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現在残っているのは本丸、東之丸、西之丸、北之丸(山里丸)の部分だけである。
「 、三の丸を囲んでいた水掘や北方の海は埋め立てられ、 中島西や船頭町として市街化されているため、 海に浮かぶ城のイメージを想像するのは難しい。 」
バス停の先の交叉点を右に渡ると、宮崎銀行大分支店があるが、 その先の右側に大手公園があり、その中に「府内城三之丸」の説明板があった。
説明板「府内城三之丸」
「 三之丸の跡は現在、荷揚町や大手町となり、官公庁街になっている。
府内城は堀を挟み、本丸、ニ之丸、三之丸に分れ、
三之丸は家臣の武家屋敷に充てられていた。
三之丸の中はT字、カギ型、袋小路の道で、複雑に区分され、
藩士たちの屋敷とともに藩主の菩提寺である浄安寺、藩の祈祷所、福壽院、下台所、御勘定所、御倉、牢屋などがあった。 北、西、東の出入口には櫓や
番所が置かれ、重要な個所には武具を配置し、藩士が警備していた。
また、西ノ口番所には時を知らせる時鐘堂があった。 」
今来た道を戻り、交叉点を渡ると右側に水掘越しに西之丸の西南角櫓があった。
なお、左側の市役所周辺には府内藩家老の岡本主米屋敷、太田相馬屋敷や津久井家屋敷などがあったようである。
西之丸西南角櫓は内掘に向って少し張り出しているが、
櫓の櫓台石垣は打込ハギ、隅部は算木積みで、
角櫓と水堀の間に今治城などと同じ、海城の犬走りがあった。
入手した府内城ウオーキングマップによると、
「 江戸時代の終わり頃、角櫓の両側の塀の一部は板塀だったという。
寛永十一年(1634)、府内藩二代目、竹中重義が改易となり、
日根野吉明が二万石で入城する。
その後、稲葉信通が城主となるが、万治元年(1658)、松平忠昭が入城し、
以後明治維新まで、大給松平氏が居城した。
当時の府内藩は大給松平氏の統治下だが、地震や火事など天災が相次ぎ、主な建物の姿を記録に残している。
その一つが下記の絵図で、角櫓の両側の塀が板塀だった。
板塀は外しやすく、構造が軍学書にある「切戸塀の砲門」と同じことから、
大砲を設置するために造られたのかもしれない、という。 」
水堀に沿って北に進むと右手に二之丸に入る道が造られているが、
江戸時代の絵図ではここには道はなく、内掘はその先まで繋がっていた。
この石橋を渡ると、二之丸の一つである「西之丸」で、
石垣の左側の端にはかっては二階櫓が建っていた。
右側には臨時駐車場があり、その先は大分城址公園だが、
金属製の骨格をした構造物が建っていた。
イルミネーション臨時駐車場とあったので、
天守のイルミネーションが夜間に行われるのかもと思った。
現在の大分城址公園の敷地は江戸時代の姿とかなり違う。
「 明治維新の廃城令で、
本丸、東之丸、西之丸の建造物以外は破却され、
堀の一部が埋め立てられた。
その結果、東之丸と本丸、本丸と西之丸を離していた水堀が埋め立てられて、
東之丸と本丸と西之丸が一つの敷地になっていた。 」
江戸時代の西之丸には今入っていたあたりにニ階櫓があり、
また、北西の端にもニ階櫓が建っていた。
今も両側に白い土塀が続く間に崩れかけたニ階櫓の櫓台が残っている。
「
江戸時代の西之丸の東北部の端には北に伸びる廊下橋があり、北之丸に通じていた。
また、東には土橋で本丸に通じていて、本丸北西部には北大櫓門があった。 」
廊下門への入口近くに「廊下橋前の冠木門」の説明板がある。
説明板「冠木門」
「 かって茶の湯や能、月見など、諸芸能の営まれた北之丸(山里丸)と西之丸は廊下橋によって結ばれていた。
現在の廊下橋は平成八年(1996)に復元されたものである。
