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三の丸櫓門の右手に続く石垣は佐伯城の遺跡である。
「 明治四年(1871)、佐伯県庁が置かれ、佐伯城は廃城とされ、 三の丸以外の建物はすべて払い下げ、撤去された。 遺跡として残るのは、 山頂主郭部の石垣と麓にある三の丸跡の石垣と三の丸櫓門のみである。 」
城が築かれた経緯を記す。
「 毛利高政は豊臣秀吉の家臣で、
当初の名は森友重、毛利輝元から毛利の姓を賜って毛利高政になったという人物である。
関ヶ原の戦いで、徳川方(東軍)に付いたことから、
慶長六年(1601)、豊後国海部郡佐伯に二万石を与えられ、
前領主佐伯氏の旧居城だった栂牟礼城に入城したが、栂牟礼城は険阻な山城で、
平時の統治には不便だったため、翌、慶長七年(1602)、
番匠川河口近くの八幡山に新城の築城に取り掛かった。
縄張は織田信長の元家臣で安土築城にあたった市田祐定、
石垣は天正期姫路城の石垣施工を指揮した石垣師の羽山勘左衛門が担当した。
八幡山の山頂に本丸を中心に南北に長く連郭式に配し、
本丸南に二の丸、西出丸、本丸北に北出丸、捨曲輪を配置し、
三重の天守がある本丸と本丸外曲輪を中心に二重櫓五基、
平櫓一基、城門七棟などが建てられた。
鶴の翼を広げた姿が連想されることから、鶴屋城とも呼ばれた。
文化会館に鶴のマークや三の丸の東方にある佐伯鶴城高校の名もこれに由来する。 」
楼門をくぐった先に「種田山頭火」の句碑がある。
「 山頭火は親友の工藤好美の故郷、佐伯に二度訪れている。
いずれも好美の妹、千代の菩提を弔う旅である。 」
句碑には 「 母よ うどんそなえて わたしも いただきます 」 と刻まれている。
母への思いと好美の妹、千代への思いが投影した句である。
その先には毛利神社の鳥居が建っていた。
「 昭和三年(1928)に山頂の天守台跡に毛利神社が創建された。 祭神は藩祖・毛利高政と八代藩主・毛利高標。 社殿は太平洋戦争中、昭和二十年四月二十六日の空襲で 破壊されたが、城山の麓のこの鳥居は残った。 」
本丸跡への道はいくつかある。
鳥居をくぐって進むと右側に川があり、
川に架かる橋を渡り山裾を上っていくルートが「独歩碑の道」と呼ばれるAコースで、
左側に城山還元の碑がある。
「 明治二年(1869)版籍奉還により、八幡山は明治政府の国有林になった。 その後、佐伯県執事係、山中盛太郎氏の陳情により、明治三十四年に毛利氏に還元され、明治四十四年に記念碑が 建てられた。 」
Bコースは藩政時代より続く道で登城の道と呼ばれるもの。
道は一人で歩くのがベストという幅で、ところどころがぬかるんでいて、
歩きずらい。
ところどころに石垣が残り、崩れかけた石段など、江戸時代の風情が残っている。
その他にも、西出丸の方に向う翆明の道(Cコース)や北出丸から雄池、雌池に向う若宮の道(Dコース)があり、
地元の人々は体力向上の散歩に利用しているとのことで、
幾つかのコースを組み合わせ歩いているようである。
下図は佐伯城の全体図である。
「 小生は行きは独歩碑の道と呼ばれるAコースを、 帰りに藩政から続く登城の道、Bコースを歩いた。 」
国木田独歩は、明治二十六年(1893)、鶴谷学館に英語教師として赴任した。
僅か十ヶ月の滞在であったが、後年、佐伯を舞台にした作品を多く残している。
国木田独歩の 「最後の国 佐伯」 には
「 さいきの春 まず城山にきたり 夏 まず城山にきたり 秋また 早く城山にきたり 冬はうそ寒き風の音を まず城山の林にきくなり 」
と書かれている。
Aコースはハイキング用に後日造られたものなので、整備された道で歩きやすい。
上り始めの道は、岩盤をむき出しにして、岩山を削って造ったと思われる道である。
