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その先で左折すると石段をのぼりやすくするため、補助施設があった。
道をは右折し、幅広の石段を上るが、
谷側の石垣の上部は丸く加工されているのを発見。
石段の崖側に石塀を設けていて、その頂部に「かまぼこ石」という扇形の石が置かれている。
このようなおしゃれをした石垣に出逢ったのは始めてである。
その先の両側に大手門石垣があり、右側手前に小さな台座がある。
ここには「大手門跡」の説明板が立っていた。
「 大手門は城の正面に位置する門で、本来は追手門という。
追手門には侍番が置かれ、城中への出入りにはかなりの注意が払われた。
現在、櫓台である石垣と礎石、車敷が残っている。
岡城では文禄三年(1594)に中川氏入部後、大手、近戸、下原の三口が切り開かれ、
かっての大手門はここよりも東側に設けられていたが、
慶長十七年(1612)、岡城に立ち寄った藤堂高虎の意見によって、
今のように西向きに替えたと伝えられる。 」
岡城が所在する豊後国直入郡竹田(大分県竹田市)は、
大分県と宮崎県、熊本県との国境の地である。
城は東西に伸びる断崖絶壁の丘陵に位置し、長大なる石垣造の外郭が囲んでいた。
現在残されている城郭は中川氏築城のもので、
鳥瞰図は慶長元年(1596)頃の様子を東方向から描えている。
「 岡城は標高三百二十五メートル、
比高九十五メートルの天神山に築かれた山城である。
文禄三年(1594)、播磨国三木から入城した中川秀成が三年がかりで、
大規模な修築を施し、志賀氏時代の城域の西側の天神山に
本丸、二の丸、三の丸を中心とした曲輪と大手口、近戸口、下原口といった登城口や搦手を完成させた。
この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、
石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、この時期に岡城と名付けたとされる。
西の丸はその後、江戸時代の寛文四年(1664)に築造された。 」
大手門の櫓台の石垣を見ると、大手門は櫓門で、
かなり立派なものさっただろうと想像できた。
右側の大手門櫓台の中央には鏡石と呼ばれる大きな石が組み込まれているが、
その周囲には小さな石が並べられている。
このような積み方を「笑い積」と呼ぶらしい。
大手門を越えた先は枡形になっているが、右側の石垣は崩れてしまい、今はない。
正面の石段の先に、櫓台のようなものが見えるが、これは最初の大手門である。
藤堂高虎による大手門の位置変更後、正面の石段の上には枡形の土塀が建てられたため、
その姿は見えなかっただろう。
道は左折して進むが、正面の階段の上には「是より本丸まで350米です」との石柱と
「←西の丸跡」「←近戸門跡」「↑本丸跡」の道標が建っている。
少し進むと「左西ノ丸跡へ、右本丸跡へ」の道標が建つ三叉路で、
左に行くと西ノ丸経由で近戸門に至るが、直進し本丸跡に向う。
本丸に向う道は桜馬場とも呼ばれ、右側は斜面で、土塁が壁を形成、
左側は石垣を土台とする武家屋敷群である。
道標の先の崩れかかった階段を上がると「朱印状倉跡」の石柱が建っていた。
更に進むと、右側に「中休所跡」の石柱があるが、かってここには櫓台があり、
下の坂道を監視したり、藩医の詰所だったという。
道の左側にあるのは「中川但見屋敷跡」で、礎石もしっかり残り、
かなり巨大な門があったと思われる。
石段を上る広い空間の中に、細長い説明板がある。
説明板「中川但見屋敷跡」
「 中川但見屋敷は西の丸周辺に存在する三つの家老屋敷の一つである。
この屋敷跡は大手門から本丸に向う桜馬場跡の左側に位置する。
桜の馬場跡沿いに正面入口があり、その入口は石段を伴う門となっていた。
また屋敷跡は岡城築城着手から本丸完成までの間、仮屋敷として過ごしたものである。
中川但見は元亀年間より太祖中川秀清の老職として仕えた戸伏氏の家系で、
二代藩主久盛りの代に中川姓を名乗り、歴代藩主の老職として仕えている。 」
その先には「↑本丸跡 ←賄方跡 大手門跡↓」の道標と
「←中川民部屋敷跡、中川覚左衛門屋敷跡、近戸門跡 ↑本丸跡、
二の丸跡(トイレ)、三の丸跡」の方形の柱が建っている。
