敷、そして三の丸が続く。
本丸の西側に青いビニールシートで覆われているところがあり、
その前に「本丸堀の橋台」の説明石碑がある。
「 本丸のところで前述した本丸西虎口の木橋の橋脚だったところである。
本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で、堀はここで狭くなっている。
南側に石垣が昔のままに残っている。 」
地面には春の野の花が可憐に咲いていた。
少し歩くと「三の丸跡」の標柱が建っていた。
ここは左に行くと二の丸、郭馬出、右側には鍛冶曲輪と虎韜門があるところである。
「 1999年、2000年の発掘調査により、三の丸は三期の変遷が確認された。
1期の長野、武田氏時代は屋敷地、2期の北条氏時代は鍛冶場として利用された後、3期の井伊氏時代には
南西側に厚さ二・四メートル以上の盛土を行い、三の丸の石垣を築いている。
発掘調査で鍛冶炉跡や掘立柱建物の柱穴が見つかっている。
発掘調査では両側に石垣を伴う幅五・七メートルの通路が確認されたという。
通路は石垣に径一メートル程度の大きな大石も使われたが、廃城後石垣は大きく崩されてしまった。 」
これで、箕輪城の探訪は終了した。
箕輪城へはJR上越新幹線・信越本線高崎駅から群馬バス「箕輪行き」で約30分、箕郷本町で下車、徒歩約20分
箕輪城のスタンプは高崎市箕郷支所受付か箕郷公民館にて
本丸にスタンプ済みの用紙が置かれている。