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園内には沼田城を買い取り、沼田市に寄付した久米民之助を紹介する板があり、
その隣に「←天狗堂、平八石」「←鐘楼、御殿桜」「旧生方家住宅→」などが記された道標が建っている。
近くには、戦国武双4「沼田の歴史物語 真田信幸(信之)其之一」の標札がある。
「 父の昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、 徳川軍と戦う第一次上田合戦(神川合戦)では、 信幸はわずかの兵を率いて、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘い寄せ、 勝利に貢献するなど、 幸村に勝るとも劣らぬ戦(いくさ)上手ぶりだった。 そして、乱世における真田家の運命を託せる人物として 徳川家康を選び、父昌幸、弟信繁(幸村)と敵味方に分れた。 関ヶ原の戦いでは東軍につき、名も信幸から信之に改めた。 」
神川合戦は上田市の東部に流れる神川付近で行われた真田氏と徳川氏の戦いである。
「 天正十年(1582)に織田信長が武田氏を滅ぼして得た甲斐、信濃、上野の地を巡り、
徳川、北条、上杉の間で武田遺領を巡り、天正壬午の乱が起きた。
真田昌幸は東信濃から西上野に勢力を保っていたが、
北条氏との間では沼田と吾妻領を巡り争っていたことから、北条氏から徳川氏に鞍替えした。
ところが、北条氏と徳川氏が和睦し、
和睦条件として真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃の佐久郡を交換することになった。
翌天正十一年(1583)から、昌幸は上田城の築城に着手し、沼田領と吾妻領を巡り争った。
天正十三年(1584)、家康は甲斐に布陣して、
昌幸に「沼田領を北条氏に引き渡すように」と求めたが、
昌幸は「徳川氏から与えられた土地ではない。」と拒否し、
敵対関係にあった上杉氏と通じた。
徳川家康は同年八月、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉などの武将と七千人の兵を派遣し、
戦いになったのが第一次上田合戦(神川合戦)である。 」
沼田は桜が満開から散り時で、地面には標札が積み重なっていて、きれいである。
道標にある鐘楼の方に歩いていくと、 今度は「沼田の歴史物語 小松姫(稲姫)其之一」の標札があった。
「 小松姫は幼名を稲姫、徳川四天王のひとり、
本多忠勝の長女として生まれた。
小松姫の嫁入りについてこんな逸話がある。
婿探しのため、大名の子息たちが浜松城に集められた。
小松姫は一人一人、髷をつかんで顔を覗き見る。
皆が家康の威光を恐れされるままになっているとき、
「無礼ではござらぬか!」と怒ったのが、真田信之だった。
これを見て、小松姫は真田信之の元に嫁ぐことに決定したといわれる。 」
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、
徳川家康の東軍についた真田信幸(戦い後、信之に改名)は父の上田領を合せて、九万五千石の大名になる。
慶長九年(1604)、信之は沼田城の西側に水手門と二重櫓を築造。
元和二年、信之は上田城に移り、長男の信吉を沼田城主にした。
信吉は寛永十一年(1634)に真田家と領民の安康を祈り、城鐘を鋳造した。
小松姫の標札の先に、鐘楼があり、信吉が鋳造させた鐘が収められている。
かって、鐘楼は大手外側にあったが、明治時代に取り壊され、
鐘は沼田市役所で時の鐘として使われていたが、
本丸の現在地に鐘楼を建て、移されたものである。
このあたりは七十メートルの崖の上であることを感じさせるところであるが、
何故か戦国武双のイラストがあり、
記念写真がとれるようになっていた。
大河ドラマ「真田丸」で当地が舞台になったので、その時の名残と思えるが、
その時は多くの人が訪れたのだろうか?