西之丸に入ると通路は右に折れ、眼前に冠木門(柱の上に横木を渡した屋根のない門)があった。
冠木門があった所には柱を支えていた長さ八十センチ、幅六十センチの礎石が残っている。 」
廊下橋は塀や屋根のある木製の橋で、入口には扉がついていた。
「 敵の一斉攻撃から身を守り、城内から撃って出るには最適な造りで、 府内城には三ヶ所、大手口を始め、北之丸から西之丸、東之丸から本丸に渡る所に廊下橋が架けられていた。 」
廊下橋を渡るとかっての山里丸(北之丸)跡だが、
今は松栄神社の境内になっている。
左側に当時の石垣の一部が残る。
右側に「廊下橋」の説明板がある。
説明板「廊下橋」
「 山里丸は茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別の場所であり、
府内城の風格を示す貴重な史跡である。
山里丸と西之丸を結ぶ堀の上に架けられた渡り廊下が廊下橋である。
山里丸と同様、他に類を見ない史跡であることから、平成八年に復元された。
復元に先立ち、平成七年度に行った発掘調査の結果、
慶長期絵図に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かった。
復元された廊下橋は長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の高さ4.6m、
檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は桧皮葺きである。 」
北の丸に松栄神社があり、松栄神社の由緒書があった。
「 万治元年(1658)、大給松平氏の松平忠昭が豊後府内藩主として入城し、 以後明治維新まで、大給松平氏が当地を治めた。 慶長末期、上州水沼村に松平家(徳川家康の祖家)の祭神、近正八幡宮として創祀された宮を、 享保十四年(1729)、城内の山里丸に豊後府内藩主直参の宮として祀った。 その後、寛政十一年に松栄山(現県護国神社地)に遷宮され、松栄神社と称するようになった。 明治十八年に市内堀川町の奉行所跡に移されたが、明治三十三年に現在地に戻り、 昭和四十三年に明治百年を記念して建物が一新された。 」
山里丸は堀に向って南側と東側の石垣は残っているが、
北側と西側の堀は埋め立てられ、地続きになってしまっている。
北の丸の松栄神社側から堀越しに本丸の「人質櫓」が見えた。
「 人質櫓は本丸北西部の人質場と呼ばれた曲輪に位置し、 文久元年(1861)に再建されたもので、大分県の史跡に指定されている。 」
松栄神社の東手には帯曲輪があるのだが、 公園整備の工事で侵入禁止になっていた。
「 帯曲輪は大分川の河口に造られた人工の土手で、 土手の上に塀が建てられていたもので、水城を象徴する施設だった。 」
廊下橋を渡り、冠木門跡まで引き返す。
江戸時代の冠木門周辺は喰い違い虎口になっていたようである。
「 江戸時代の絵図を見ると、本丸は西之丸と土橋で北大櫓門に繋がり、
その左側には北二階櫓があり、敵の侵入を守っていた。
現在は東之丸と本丸との間にあった水堀が埋め立てられ、一体化している。 」
東に向って歩いて行くと、左側に本丸北二階櫓の櫓台と左側には石段がある石垣があるが、 石段の部分は絵図の北大櫓門の一部と思った。
「 北二階櫓の櫓台は古い様式の野面積で、 隅部は長辺と短辺が交互に交叉する算木積で造られている。 」
その先の少し凹んだ所には階段があり、上に上れるようになっている。
凹んだ所の石垣のうえには多聞櫓があり、左の北二階櫓と天守を繋いていたと思われる。
天守台は多聞櫓より少し高い位置にあり、今は鉄製の階段が架けられているが、
江戸時代はどのようになっていたのだろうか?