その先の左側に「城代屋敷跡」の標柱が建っていて、
囲む石垣は崩れていたが、前述の老職の屋敷に比べると、貧弱な気がした。
その先には「籾倉跡」の標柱が建っていた。
桜馬場で本丸に一番近いところに建っていた。
籾倉跡まで来ると、左右が狭くなってくる。
左側の清水谷(地獄谷)を越えた先には中川覚左衛門の屋敷跡の石垣が見える。
その先は尾根が最も狭く、その上石垣で虎口が設けられ、
この道を通らないと向うには行けない構造になっていた。
また、この左側、谷側に設置された石垣は岡城で一番有名な石垣である。
道の左側から覗くと、下は清水谷で斜面もかなり急勾配である。
奥に見える石垣は三の丸高石垣で、城内で最も高い石垣である。
かっては道の左側に土塀があったようであるが、今はないので、
岩盤の上から直接そそり立つ姿は雄大である。
正面の右側は石垣、道は直進し、左奥の三の丸高石垣にも連なる石垣で左折すると、
右側の櫓台の下に「貫木門跡」の標石が建っている。
これは三の丸に入る虎口(入口)で、石垣下には「貫木門跡」の標石があるが、
礎石も残り、石垣はきれいに切り揃えられていて、切り込み接ぎで築かれている。
かっては立派な楼門があったのだろう。
なお、下記の写真は通り過ぎてから振り返り写したため、左側になっている。
虎口は枡形になっている。
貫木門をくぐると、右側の櫓台には石段があることから、
敵が攻めてきたら上って敵を攻撃していたのだろうと思った。
また、左側の貫木門跡の標石のある櫓台の裏側には「鐘櫓」の標柱があり、
崩れかけた石段があった。
ここを左折すると正面に三の丸に向う巨大な石垣が見えてきた。
これは太鼓櫓石垣で、その手前には道標があり、
石垣の右手の道を行くと「廟所跡、下原門跡、登城バス乗り場に行ける。
三の丸の入口にあるのは太鼓櫓門で、
絵図にある西中仕切は貫木門と太鼓門とからなる枡形虎口のことだった。
かっては立派な楼門が建っていたのだろうが、今は両側に櫓台のみが残っている。
三段の階段を上り、太鼓門を過ぎると、石垣に囲まれた枡形に出る。
枡形正面には赤茶けた大きな鏡石があり、
左側の石垣には巨石の周りに小さな石を複雑に組み合わせてはめ込まれている。
かってはこの上に土塀か、多聞櫓があったのだろう。
なお左側の石垣の小さな石段(幅二メートル)は藩主専用の入口、御成門跡である。
この門に入ると三の丸殿舎の正面玄関に出るようになっていた。
右側に幅広い石段があり、その先には高石垣が見える。
江戸時代、ここが三の丸に通じる幅五メートルの三の丸への通用門で、
奥に見えるのは本丸の高石垣である。
通用門をくぐると三の丸で、「三の丸跡」の標柱が建っていたが、
三の丸の中央部にはかって殿舎が建っていた。
殿舎には四十畳の寄付や三十畳の御広間があり、
御広間には床、棚、書院等の座敷飾りが見られ、上ノ間として使用されていた。
三の丸は他藩や藩主が家臣との対面する場として使われていたと考えられる。
奥のロープに囲まれた場所には土塁の跡がかすかに残り、
そこには「武具庫跡」と書かれた石柱が建っている。
殿舎が江戸中期の大火で焼失した後は武具庫が建築されたという。
三の丸の奥には巨大な石垣があるが、この上が本丸である。
かっては、右奥の一段高い櫓台の上に天守相当の三階櫓が建っていた。
本丸石垣の左側に本丸に上る石段があり、その左側は二の丸跡である。
ニの丸は北に張り出した逆L字状の地形で、中央に御殿、北端に月見櫓があった。
御殿は御玄関を入ると、台所まで大広間が続き、
地形に沿うように老松ノ間から山吹ノ間まで書院が続いていた。
また、北端の突き出たところにある数寄屋造り風の月見櫓は、
外側に縁が巡らせた望楼があり、詩歌や茶の湯、酒、書画、音楽などを楽しむ施設になっていて、
各所に意匠を凝らしていたごとが絵図からも分かるという。
東端の風呂屋は石垣から張り出しだ足場を組んだニ階建ての建物で、
一階に風呂、二階に畳の座敷や涼をとるための簾の子縁が設けられていた。
また、二階からは箱階段で本丸まで通じていたとある。
現在、御殿跡にはニの丸休憩所という建物と風呂屋風の建物が建っていた。
月見櫓があった付近には「二の丸址」の標柱があり、 その左手には瀧廉太郎の銅像が建っている。
「 明治二年(1869)版籍奉還後の四年(1871)には十四代二百七十七年続いた中川氏が廃藩置県によって東京へ移住し、
