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駐車場の南側には石垣と水堀があった。
「 中津城の水堀は本丸と三の丸の南側と東側のみで、 西側は高瀬川が水堀の役目を担っていた。 」
駐車場の右手には「三斎池」の説明板がある。
「 細川忠興が隠居し、居城を小倉城から中津城に移した際、 三斎と号し、城と城下町の整備を行ったが、その際、城内の用水不足を補うため、 山国川の大井出堰から水を城内まで導く大工事を行った。 その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水として使用された。 忠興の号、三斎の名を冠して三斎池という。 」
駐車場の北東の石垣の前に「中世の館と寺院跡」の説明板がある。
「 中津城が築城される前に、
二重の溝に囲まれた中世(十五世紀〜十六世紀)の館があったことが確認された。
高石垣を積む近世の城と違い、溝の壁には石が貼りつけられていて、
溝の間には土塁があったと考えられる。
中津城築城当初の地層から最大径一・六メートル、
厚さ七十センチの大型の礎石やせん(土へんに専という字)というタイル状の瓦が多数出土され、
また、表面に仏を意味する梵字や日付などを墨で書いた大きな石が出土した。
中央には丸い穴が掘られていて、仏舎利などが収められ、地鎮に使われていたと考えられている。
この遺跡から、この地には黒田氏の時代に寺院があったことが分かった。
千六百年に入国した細川氏は寺院に二の丸を建築し、本丸内の寺院が姿を消した。
近世の城では本丸内に寺院を建築することはなく、
黒田氏の時代はまだ近世の城郭スタイルが確立していない時代だったといえる。 」
両側に石垣が残る狭い入口の前に「扇型の石垣」の説明板がある。
「 本丸の南東隅に位置する小さな鳥居入口は椎木門跡である。 絵図を見ると、入って西側は正面は平瓦と練土を交互に積み上げた練塀があり、 北側に折れて門をくぐる枡形虎口の構造になっていた。 椎木門をくぐると扇形に弧を描く石垣があり、扇型の石垣内に二つの入口があった。 この入口はその一つで右側の入口である。 足元や石垣の側面に扉が取り付けられていた痕跡を見ることができる。 この周辺の石垣には川沿いに黒田氏時代に築かれた石垣に見られる山城の石(直方体)が使用されている。 また、石の中には田や井や△などが刻まれているものもある。 」
石垣の左側は取りこわされているので、扇型だったのかは確認できなかった。
なお、右側の鳥居の先は江戸時代は二の丸で、細いながら、北に海側まで広がっていた。
扇型の石垣の北側が本丸だったが、当時と様相は変っている。
江戸時代の絵図には天守は描かれていない。
「中津城下図」には中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。
現在、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に昭和三十九年(1964)に建てられた模擬天守が建っている。
「 奥平昌信が中心となって構想し、東京工業大学教授の藤岡通夫が設計を手がけた鉄筋コンクリート構造で、 外観は萩城天守をモデルとした、高さは二十三メートル、独立式望楼型五重五階の天守である。 」
模擬天守南に望楼型の二重櫓も建てられているが、かつてこの場所には南東隅櫓があり、層塔型で多門櫓を続櫓として付属させていた。
「
本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。
また、本丸南の堀と石垣は中津市によって修復、復元されたもので、
ここにも黒田、細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。
なお、黒田孝高(如水)が普請した石垣は天正十六年(1588)に普請されたもので、
現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。 」
左側にある奥平神社がある。
「 奥平神社は奥平家の中興の祖、奥平貞能、信昌、家昌を祀った神社である。
奥平家七代目の昌成が中津藩の藩主となった翌年、二の丸にあった観音院を祈祷所としたのが始まり。
奥平家は村上天皇を祖先とする家系で、奥平信昌は徳川家康の長女、亀姫を妻に迎え、
三代家昌は家康の孫という徳川家でも名門家である。
続日本100名城のスタンプは天守受付にある。
「 中津城模擬天守は奥平家歴史資料館として、 奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、 長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した陣羽織、 徳川家康からの軍法事書など古文書類を展示している。 」