「 慶長四年(1599)に望楼式型の四重天守が築かれた。 天守台は古式な野面積によるものである。 本丸から直接上ることが出来ない構造で、櫓や門と繋がっていて、 国宝の姫路城と同じ構造である。 天守に取り付く櫓や門があった所(天守丸)は本丸の中でも石垣が一層高く造られ、 その面積は姫路城とほぼ同じ広さ(約千五百平方メートル)だった、という。 寛保三年(1743)、城下からの出火により天守などの多くの建物が焼失し、 以後、天守は再建されなかった。 」
天守台を左折すると日本庭園になっていて、一番奥に人質櫓が建っていた。
天守台の反対(南側)にあるのは大手門である。
当日は工事中で、大手門から外に出られなくなっていた。
「 大手門の正式な名称は多聞櫓門(たもんやぐらもん)で、 切妻造の櫓門だった。 昭和二十年(1945)の大分空襲で焼失したが、昭和四十年(1965)に復元された。 」
大手門の西の駐車場の中央部にあるのは宗門櫓である。
現在修理中で、白い色の黄色系の色になっていた。
「 宗門櫓は城外からは石垣の上に建つ平櫓に見える一方、
城内からは二重櫓に見える。
二階にも一階にも入口があり、中は繋がっていない。
江戸時代には櫓から北側に延びる石垣が出合曲輪と西之丸とを仕切っていて、
大手門から西之丸に向う道は喰い違い虎口になっていて、
城の出入口の一部をなす防衛上の重要な施設になっていた。
安政元年(1854)の安政大地震で倒壊し、幕府の許可を得て、
安政六年(1859)に再建されたもので、大分県の史跡に指定されている。 」
なお、このあたりの北側は内内堀の水掘で囲まれていたが、
それは埋めされ、北側に延びる石垣も無くなっているので、
城を感じる臨場感はゼロである。
その先にあるのは最初に水堀越えに見た西之丸南西角櫓である。
「 櫓台石垣は打込ハギ、隅部は算木積みであり、
天守台と造られた時代が違うことが分かる。
こちら側から見ると、櫓台は櫓の大きさになっていないので、
足りない部分は木で支える構造になっていることに気付いた。
石垣に上がる石段も左側に見える。 」
大手門と水堀を挟んだ東側の樹木の中にあるのは東の丸西南角櫓で、着到櫓とも称されていた。
「 櫓は白漆喰を塗籠めたもので、連子格子の窓、袴型の石落としを持っていて、
層塔型で地階(地下)を持っているため、二重櫓は城内から三重に見えた。
明治維新の廃城令で、本丸、東丸、西丸の建造物以外は破却され、
堀は大部分が埋め立てられた。
焼失を免れていた着到櫓なども第二次世界大戦の大分空襲によって焼失してしまった。
現在の建物は昭和四十年(1965)に復元されたものである。
同時期に復元された二階櫓が東之丸の東北櫓である。 」
江戸時代の東之丸の西側は内内堀の水堀があり、
本丸と隔てていて、東之丸の西中央部から廊下橋で天守に、
また、この二階櫓の西側から北に伸びる水手口があり、
本丸に入る喰い違い虎口になっていた。
今は全て埋められているので、それらを示す表示か、せめて説明板が欲しいと思った。
大手門が閉鎖されているので、先程入った道から外に出て、正面の天守門側に移動する。
西の丸西南角櫓を左折すると、宗門櫓が見えてきた。
内側から見ると二階建てだったが、こちらからは石垣の上に平櫓に見え、
石落しがあることが分かった。
大手門前には作業用のトラックが停まっていたが、
この道は明治以降に造られたもので、江戸時代には廊下橋で繋がっていた。
今後、復元されるといいなあ、と思った。
大手門の右側にあるのは東之丸の着到櫓である。
「 東之丸は大手門や西之丸に対し、南側に張り出して造られている。 この張り出しは鉄砲や弓矢を横から射かけ、 死角をなくして敵を多角的に攻めるための施設で、 当時最新の構造設計が採用されていた。 馬出と呼ばれるこの張り出しは、大手口や三階櫓を防御する機能を高めた。 」
更に東に向って水堀に沿ってあるくと、東南角に二階櫓が建っていた。
府内城の絵図には平櫓となっているので、不思議に思った。
二階櫓の北側は東に少し張り出しているが、江戸時代には三階櫓が建っていた。
できれば、こちらの三階櫓を復元してもらえばよかったと思った。
三階櫓跡の石垣の先に見えるのは東之丸の東北二階櫓である。
城の周囲を屈曲させることで、横矢を仕掛けられる構造になっていつ城だったことがよく分かった。
以上で、府内城の見学は終わった。