道はS字状になだらかに上って行き、道幅も広かった。
二十分弱歩くと石垣の石は大きくなり、本丸外曲輪の一角と思える石垣に変った。
左側にある小さな空地が捨曲輪の跡だろうと思った。
捨曲輪からつづら道を上っていくと、野面積の整然とした石垣が現れた。
本丸外曲輪の下に到着である。
石垣は左に巡るように築かれていて、その先に石段があり、そこを上がると展望が開けた。
その先は石畳の坂で、坂のその上の両側には低い石段が見える。
また、右側の下には「豊後佐伯城跡」と書かれた石柱があった。
両側の石垣は本丸外曲輪の東虎口の門跡である。
右側の石垣の中に「独歩碑」がある。
「 佐伯を舞台にした作品を多く残している国木田独歩の碑は 「春の島」「源おぢ」の舞台になった城山山頂のここに、 昭和三十一年「佐伯独歩会」によって建立されたものである。 なお、江戸時代にはここに番所があったようである。 」
その左側に礎石のように穴があいている石があるが、
明治に建立された毛利神社の遺構である。
その先に展望台の代わりになる石組が見えた。
「 映画 釣りバカ日誌19 」 と書かれた標柱には
「 佐伯市城山 佐伯市市街地と佐伯湾を望むシーン 」 と書かれていた。
風景の写真パネルの先にある二段の石組は外曲輪の「二重櫓跡」である。
櫓自体は低いので、物見櫓的なものだったのだろう。
「 佐伯城の絵図には、東虎口を出ると、 正面の石垣の上に二重櫓があり、 その奥に三重の天守閣が聳えている。 」
今はその場所は急傾斜の石段に変っていた。
「 明治に入り佐伯城が壊された後、毛利神社が創建された際、 本丸外曲輪から本丸に登るこの石段は参道の一部として建設されたもので、 両側の曲線を描く石垣もこの時に積み直されたものである。 なお、本丸石垣は高さ六メートルで、佐伯城で最も高い石垣である。 」
本丸石垣の下の周囲一帯を本丸外曲輪と呼ばれた。
本丸石垣の左側に通路があるが、
江戸時代にはその左側に鐘撞堂があったようである。
その跡地は石畳になっているが、写真には一部写っていなかったのは残念である。
小生は行かなかったが、本丸曲輪の右側の細い道を行くと、
北出丸へ通じ、北出丸の水の手門跡を経由し、
雄沼、雌沼がある若宮の道(Dコース)となるようである。
石段を上ると一部石畳が残る空地が現れ、その先の木立の下に石垣がある。
低い石垣の前に「本丸跡」の石柱が建っていて、
石垣の上には小さな鳥居と岩が祀られていた。
「
明治に創建された毛利神社の社殿は第二次大戦の戦災で焼失してしまった。
小さな鳥居と岩はその跡地に祀られ、その痕跡を残しているということである。 」
前述のように、上ってきた石段は明治になって造られたものなので、
江戸時代に本丸に入るには西側から入るようになっていたので、こちらは裏側にあたる。
石段のあったところには二重櫓が建っていて、
東虎口から入ってくる人を監視していたのである。
「 本丸には三重三階で南向きの天守が建てられたが、 元和三年(1617)、二の丸よりの失火で、本丸と天守は焼失してしまう。 再建させることはなかったため、天守の詳細は不明である。 」
本丸の西南に石段があるが、これは本丸西虎口で、 その先に見えるのは二の丸跡である。
「 本丸西虎口には楼門があり、二の丸からの侵入に備えていた。
また、北西にも楼門がありそこから北出丸へ行けるようになっていた。 」
本丸と二の丸は堀切で遮断され、当時は廊下橋が渡されていた。
今は木の橋が架っている。
橋を渡ったところは二の丸跡である。
振り返って見ると、橋は二の丸より少し高い位置にあり、
かってはその上に「廊下橋」という屋根の付いた橋が架かっていた。
本丸に入るには本丸外曲輪から二の丸に入りこの廊下橋を渡り、