鐘楼の先は三角形に飛び出していて、そこに石段と石垣がある。
これが慶長九年(1604)に信之が沼田城の西側に建造した二重櫓の跡、西櫓台である。
石垣は崩れかかっているが、付近から集めた石で築かれていて、
当時の技法、野面積みである。
櫓台の上には樹齢四百年といわれる御殿桜があり、沼田城の歴史を伝えている。
沼田城は真田家の改易による廃城と明治維新による取り壊しにより、
遺跡はこれと本丸と二の丸の間の本丸堀の石垣だけである。
そういう意味で、わずかに残る石垣は貴重な存在である。
その先は広場のように開けたところになっていて、公衆トイレもあるが、 その先に天狗堂があった。
「 天狗堂には顔の長さ三メートル、幅二メートル、鼻の高さ一・四メートル、重さ一トンの木彫の天狗面が保管されている。 天狗は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身といわれ、 昭和三十四年に大天狗の分身として制作されたもので、日本一の大きさである。 」
天狗堂の左に「捨曲輪跡」の石柱が建っていた。
左にいくと、ビューポイントの表示があり、日本名山谷川連峰や武尊山、三峰山などの雄大な山が眺められるとあったが、
城に着いた頃から雨が降り出したので、見通せなかった。
垣根の中には、平八石(沼田平八郎首石)がある。
沼田平八郎、こと、沼田景義は沼田城の奪還に成功したが、
真田昌幸の策略で、沼田城内で殺害され、沼田氏は滅亡した。
その際、首実験した石が「平八石」として残っている。
天狗堂から公衆トイレのある方に戻るとクジャクもいる鳥小屋があり、
左手の丘にはきれいな桜が咲いていた。
戦没者を祀る「利根英霊殿」がある丘が真田信之が慶長二年(1597)に築いた、
間口十間、奥行九間の五重の天守閣があったところといわれる。
庭園の中央付近に真田信之・小松姫の像があり、碑文があった。
「 真田の惣領である信之は父の昌幸、弟の信繁(幸村)とに勝るとも劣らぬ武将であった。 真田の軍略を恐れ、また、ほれ込んでいた本多忠勝は徳川家康に申し出て、娘の小松姫を信之に嫁かせた。 沼田城初代藩主である信之とその妻、小松姫はたいへん仲の良い夫婦であったと伝えられている。 小松姫は信之の留守には城を守り、九度山「に流された昌幸や信繁を支えたともいわれている。 小松姫が体調を崩し、草津温泉に療養に向う途中、武蔵国の鴻巣で亡くなると、 信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。 」
夫婦円満のパワースポットといわれ、二人で写真をとれば、二人のような夫婦になれるかもしれない。
本丸は現在、沼田公園の花壇になっていて、二の丸は野球場などになっているが、 本丸と二の丸の間に架けられた堀は幕府に提出された絵図(正保城絵図)によると、 本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で一番大きな堀だった。
「 絵図には堀幅十二間(約24m)で、本丸に入る櫓門付近の石垣高は三間(約6m)と記されている。 奥に見える池はその名残で、右側の石垣は天守があった真田氏時代の石垣の一部と考えられる。 平成九年の発掘調査で、池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に捨てられていた石や多くの瓦が出土した。 出土した瓦は三巴瓦で、その周囲を巡る珠点は一六個を数え、信州上田城出土瓦などとの類似性が認められている、 」
沼田城は真田氏の時代は五層の天守や三層の櫓が建てられたが、真田氏の改易で城が破壊され、
天領の後の本多氏時代に三の丸を改修して御殿が建てられたが、城の規模は大幅に縮小したようである。
「沼田の歴史物語 小松姫(稲姫)其之弐」の標柱があった。
「 「 関ヶ原の戦いの際、西軍についた昌幸、幸村が「孫の顔を見たい」と、小松姫が守る沼田城に立ち寄ったが、 小松姫は緋縅の鎧に身を固め、「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と、 昌幸の申し出を断った。 あきらめて昌幸が正覚寺で休息をしていると、小松姫は子供達を連れて現れ、 昌幸の所望をかなえた。 これにはさすがの昌幸、幸村も感心したといわれる。 」
関ヶ原の戦いの直前、下野国の犬伏で、真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信幸は東軍につくことに決した。
昌幸らは犬伏を発ち、桐生回りで沼田に寄り、「孫に会いたい」といいだし、そのまま沼田城を訪れた。
小松姫の対応は上記の通りであるが、昌幸には沼田城を奪取する意図があったともいわれ、
小松姫はそれを見越し、穏便に解決したといわれている。
正覚寺に鴻巣で亡くなった小松姫の遺骨が埋葬されている。
旧生方家住宅は沼田藩の薬種御用達を勤めた商家で、およそ十七世紀末期頃の建築で、
以前は町中にあったものを移築したものである。 城下町の本格的町家として東日本に稀にみる古い遺構として、国の重要文化財に指定された。
「 間口六間、奥行十間、南面に土庇、東面に下屋を設ける。 切妻造り、妻入りで、屋根は板葺き石置である。
平面は主屋南面に上店、下店、通り庭を配し、奥に四室を並べ、家の中央に二十畳の広い板の間を設け、
西の通り庭から北面にかけて、土間を設けている。 」
沼田城へはJR上越線沼田駅から徒歩約20分
沼田城のスタンプは観光案内所に置れている