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わらべ館の先は広場になっているが、 江戸時代には豊後森藩久留島の陣屋が建っていたという。
「 久留島氏は瀬戸内の村上海軍の一つ、来島村上氏の出で、 来島長親は関ヶ原の合戦で西軍に属したため流浪の身になったが、 本多正信の仲介などにより、玖珠、日田、速見の三郡の内に一万四千石を与えられて、 来島から久留島に改め、森藩の藩主になり、久留島氏は明治維新まで当地を治めた。 江戸時代の城持大名は石高三万石となっていたので、 久留島(来島氏)は城主の格式に該当しないため、 山頂の角牟礼城は廃城になり、山麓のこの場所に陣屋が置かれた。 」
久留島氏は末広山の斜面と裾部を利用した御殿に接する「藩主御殿庭園」、 末広山の南端に建てられた栖鳳楼周辺に造られた「栖鳳楼庭園」、 末広山西側の清水門前の堀の一部を庭園化した「清水御門前庭」の三つの庭園を造った。 これらは国の指定名勝になっている。
「 栖鳳楼(せいほうろう)は森藩の記録には紅葉の御茶屋と記させていて、
天保十一年(1821)に完成、真言宗の高僧、不退堂によって栖鳳楼と名付けられた。
ニ階からの眺望がよく、お城の天守閣の趣きをなしている。
一階は御茶屋風となっていて、
栖鳳楼庭園は久重連山や城下町の遠景を取り入れたもので、
豪華な飛石が配置されている。 」
御長坂の石畳を上がると、左手に栖鳳楼、右手に末広神社の社殿がある。
「 慶長六年(1601)、豊後森藩初代藩主、 久留島康親は藩の守護神として、出身の愛媛県の大三島から三島宮を勧請鎮祭した。 その後の文化文政の頃、第八代藩主、通嘉が境内を整備し、 御神殿、拝殿などの建物を建てた。 御神殿は総欅(けやき)造で精巧、優美だが、 三十六坪の鞘堂の中に収められている。 明治に入り、妙見宮と合祀され、現在の名前になった。 」
神社の周囲の石垣は穴太積みで、城のような立派な石垣である。
城を持つことが出来なかった久留島氏は神社と栖鳳楼を城と見立てて、
石垣を築いたともいわれていて、久留島氏の無念さを感じることができた。
末広神社の境内に「鎮西八郎射ぬきの石」の説明板がある。
説明板「鎮西八郎射ぬきの石」
「 豊後国志巻之七 角埋山 の項に、
「久寿年間(1154〜56)に源為朝が城を角埋山に築き、これに拠る」 とある。
為朝は十三才の時、父に追われ九州に勢力を張り、朝廷の召喚にも応じなかった。
為朝は強弓の名手として名高く、向いの岩扇山から射た矢がこの石を貫いたといわれている。 」
山頂にある角牟礼城はここから徒歩で一時間とあり、
先程の御長坂を途中から右に入り、牛の首峠で、石仏のある石段を上り、
つづれ道を上っていくと、三の丸に至る。
小生は時間と体力の両面から、無理と判断し、三の丸まで車で行くことを選択し、
資料館でいただいたパンプレットに従い、城下町の入口まで戻り、
すみ本商店の前を通り、その先に右折する。
この道は中津、日田に至る道で、
峠に「角牟礼城入口」の表示があるので、進んでいくと三の丸の駐車場があった。
三の丸は岩盤を取り込んだ石垣で曲輪を囲んでいる城最大の曲輪である。
確認しなかったが、南斜面と西斜面に竪堀が多く設置されていたようである。
「三の丸跡」の表示板の傍らに玖珠町文化財案内板が立っていた。
「玖珠町文化財案内板」
「 角牟礼城は標高五百七十七メートルで、古くから石垣のある山城として知られている。
天然の要害と呼ばれるにふさわしく、三方を切り立った険しい岩盤に囲まれている。
角牟礼城の名が史料に初めて登場するのは文明七年(1475)の志賀親家文書である。
その後、天文二年(1532)や翌年三年には大友義鑑が森氏、
平井氏宛てた角牟礼城の城番をねぎらう「角牟礼勤番在城」や
城に新堀を築かせ、城域を拡充し強化を図る「角牟礼新堀之事」の書状が出てくるが、
角牟礼城は古く平安時代から豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、
玖珠郡衆によって守られてきた城である。
天正十四年〜十五年(1586〜87)の島津義弘による豊後侵攻の折には、
玖珠郡衆が籠城したが、
島津軍の攻撃にも落城することはなく、難攻不落の城として名を高めた。
