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岩櫃城は標高八百二メートルの岩櫃山全体を機能的に活かした巨大な山城である。
「 岩櫃城は築城時期や築城者は不明だが、 中世に築かれたとさせる山城で、 文献に初めて登場する城主は、南北朝時代(1336〜1392)の吾妻太郎行盛である。 戦国時代の永禄六年(1563)、斎藤越前守憲広(基国)の本城だった岩櫃城は、 武田信玄の家臣、真田幸隆により落城した。 以後、東吾妻は武田氏、そして真田氏の支配地となり、 岩櫃城は上田城と沼田城を結ぶ真田道の中間地点として、重要な位置を占めていた。 徳川幕府の誕生後も、岩櫃城は真田氏の城として使われたが、 慶長二十年(1615)の一国一城令により、岩櫃城は破却され、その役割を終えた。 」
岩櫃城は岩櫃山の北東に伸びる尾根に位置し、吾妻川の西岸にあたる。
「
西側は岩山、南側は吾妻川に下る急斜面で、巨岩による絶壁により守られ、
北側は岩山という天然の要害である。
東側が弱点になっているが、仮想敵国である上杉氏、
北条氏を意識して、東側の防御に重点を置いた縄張の城を真田氏は築いている。 」
JR群馬原町駅から国道を歩き、大戸から右の狭い道に入ると右手に観音山があるが、ここは支城の一つである柳沢城の跡で、東の守り、西には郷原城が支城だった。 敵が柳沢城を突破すると、その先の道は狭い谷の道(不動沢)で一度に多くの兵は通ることができない道だった。 番匠坂を越えると池があり、かって東の番所があった。 そこを突破されると現在岩櫃神社になっているところに出丸の天狗丸(天狗曲輪)があった。
「 岩櫃神社は鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮が築城されたといわれる岩櫃城の天狗曲輪だったところで、 真田氏が支配していた頃は真田忍者の活動拠点といわれている。 現在は畑の中の森が神社の社地で、祭神は斎藤佐太郎基国である。 斎藤基国は真田幸隆に従い家来になったが、 大坂城落城後、元の領民の安否が気になり、神照大天狗になり、岩櫃城へ戻り、元の領民の保護をしたと伝えられる。 」
要害地区略図を見ると、岩櫃城は尾根の西から本丸、二の丸、中城などが続く。
縦横多様に伸びる無数の深い堀が本丸を囲み、それを見下ろした下に、
二の丸、中城などの曲輪があったことが分かる。
岩櫃城要害地区略図 |
今回車を停めた平沢登山口は岩櫃山の西側で、岩櫃山の三合目である。
観光案内所を出て進むと、「←中城経由城本丸跡500m」「←群馬原町駅 岩櫃山→」と
「←尾根通り」の道標がある三叉路に出るが、ここを左折し林の中に入っていく。
林の中の道は堀切のような造りだが、この道は最近造られたもののようで、
かっての道は残されていないようである。
とはいえ、左右にには堀切だったと思えるところが何ヶ所かあった。
林を抜けると「中城跡」の標柱が建っている。 右から左にかけて緩に傾斜していて、
左右が長い長方形の形をしたかなり広い空間である。 中城の姿ははっきりしないが、数段に分れ、
土塁と木柵を施した防御施設だったのだろう。
中城の左側の端と思えるところに「岩櫃城本丸跡250m→」「尾根通り本丸跡→」の道標が建っていた。
右折して進むとその先は全長百メートル以上の一直線の道(竪堀)で、かなりの傾斜がある道である。
林が開けると左側に曲輪があったような平地があり、ベンチが置かれていて休憩できるようになっている所に出た。
道の右側にには「本丸跡尾根通り→」の道標があり、上に登る階段がある。
本丸までは百五十メートル程の距離。
急な短い木製階段階段を上がると、左側には大きな竪堀と思える凸凹の土塊がある。
そのまま上ると「二の丸跡」の標柱があった。
二の丸は三日月のような形状をしているが、面積は狭く、崖の上を切出して造られたような感じである。
二の丸から本丸を見ると、その間は深い堀切になっていて、本丸側に階段があるのが見えた。
かっては二の丸と本丸の間には木橋が架かっていて、敵兵が来ると切り落としたのではないかと
想像したが、それでなければ切り通しの堀に下り、今回のように階段を上がっていったのだろう。
階段を上ると四阿があり、その先に「岩櫃城」の石碑と城の来歴を示す石碑が建っていた。
そのまま進めば岩櫃山頂だが、 あづまやには、登山者ノートが備え付けられている。
本丸の左側は崖になっていて、「竪堀」の標柱が建ち、下を覗くと竪堀が見えた。
近年の発掘調査では、本丸から石垣や鍛冶場、鉄砲玉などが発掘されたという。
本丸の奥に「櫓台」の説明板がある。
説明板
「 主郭の中で一段高くなっている場所で、幅十二メートル、
高さ二・五メートル程の高台になっている。 周囲を観察する櫓台と考えられ、
ここから周囲の展望状況を確認し、城の内外に指揮連絡系統を結んだとされる。 」
本丸には幾つかの曲輪があったようである。
説明板「腰曲輪
「 本丸南枡形虎口と二の丸から本丸に上がる通路で、本丸南西を守る曲輪である。 」
その先には「本丸南枡形虎口」の標柱があったので、
かってはここが二の丸から本丸に入る出入口(虎口)があったのだろう。
その先には岩櫃山へ向う道があるが、「尾根通り四合目」の道標があり、「本丸北枡形虎口」の標柱が建っているので、
ここは岩櫃山頂方面からの出入口(虎口)だったのだろう。
なお、岩櫃城はこの先三百メートルを城域にしていたようである。
三叉路に「沢通り→」の道標と「←山頂1km 原町駅3.5km→」の道標が建っていて、
右折して下に降りる道が「沢通り」である。
帰りは沢通りを下る。
「 岩櫃城は沢側には岩や絶壁がないため、南側に比べると弱いが、 本丸と谷とは比高で七十メートル以上あるので、急な勾配を成していて、そこに竪堀などを設けて防衛を強化していたようである。 」
急な坂道は右側が高い坂になっているので、敵兵が坂を上るのはむずかしいだろうし、
沢道は狭いので多人数で攻撃することはできない。
下って行くと「本丸西北の一の木戸跡」の標柱が建っていた。
更に下ると「志度小屋(水曲輪)」の標柱が建っているが、
左側は比較的平坦な土地になっている。
水曲輪とあるので、城の飲料水をここで確保していたのだろうか?
少し行くと、右側に「竪堀」の説明板があり、
「 この空掘も通路で、ここで中城から来る竪掘を受ける。 」
と書かれていた。
少し行くと開かれた土地に出て、左手には桜が満開の家があった。
平沢集落の一軒なのだろう。
これで岩櫃城を一周したことになり、今回の岩櫃城探訪は終了。
この後、草津温泉に向い、元禄時代に開業したというホテル望雲に宿泊し、
ゆっくり風呂に浸かり、疲れをとった。
岩櫃城へはJR吾妻線群馬原町駅から徒歩で1時間(平沢登山口からは徒歩約20分で本丸跡)
岩櫃城のスタンプは平沢登山口観光案内所(4月〜11月)、東吾妻観光案内所(12月〜3月)にて