mrmaxの城めぐり 群馬県6 (高崎城)
高崎城は烏川に沿って築城された輪郭梯郭複合式の平城である。
井伊直政は徳川家康の命令で、箕輪城から高崎城へ居城を移した。
高崎城
高崎城は烏川に沿って築城された輪郭梯郭複合式の平城である。
「
高崎城の前身は平安時代末期にこの地の豪族和田義信が築城したと言われる和田城で、
和田氏は上杉、武田、北条と主君を変え、
武田氏の時代には上杉勢の度々の侵攻を受けたが、城はよく耐えた。
北条氏に属した和田信業は、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際し、
小田原城に出向き籠城したが、
城の留守を預かる信繁の子、兼業は前田上杉連合軍に包囲されて落城し、
廃城となった。
秀吉の小田原征伐後、関東に転封を命じられた徳川家康は慶長二年(1597)、
箕輪城主の井伊直政に和田城跡地に城を築き、箕輪から移るように命じる。
この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝で、
上杉氏を監視する為である。
翌、慶長三年(1598)、直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。 」
本丸には御三階櫓(天守)と乾(いぬい/北西)櫓、艮(うしとら/北東)櫓、
巽(たつみ/南東)櫓、坤(ひつじさる/南西)櫓の四基の隅櫓
、本丸を囲むように西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋があり、
二の丸、三の丸が梯郭式で構えられていた。
また、城内には本丸門など十六の門を設け、城の周りは土塁で囲まれ、
石塁はほとんど造られなかった。
「 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、
井伊直政は近江国佐和山城に移封となった。
元和五年(1619)に入城した安藤重信は城の改修に着手、
以後、三代七十七年間をかけて大改修され、近代城郭に整備された。
明治六年(1873)の廃城令により、第三師団官内分営所が置かれた以後、
建造物は移築もしくは破却され、
跡地の大半は歩兵第十五連隊の駐屯地として使用されたため、
現在残るのは堀と土塁のみである。 」
小生が中山道を歩き訪問した際、堀と土塁のみを確認しただけだったが、
唯一残り、農家に払い下げられていた乾櫓が三の丸模擬石垣上に移築復元され、
東門も乾櫓近くに移築復元されたという。
現在城址は市街化が進み、超高層二十一階の市役所や音楽センターなど公共施設が多く並ぶ。
お堀の周辺は高崎城址公園として、約4.9haが整備されており、
春には約三百本のソメイヨシノやツツジが満開となる。
また、城を囲む土塁の上は遊歩道になっている。
市内にある「曹洞宗 恵徳禅寺」は天正年間(1573-1592)、
井伊直政が伯母の恵徳院宗貞尼菩提のため、箕輪に創建した寺を直政が和田城に移った際、
城の北の榎森に移し、恵徳寺と改めたが、
後の城主、酒井家次により現在地に移された。
「 井伊直政は入城に際し、
恵徳禅寺を箕輪城下に開山した大光普照禅師龍山詠譚大和尚に、
和田の地名について質問すると、
「 松は枯れることがあるが、高さには限りがない 」 との進言により、
地名を高崎と変え、箕輪より町家や社寺を移して城下町を築いた。 」
市内の赤坂にあるのは赤坂山長松寺である。
かなり大きな寺院で、本堂は火災で焼失したものを寛政元年(1789)に再建した、と伝えられている。
この寺には松平忠長切腹の間がある。
「 松平忠長は二代将軍徳川秀忠の二男で、
駿河、 遠江、甲斐の三国五十五万石を与えられ駿河大納言に任じられたが、
大阪城を欲しがったり、百万石の加増を願ったりしたので、幕府は困りはてた。
更に、家臣を手打ちにするなどの行為も重なり、
将軍秀忠は、苦闘、熟考の末、彼を甲州に転封。
秀忠の死後、将軍職を継いた家光は、寛永九年(1632)十月、忠長の領地を没収し、
寛永十年(1633)高崎藩の酒井氏に預け、高崎城に監禁した。
更に、翌年十二月、忠長に切腹させた。
廿八歳という若さだった。 」
長松寺には徳川忠長が自刃したという書院が移築され、庫裡となっている。
高崎城跡へはJR上越新幹線・高崎線高崎駅から徒歩15分
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