大分府内城へは日豊本線大分駅から徒歩約15分、大分駅からバスで約5分、市役所前下車、すぐ
日本100名城の大分府内城のスタンプは廊下橋か大手門にて
別府地獄めぐり
府内城を見学後、大分駅で昼食をとり、午後二時から別府地獄めぐりのバスにのった。
一昨日、昨日そして今日と大分県内を二百キロ以上回ったので、息抜きにと予約していた。
最初に訪れたのは海地獄である。
「 神秘的で涼しげなコバルトブルーの池。 海のように見えるが、 摂氏九十九度もあるという。 今から千二百年前に鶴見岳の噴火によりできたという。 」
続いて訪れたのは鬼石坊主地獄。
「 灰色の熱泥が大小の球状をなして沸騰する様が坊主頭に似ており、 鬼石という地名に由来して鬼岩坊主地獄と呼ばれているという。 」
大分熊本地震による影響を受け、泡が出ないなど苦労したようで、
現在の状態まで回復させたとの案内人の説明だった。
次はかまど地獄。
「
昔、氏神竈門八幡宮の大祭に地獄の噴気で御供飯を炊いた習わしがあったところから
名付けられたとある。
猛烈な噴気と共に高熱温泉を出している。
泉温九十度である。 」
これらの地獄があるのは金輪温泉(かんなわおんせん)である。
「 かっては自炊をし、長期間滞在に湯治をする場所だったが、 二十五年程前、湯布院、黒川温泉など、九州の温泉ブームが起きた時、 温泉の噴気で料理が出来ると金輪温泉が話題になり、 今では多くの観光客が泊まるようになった。 」
次に訪れたのは鬼山地獄。
「 鬼山という地名に由来するが、 温泉水を利用して大正十二年に日本で初めてワニの飼育を始めたところで、 泉温は九十九・一度。 約七十頭のワニを飼育している。 」
国の指定名勝、白池地獄は、噴出時は無色透明の熱湯だが、 温度と圧力の低下により、自然に青白色を呈してくる。
「 園内では温泉熱を利用して、各種の大型熱帯魚を飼育している。 泉温は九十五度で、含むホウ酸食塩泉である。 」
以上の五つの地獄はかまど地獄駐車場の周囲だった。
血の池地獄と龍巻地獄は亀川地区と離れているため、バスは移動した。
「 ここ鉄輪、亀川の地獄地帯は千年以上も昔より噴気、
熱泥、熱湯などが噴出していたことが「豊後風土記」に記されて、
「 近寄るこのもできない、忌み嫌われた土地だった。 」 といわれている。
鉄輪では今でも温泉の噴出口を地獄と呼んでいるという。 」
「 煮えたぎった粘土は、噴気までが赤色、豊後風土記に「赤湯泉」
と記された日本最古の天然地獄である。
ここから噴出する赤い粘土で、皮膚病に効く「血の池軟膏」が造られている。
泉温は七十八度。 」
地獄めぐりの最後は国指定名勝、龍巻地獄である。
「 間欠泉のため、噴出後、三十分〜四十分が経たないと、
吹きあがらないという。
次回噴く時間はその都度変るため、龍巻地獄では噴きそうになると、ランプを
点灯し、知らせるといわれ、血の池地獄で待機するすることになった。 」
ソフトクリームを食べながら待っていると、二十分後案内があり、
中に入ったが更に十分以上待たされた。
予告もなく、突然白い霧のように熱湯と噴気が上に噴出して、十分位で終了した。
「 世界の間欠泉の中で休止時間が短いことで有名という。
諏訪湖にも間欠泉があったが、そちらは湯量が多く迫力があり、墳出時間も長かった。
大分地震で影響があったようだが、間欠泉としての迫力は乏しい。 」
施設者側から見れば三十分〜四十分の間隔で噴き出し、
短時間で終わる方が商売になるだろう。
以上で地獄めぐりを終了。 小生は三度目の地獄めぐりだが、同行した娘は初めてなので満足したようで、よかった。
当日の宿泊は杉の井ホテルの本館。 別府温泉で一番人気のあるホテルである。
「 日帰り温泉も営業していて、 別館のスギノイパレスにはスケールの大きい大展望露天風呂「棚湯」と水着 で楽しむ温泉「ザ アクアガーデン」がある。 」
本館からシャトルバスが出ているので、棚湯に行ったが、
別府湾が一望できる絶景だった。
夜はイタリア料理のフルコース、翌朝は六時半から朝食バイキングを
やっていたので、翌日の出発時間が早かったが、問題なかった。
もう一度泊まりたいホテルである。
地獄めぐりは、別府駅前から出る地獄めぐりのバスを利用すると楽である。
その他、亀の井バス 外廻り循環線(26)を利用すると、
別府駅前〜亀川駅前〜地獄池前〜鉄輪〜別府駅前を循環している。