文禄二年(1593)、文禄の役で失態をおかした大友義統が改易され、
翌三年(1594)に玖珠郡に毛利高政が入部、
慶長元年(1596)から毛利高政が日田郡、玖珠郡二万石を支配し、
その拠点として角牟礼城を整備した。 」
石垣は毛利氏により築かれたものであることが分かった。
駐車場から本丸に向う道の石垣に「穴太積み」の表示があった。
「 穴積み(あのうづみ)は自然の石を巧みに組み合わせて石垣をつくる、 石垣職人「穴太衆」が造る石組である。 織田信長の安土城の技術を豊臣秀吉が引き継き、全国に広まったと考えられる。 玖珠地方に近世城郭が築かれたのは文禄三年(1594)、 秀吉の配下、毛利高政が入部してからという説が有力である。 」
坂を上っていくと、石垣が現れ、「二の丸跡」の説明板があった。
「 二の丸は南側と西側に外枡形の虎口があり、
同規模の櫓門と思える礎石が見つかった。 特に南側虎口は全長百メート
ルの石垣があり、穴太積みと呼ばれる初期野面積みがよく残っている。 」
右側の石垣に沿って上に登ると、
右側に「角埋神社 山頂」の道標が載っている岩がある。
岩を越えると右側には空地が少しあり、「大手門跡」の標柱があった。
「 大手門は間口九・四メートル、奥行四・四メートルの変則的な外枡形虎口で、
南側は先程の高さ七メートル、長さ百メートルの二の丸南側石垣と連なっていた。
また、その先には横に延びる石垣があるが、二の丸西曲輪である。 」
石垣の上に行くと、「二の丸西曲輪」の説明板があった。
「 西門跡の南側にある曲輪。 南側に礎石建物跡が見つかり、西側縁辺部に土塁が確認できる。 曲輪周囲に石垣があるが、崩落が進んでいる。 南側虎口の石よりも小さな石が使われている。 」
曲輪の奥の最南部に三間X五間の礎石建造物跡があり、 その近くに「礎石建物跡」の説明板があった。
「 二の丸西曲輪の眺めのよい南端部に建てられている。 当時は玖珠盆地が望めたと思われる。 瓦が見つかっていないことから、板葺き等の屋根材が考えられる。 」
二の丸西曲輪跡の北側にかっては、 間口九・四メートル、奥行四・四メートルの西門があり、外枡形虎口を形成していた。
説明板「西門跡」
「 大手門跡と同規模の櫓門と考えられる。
礎石とかんぬき金具が見付かる。 周囲から瓦片が見つかる。
門から外に向う通路の一部には石垣の石材と思われる石が散乱している。 」
礎石の配置が左右対称だったため、両側に間口九尺分の部屋部分を取り、
中央が通路となる門であることが分かった。
瓦が出土していることから、瓦葺きだったと考える。
二の丸西曲輪の東に「本丸跡」への道標があり、
その上に迷わないように布の切れ端が枝に結び付けられている。
それを目印に崩れた土面を上ると「虎口(出入口)」の標木が立っていた。
「 本丸は東西四十三メートル、南北五十三メートルの曲輪で、
土塁で築かれていたようである。
南側の土塁の端の幅約四メートルの石段が本丸への虎口だったというが、
見た限り石段はここにはなかった。 」
本丸跡は空地になっていて、 中央部に「本丸跡(標高576m)」の標板と「角埋山(576米)」の標柱があり、 その裏には「本丸跡(伝)」の木札が置かれていた。
「 角牟礼城は角埋山の頂上から本丸、二ノ丸、三ノ丸の順に配置され、
平安時代から戦国時代に穴太積みと呼ばれる野面積みの石垣が築かれる近世の山城に変わった。
しかし、江戸時代に、城持ちの資格を持たない久留島氏の入部したため、
角牟礼城は廃城になった。 」
北側石垣の隅に「隅櫓跡」の標木があった。
「 隅櫓は標高五百七十七メートル、 比高差二百四十メートルのこの場所で、 日田方面から来る敵を監視するために築かれたのだろう。 」
パンフレットには、「 本丸には隅櫓を除くと礎石建物はなく、
柱穴などは中世の掘立柱建物のものと考えられる。 」 とあった。
隅櫓跡の標木の右手には「土塁」の標木があったが、
土塁と確認できる程ではなく、時の過ぎて行く過程を見るような気がした。
本丸に立つと、その時代で時間が停まっている感がした。
そのような感想を持ち、角牟礼城の探勝を終えた。
角牟礼城へはJR久大本線豊後森駅から徒歩約1時間30分で三の丸駐車場、そこから本丸まで約15分
角牟礼城のスタンプはわらべの館内の豊後森藩資料館にて押せる