先程に幅が狭い階段を上らなければならなかった。
有事の際は廊下橋を落して敵の侵入を阻止することができる。
堅固で実践的と評された佐伯城を象徴する施設である。
「 絵図によると、ニの丸には中央部に御殿、 北側の中央に二重櫓、南側に平櫓があったようである。 」
二の丸の東側の畳で囲まれているところが二重櫓があったところで、
その前に「二の丸跡」の石柱が建っていた。
二の丸跡には独歩文学碑が建っていた。
二の丸の西端に行くと、右に左に折れ曲げられた石垣に囲まれた石畳の道がある。
ここは二の丸虎口(渡櫓跡)である。
「 当時は石垣に上に渡櫓と門が築かれていた。
虎口とは城郭における出入口のことで、
二の丸虎口は敵の侵入を阻むために通路を屈曲させ、幅を狭めている上、
地面は石畳で西の丸側に傾斜しているので、
雨の日には歩きづらかったのではないか? 」
現在も門の礎石が確認できた。
この門をくぐると西の丸だが、
西の丸と二の丸との接続部はかなり狭く築かれている。
両側には土塀が築かれていたと思われるので、更に狭いと思ったことだろう。
下は西の丸側から二の丸虎口を見た写真である。
西の丸の先端には西側の尾根を見張る二重櫓があったが、
その跡は石畳で表示されていて、その前に「西の丸跡」の石柱が建っている。
その前に巨大な丸い穴があるが、これは第二次世界大戦の時、
豊後水道を守るために設置された高射砲の銃座跡である。
これがあったため、毛利神社の社殿が焼き払われたのだろうと思った。
絵図では西の丸の東側の中央部に西の丸虎口の門があったように描かれている。
現在も石段は残っていた。
ここから廊下橋まで引き返し、廊下橋の手前の右側から下に降りた。
「 廊下橋は一段低い外曲輪を越えて、
本丸から二の丸へ直接行けるように架けられていた。
その下は埋門というより堀割に近い。
廊下橋の南側は外曲輪にも北の丸や大手道に抜けられる構造になっている。 」
帰りは登城道、すなわち、大手道を降りていく。
廊下橋の先に江戸時代には大手道からの虎口の門があったようである。
大手道は二の丸の石垣に沿って進み、
その先で西の丸からの道(翠明の道Cコース)と合流する。
道は湿った土がむき出しの道に変る。
その後、石垣が残っているところもあり、石畳の道もあったが、滑りやすく歩きずらい。
城山還元の碑があるところに出ると大手道は終わった。
昭和四十五年(1970)、三の丸御殿の一部を解体し、
市内船頭町に移築、地区集会所(住吉御殿)として現存しているという。
翌年、跡地に市立佐伯文化会館が建てられた。
その南の佐伯市歴史資料館のある場所は、
江戸時代後期に佐伯藩の役所(三府役所)が設けられたが、
明治に入り旧藩主、毛利家の所有となった。
「 現在建っている毛利家御居間は、十三代、毛利高範子爵が
明治二十六年(1893)から明治四十年(1907)まで暮らした屋敷の一部である。
敷地内には、三府御門(江戸後期)が保存されている。 」
三の丸の石垣の東側の城山登山口の東側には古い家が並んでいる。
その角にあるのは土屋家で、薬医門が建っていた。
その先に三義井、唖泉、お茶室汲心亭、そして安井がある。
「 御典医の今泉元甫は飲料水に苦しむ城下西町の住民のため、
私財を投げ出して三の井戸を掘った。
三義井と呼ばれるもので、安井、唖井、甘井の三つがある。 」
その先にある旧坂本家は、佐伯藩お浜御殿が移築されたもので、
国木田独歩兄弟が下宿していたことから、
「 城下町佐伯 国木田独歩館 」 として利用されている。
十二時三十五分、佐伯城の探勝は終了した。 一時間四十五分の滞在だった。
佐伯城へはJR日豊本線佐伯駅から徒歩約20分、バスで約6分大手前下車、徒歩約3分
佐伯城のスタンプは佐伯市歴史資料館にて