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古橋口は大友時代から登城道として使われていた道で、
太田時代に内掘をまたぐ橋が架けられ、稲葉時代に古橋と呼ばれた。
橋を渡ると右側に「古橋櫓跡」の石柱が建っていた。
登城道は外敵を防ぐため、岩を掘り切って造った狭い道で、
馬の鐙に似ていることから、鐙坂と呼ばれたという。
古橋の右側は岩山で、その上に古橋櫓が建っていたことになる。
「 稲葉氏の入封により、稲葉氏は大手門の大改修と今橋口の新設、城内通路の大幅変更を行い、 旧来の通路が本丸に一旦近づてから二の丸に上がる渦郭式縄張りから、 二の丸を陥落させないと本丸に近づけない連郭式縄張に変えた。 」
坂は鐙坂の形のように左、右にカーブしU字形をしている。
左側の石垣の上には大門櫓がある。
鳥居があったが、江戸時代にはこの付近に中門があった。
道は突き当たると左折し、石段を上り、また右折する。
この右側の角地に畳櫓が建っている。
「 畳櫓は桁行四間(7.92m)、梁行三間(4.44m)の二階建てで、
入母屋造の屋根をもつ櫓である。
正保年間(1644-48)頃建てられたが、宝暦十三年(1763)の大火で焼失。
明和年間(1764-72)頃に再建されたと思われる。
一階とニ階の床面積が同じという「重箱櫓」と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的だった。
解体修理の際、下見板で隠された銃眼「隠し狭間」があることが発見された。 」
畳櫓の脇の石段を上り、左折する平らな道にでるが、
左側には石組があったので、これが中門の櫓台かもと思った。
右側に石段があり、その先にあるのが大門櫓である。
なお、両側の石垣は十八世紀後半とみられる亀甲積である。
「 十七世紀初頭に城内通行の利便を高めるために造られたと思われる櫓門で、
十七世紀後半にニの丸居館ができると玄関口のような存在になった。
現在の建物は平成十二年に模擬復元されたものである。
」
大門櫓前の道に「←今橋口 ↑二之丸 大手口→」の道標が建っている。
「 大友時代から太田時代までは二の丸や本丸に入る道は古橋から鐙坂を上り、 ここに出て二の丸の周囲を巡り、上之門から城の東部にある空掘にたどりつき、 そこから上がるというかなり遠回りのルートだった。 稲葉氏は三之丸の端にに今橋を架け、 二之丸に上がる間に中之門、上之門という枡形を造るという守りの固い城内通路が出来た。 これにより、旧来の道は上之門で二つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯曲輪と呼ばれるようになった。 また、新しい登城口を今橋口、それ以前の鐙坂を通る登城口を古橋口と呼ぶようになった。 」
点線が旧登城道である。
大門をくぐった先は二の丸跡である。
大門の南端には「井楼櫓」の石柱が建っていた。
井楼櫓は城下が一望できる重要な櫓で、臼井城内で最も規模が大きかったという。
畳櫓の隣にある井楼櫓の櫓台石垣の築石はやや小ぶりであるが、
表面加工をせずに積んでいることや角石積みが規格的でないことから、十七世紀初頭のものと見られる。
「二之丸 二之丸御殿」の説明板がある。
「 江戸時代、空掘から西側一帯を二之丸あるいは西の丸と呼ばれていた。
大友宗麟が築いた臼杵城では丹生島の最高所であるここに主郭が造られたが、
福原氏以降は西半分より約三メートル低いところが本丸になり、
本丸と二の丸が入れ替わった。
五代藩主、稲葉景通は本丸居館が老朽化した上に手狭であることから、
幕府に二の丸へ居館を移すことを申し出、許可された。
延宝三年(1675)に完成した二之丸御殿は、本丸御殿に比べ城主の私的空間(奥)より、
家臣との謁見や外客との面談をする公的空間(表)がやや広く取られていて、
明治維新まで使用された。
二之丸御殿は書院造りで、表に大書院、小書院、御居間等の大部屋があり、