天守の五階から北を見ると、水堀跡が整備されていて、その先に二の丸があったことが分かった。
また、左の中津川も治水がしっかり行われているようだった。
天守を降り、奥平神社の左手に向うと、城井神社があった。
「 祭神は宇都宮鎮房である。 天正十五年(1587)、豊臣秀吉は九州を平定し、豊前六郡を黒田孝高、二郡を毛利勝信に与え、 領主の城井谷城主、宇都宮鎮房には四国今治への移封を命じた。 宇都宮家は信房より鎮房に至る十八代、約四百年の間、 豊前国守として統治していたため、鎮房は当地での安堵を願い、移封御朱印状を返上し、 宇都宮家と黒田家の間で、死闘を繰り返すこととなった。 秀吉は孝高と謀り、所領安堵を条件として、長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し、和睦させた。 天正十六年(1588) 四月二十日、鎮房は中津城に招かれ、酒宴の席で謀殺された。 宝永二年(1705)、小笠原長円は、暗殺された城井鎮房(宇都宮鎮房)の亡霊が出て悩んだことから、 小社を建て、鎮房を城井大権現として崇め、その後、城井神社に改められた。 」
城井神社の右奥には扇城神社(せんじょうじんじゃ)がある。
「 天正十六年(1588)、城井鎮房の従臣は鎮房の庶子空誉上人(鎮房と静の方との子)の寺、 合天寺に止め置かれ、 鎮房は小姓松田小吉を伴い、中津城内の館で謀殺された。 異変を知った従臣は城内に入り、戦ったが討死。 松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助、吉田八太夫は追腹した広運寺にそれぞれ埋葬された。 その他の従臣は城内乾の上段であるこの地に埋葬された。 宝永二年(1705)、小笠原長円(ながのぶ)は広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神ともに祀った。 城井神社がこの地に再興後の大正九年(1920)、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀られた。 」
豊臣秀吉は黒田孝高と謀って、九州の土着勢力の一掃を謀ったという訳で、長く続いた宇都宮家は滅亡した
のである。
本丸の上の段と下の段の間の左側に、江戸時代には鉄御門と三階櫓があったようである。
中津大神宮の近くには、西南の役の中津隊長、増田宋太郎の歌碑があった。
歌碑には明治十年八月
二十二日、日向国三田井で自決した時の辞世の歌が刻まれている。
黒田官兵衛の資料館に入ったが、写真パネルの展示だけで、古文書や遺品などがある訳でなかった。
「 黒田官兵衛(黒田孝高・如水)が中津城時代に果たしたのは、関ヶ原の戦いの際に取った行動である。
息子の黒田長政は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに徳川家康の東軍に参加し、
西軍諸将を調略するとともに黒田家の本隊を率いて石田三成とも直接対決するなど大きく貢献した。
中津城に隠居した黒田官兵衛は、九州の大名が上方に赴いていて手薄な九州を攻略しようと考えたが、
中津城に残留する兵が五百人程と少ないため、天守に貯め込んでいた蓄財を使い、
農民らを臨時兵として雇用して、その軍勢で豊前国の府内城、岡城、臼杵城などを次々と攻め落した。 」
帰りは駅まで歩く。
南部小学校の校門は奥平中津藩家老の生田家の薬医門である。
「 江戸時代、このあたりは三の丸と呼ばれ、藩主の一族や家老などの屋敷が建て並んでいた。 南部小学校の敷地は家老の生田家(千八百石)の屋敷と隣の奥平図書(二千六百石)の屋敷の一部である。 この場所に、明治四年(1871)福沢諭吉の発議により、洋学校の中津市学校が創立された。 市学校は明治十六年(1883)に閉校になったが、明治四十三年(1910)に南部小学校が開校になり、 以降生田門は校門として使われている。 」
生田門に続く土塀に「おかこい山」の説明板があり、左側はおかこい山、右側は中堀跡と表示があった。
「 かって中津城下町は内掘、中堀、外堀沿いに掘と土塁がぐるりとめぐる守りの堅い構造だった。 中津ではこの土塁をおかこい山と呼んでいた。 三の丸の周囲はこの土塁で囲まれていた。 南部小学校の中にあったおかこい山と中堀は、 現在の歯科医院の敷地から西門まで続いていた。 歯科医院の竹林がおかこい山の名残である。 」
松厳寺、明蓮寺、合元寺と続く寺町は、敵が攻めてきた際に伏兵を配置する設計だったようで、
中津城の城下町には高さ約四メートルのおかこい山と呼ばれる総構えの土塁が随所に点在する。
中津城から駅までは歩いて十五分位だった。
駅前には一万円の肖像になっている、中津市民自慢の福沢諭吉が銅像になっていた。
以上で、大分の城めぐりは終了した。
中津城へはJR日豊本線中津駅から徒歩約15分
中津城のスタンプは中津城天守閣にて