城の建物は七年(1874)大分県による入札、払い下げですべて取りこわされた。
瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、
明治三十四年(1901)に中学唱歌「荒城の月」を作曲発表している。 」
本丸に通じる石段を上ると広い空間があり、「本丸跡」の標柱が建っていた。
また、平成10年3月竹田市教育委員会が建てた「国指定史跡 岡城跡」の案内板には、
城の歴史は詳細に綴られている。
岡城天満神社の社殿が建っている。
「 中川秀成が入城した際、城の東部にあった天神祠を移転建立したもので、
中川氏歴代の藩主が鎮守してきた。
しかし最後の城主、中川久成が上京後、城址は荒れ果て、樹木雑草が生い茂り、
石垣もこわれ、つたかずらが繁茂し、狐、狸、
猪などが出没するまさに荒城となり、神社も荒れ果てたので、
明治四十三年(1910)、竹田の城下町に遷座された。
昭和七年(1932)岡城跡が公園になり、昭和十一年(1936) に国の指定史跡になった。
岡城天満神社は昭和三十年(1955)に元の本丸跡へ遷座された。 」
本丸跡の一角に苔蒸した詩碑がある。 荒城の月は作曲瀧廉太郎、作詞は土井晩翠である。 彼は仙台の青葉城や会津若松の鶴ヶ城を頭に作詞したといわれる。
傍らの説明板には 「 この詩碑は(土井)晩翠の直筆を刻んだもので、 二節目が晩翠詩集や小学校唱歌の「霜の色」とは異なり、「夜半の霜」となっていますが、 時と場所によって発露される詩人の詩情によって書かれたものと思わます。 竹田市 」 とあった。
本丸奥(本丸南西端)の一段高いところにあったのは御金蔵で、
今は「金蔵跡」の石柱が建っている。
その反対側、本丸南西隅にあったのが御三階櫓である。
御三階櫓はL字型の土台の内、奥の長方形部に築かれ、
手前の部分には付け櫓が建っていたようである。
列車の時間との関係で、ここから桜馬場に戻り、西の丸へ向う。
「近戸口迄260米」の石標がある奥に階段がある。
ここにあったのは西の丸の東門である。
「 西の丸は、三代藩主、中川久清が城の西側の重臣団屋敷を接収して普請され、 隠居後の居住地として当初用いられた。 元禄二年(1689)以降には公式行事などが行われるようになり、 藩主の居住所または藩政の執務などにも使われるようになった。 」
東門跡の左側に道を進むと左右に石垣が残っていた。
その先には「新屋敷門跡」の石柱が建っていたので、その先に新屋敷門があったという訳である。
門の跡から中に入ると、除草された空地が広がっていた。
その中に「西の丸御殿跡」の石柱が建っていた。
西の丸の姿が説明板にあった。
「 西の丸は寛文四年(1664)に三代藩主、久清により普請された。 久清はこの御殿を家督相続による隠居後の住まいとして造ったようである。 しかし、元禄二年(1689)の正月元旦には 「当年始より御家中御礼、西御丸にて受けさせらる」といった具合に、 城の公式行事の一つに用いられている。 西の丸御殿は明和八年(1771)の大火災により焼失し、 安永八年(1779)に再建されて以後、政務の中心を果たすようになった。 文化十三年(1830)には宝巌院(三代藩主久清)の150回忌法事の祝儀能、 天保三年(1832)の浄光院(太祖清秀)の250回忌が行われていることから、 西の丸は本丸部分にはない儀礼性や居住性を取り入れた政治の中心的な曲輪だった。 」
西の丸の奥には秋葉社があり、その右手には民部家老屋敷がある。
また、その先には近戸門があり、その先は七曲がりの坂になっていた。
明治維新の廃城令により、明治四年(1871)から翌年にかけてこれら城内の建造物は全て破却されてしまった。
「西の丸御殿跡」の石柱の先は除草がまだなのか、草に覆われていたので、
今回の岡城の探索はここで終了することにした。
全体を見学するには二時間半は必要と思った。
竹田駅にあったポスターには日本城ランキング2018にて、総合5位、城跡の部1位とあった。
荒城の月のイメージで荒廃した城を想像して訪れたが、石垣などが整備され、まさに江戸時代の近世城郭と思った。
岡城へはJR豊肥本線豊後竹田駅からタクシーで5分、観覧料徴収所前で降り、
徴収所から徒歩約20分で本丸。
日本100名城の滝城のスタンプは観覧料徴収所にて