政務遂行や年中行事などの儀礼に使われた。
奥には「御内所」と呼ばれる藩主らの部屋があり、
湯殿、御仏間等、藩主の私生活の場だった。
御殿の奥には池や築山、石の輪橋などを配した庭があった。
また、北側には凌雲亭という茶室が造られた時期もあった。 」
左側に「会所櫓跡」の石柱が建っている。 二之丸御殿はその先の左側に建っていたようである。
「 二之丸御殿北側の石垣は最大の高さが約七メートルで、 城に現存する石垣では最も大規模な石垣で、 上から三分の二は江戸中期以降に積みかえを行っているが、 下部は十七世紀前半の状態を保っているという。 明治維新後廃城になり、建物はこわされた。 」
「 宝暦十三年(1763)、臼井城内と城下の七百四十軒の家屋が焼失する大火事が起き、 二之丸はほとんど全ての櫓と城主居館が焼失してしまった。 二年後から二之丸御殿の複旧が始まるが、 その際、守りの城から権威を見せる城になったという。 城下の正面に向く二之丸鐙坂周辺の崖が十八世紀前半に石垣化されたが、 この石垣の修理の際、タイル状の薄い石を崖面に張り付けて石垣のように見せている部分があることが分かった。 町からよく見せる部分から櫓を再建し、見せかけの石垣を造るという十八世紀以降の見せる整備がある一方、 今橋登城口の中ノ門や上ノ門を廃止するなど、 防御機能を低下させることも行われたという。 」
二之丸跡は臼杵護国神社の境内になっていて、戦時色の濃い境内になっている。
「武功抜群 木梨鷹一海軍少将の戦死」などの説明板が建っていて、
砲弾の奉納もあり、ミニ靖国神社である。
「臼杵護国神社由緒略記」
「 明治10年の西南の役で、薩摩軍が臼杵に侵入した時、
旧臼杵藩士の日下東命等が臼杵隊を組織し、防戦したが、
遂にやぶれて四十三名の戦死者を出した。 明治11年に城跡に招魂社を創建した。
旧稲葉神社は稲葉氏の旧臣が藩祖稲葉通公(一鉄)と歴代藩主を祀るため、
明治12年に創建したもので、
両者を合併し、明治から昭和の地元戦没者を加え、現在の名前になった。 」
二之丸御殿の地上遺構は全く見当たらないが、
わずかにその庭園の一部が護国神社の前に残されている。
勤皇臼杵隊之碑の説明には、
「 この時、臼杵に侵攻してきた薩軍は約三千人、
これを迎えうった臼杵隊は七百八十五人、
来援の警視隊は百人と薩軍の三分の一にも満たない人数だった。 」 とある。
臼杵護国神社の裏側は広いグランドで、ゲートボールを楽しむ老人達がいたが、
このあたりは二之丸より一段低いところになっていたようである。
グランドの東には野上八重子の文学碑があった。
文学碑の右手に本丸に通じる道があり、石垣が見える。
「 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、稲葉氏が城主になると、
初代藩主、稲葉貞通と典通(のちの二代藩主)は本丸防衛のため、空掘を整備し、
二の丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けた。
土橋の両側にあるのは空掘で、本丸と二の丸を隔てる。
空堀は大友時代からの北側堀と十七世紀初頭に造られた南側堀とがあるが、
南側堀は稲葉氏が入城するまで、大手門から本丸に至る登城路として使われていた。 」
南側堀に面する石垣は本丸塁線石垣と呼ばれるもので、
やや太ぶりの塁石を隅間を空けて積むという十七世紀前期の特徴をみせている。
上半部は布積みが崩れ、積み替えを行っているようである。
石垣の南端に見えるのは武具櫓跡である。
武具櫓の下半分は規格的な「算木積」で、十七世紀の前半と特徴を見せている。
上半分はその後、積み替えが行われている。
北側石垣の先を見ると右側の飛び出したところに天守櫓台がある。
天守櫓台の上には、高さ六間一尺(七メートル)、 六間四方(6尺5寸間)の三重四階の天守が建っていた。
「 天守が建つ場所は本丸の南部で、北空掘の中央部に位置し、
二の丸からの侵入者に備える縄張になっていた。
天守櫓台は、臼井城内に残る唯一の十六世紀の石垣(文禄三年(1594)から慶長五年(1600)の間に築かれたもので、
表面調整を行わない大ぶりな築石、
規格的な積み方をしていない角石など豊臣時代の雰囲気をよく伝えている。 」
明治六年(1873)の廃城令により、本丸と二の丸は公園地に指定されたが、 臼井城跡は荒れ放題になっていた。
「 ニの丸には招魂社が出来たことから、 境内と参道整備がすすめられたのでよかったが、本丸の公園化は遅く、 見事な高石垣の本丸天守周辺の石垣は当初は七メートルあったが、上部四メートル程が壊されてしまい、 残った部分は公園のモニュメントとして使われてしまったという。 従って現在の姿は往時の姿ではないようである。 」
空掘を越えると、右側の石垣の前に「鉄門櫓 くろがねもん」と書かれた石柱が建っていた。
「 稲葉貞通は土橋を渡ったところに鉄門という楼門を設け、 本丸の出入口を固めた。 楼門石垣は 長径一・五メートルに及ぶ大きな鏡石を用いる重厚な石組である。 角石は規格的な「算木積」で、十七世紀前半の特徴を見せている。 」
かって本丸の入口だった鉄門は枡形になっていて、
鉄門という巨大な櫓が建っていたが、
枡形の石垣が壊されているので、枡形の確認は出来なかったが、
その先にある小山のような処にあるのが、
枡形の出口にある二重櫓の武具櫓の跡と思われる。
江戸時代には枡形虎口を抜けて本丸に入ると、本丸御殿があった。
「 藩主が政務を進める空間(表)には御広間、大書院等があり、 政務遂行や儀礼に使われた。 御広間からは能などに使われる御舞台が見えた。 また、藩主の生活空間(裏)には御座間と呼ばれる藩主の部屋などがあり、 御湯殿が設けられ、現在でいう展望風呂のようになっていたという。 」
しかし、本丸は城下町や家臣の住む三の丸から離れているため不便だったので、
延宝四年(1676)に二の丸御殿(西の丸)に移転した。 今は庭園のようになっていた。
本丸奥に鎮座するのは大友宗麟が築城の時、祀ったという卯寅稲荷神社である。
ここは城の搦手口であるが、稲荷の鳥居が林立していた。
稲荷の鳥居の先にあるのは卯寅口門脇櫓である。
「 この切妻造りの卯寅口門脇櫓は二の丸の畳櫓と同じ様式で、 一階、二階の床面積が同じ「重箱造り」で造られ、半地下式になっている。 卯寅口門脇櫓は嘉永年間に再建された櫓で、鉄砲薬櫓ともいわれ、 火薬庫として使われていたようである。 」
卯寅口門脇櫓の下に下りていくと井戸が残っているが、 ここには卯寅口と呼ばれる海に面した出入口があった。
「 井戸があることから井戸丸とも呼ばれていたようである。
卯寅口は臼杵城の東端でここに船着き場があったという。
今は埋め立てられて住宅が密集していた。 」
本丸に戻ると、本丸の東端の削平地には「亀甲櫓跡」の石柱が建っていた。
帰りは本丸から北端の道を通ってニ之丸北側の道を行く。
稲葉氏以前の登城道である。
歩いて行くと右側に「埋門前櫓跡」の石柱があり、長方形の空地があった。
その先左側からニ之丸からの道が合流してくる。
かってここに上ノ門があったようである。
「 稲葉氏以前は、 大手門櫓前から天守下の空掘に至る帯曲輪を通って、本丸・ニ之丸に上がっていた。 十七世紀初めに今橋口が整備され、上ノ門東から空掘に至る区間に短縮された。 その際、登城道からニ之丸に入る門として埋門が設けられたというが、 その位置が確認できなかった。 」
その先二つ目に飛び出している石垣が着見櫓跡である。
「 着見櫓は今橋口から上ノ門に向ってくる人を監視する位置に設けられていた。 」
道はその先で二股になり、直進すると海鹿櫓跡、時鐘櫓跡を通り、
大門櫓の前に出る。
右側の道は今橋口に至る道で、今橋門、中門、上門からなる枡形虎口になっていた。 今はどれもないが・・・
以上で、臼杵城の探訪は終わりである。
臼杵城へはJR日豊本線臼杵駅から徒歩5分(卯寅口)、徒歩15分(古橋口)
臼杵城のスタンプは臼杵市観光交流プラザで