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南内郭への門があり、「南の守り」の説明板がある。
説明板
「 南内郭の南側の守りは兵士が待機します。
また、中に入れない人が待っています。 門には正門と脇門があり、正門は監視を厳重にするため、櫓門になっています。 」
この中が南内郭で、内郭へ入る時にはこの門を通らなければならなかった。
「 今いるところは当時の南の集落で、「南内郭」と命名されているが、大きな外壕の中に内壕が二つあり、その中に建物がまとまって建てられていた。 」
南内郭には南の正門と北の脇門があり、正門の両脇には見張りや威嚇のためのが聳えている。
「 南内郭は、国の大人(たいじん)が暮らしながら、
吉野ヶ里国の政治を行った場所と考えられている。
大人達の最高の権力者が王(おう)である。
大人は、軍事、土木、祭祀、外交、裁定(裁判)を司る人で、
集会館に王と大人たちが集まり、儀式や話合いを行っていた。
今でいうと大人は大臣、集会館は内閣というところか?
吉野ヶ里の遺跡調査では内郭の内外に建物の遺構が発見された、という。 」
物見櫓の下に連なる竪穴住居は、 軍事や土木を取り仕切る「大人(たいじん)」と家族が住む家である。
「 竪穴住居はこの遺跡では残っていなかった(発掘されていない)ので、静岡県の登呂遺跡で発見した竪穴住居を再現したものとあった。 」
ここでは当時の暮らしぶりを再現するため、家の内部に土器や笊などが置かれ、 当時の服装をした人形が作業する風景を演出していた。
「 その先の家は祭祀や儀礼を取り仕切る大人の家で、 大人の妻が安産祈祷を行っている。 」
木で造られた鳥が上に乗る門をくぐると、屋根に特徴がある家があり、「王の家」 とある。
「 王の家には王の力を示す品が枕元に置かれ、
王と家族が暮らしていた。
王の家は周囲を木柵で囲んでいて、大人たちの家とは独立している。 」
王の家の裏に王の娘夫婦の家があり、王の妻の家もあり、 外で機織りをすることもあった。
「 吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の国という説もあるが、
この時代は女系社会でもあったので、娘夫婦が王と一緒に暮らしていたのだろう。 」
王の家の外には「煮炊屋」がある。
「 煮炊屋は食事を作る建物で、 ここで作られた食事は王や大人たちの家に運ばれた。 」
伊勢神宮の外宮には豊受大御神を祀っているが、
豊受大御神は内宮の天照大神の食事を司る神で、
御饌殿(みけでん)で食事を用意して、内宮まで届けていたと書記にある。
ここでも、食事を司る人が指揮して、料理をしていたのだろうと思った。
近くの物見櫓に上ると南内郭が一望できた。
広場には中国への使者を派遣する時、一緒に持たせる貢物を収める倉や製造する鉄器や銅製品の原料を保管する倉がある。
「 弥生時代の日本には、鉄鉱石や砂鉄から鉄を造る技術はなかったので、材料の鉄板は中国から輸入していた。
鉄製品は鉄板(鉄てい)を曲げて造っていたといい、
製造する建物や保管する倉もあった。
高床式倉庫には、国の各地から徴収された稲穂を保管する倉や、
軍事のための備蓄や国の財力を示すための稲籾の倉などに使われていた。
発掘調査で食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、
青銅器製造の跡などが発掘されたという。 」
「環濠と土塁」の説明板があった。
説明板
「 環濠と土塁は吉野ヶ里丘陵を巡るように設けられた防衛の施設で、
大きな濠を掘り、掘った土で外側に高め、土塁として敵の侵入を防ぐ。
土塁の上には木の柵を設け、城柵としていたと考えられます。 こうした構造から城=土が成るという言葉の語源になったと考えられています。 」
この郭を守る兵士たちは団体生活で、大きな竪穴住居に住み、
兵器を収める倉があった。
また、警備のために詰める兵士の詰所もあった。
南内郭の左手に倉と市があり、市長(いちおさ)の住居がある。
「 市場を治める市長はこの区域に暮らしながら、市を管理する。 また、市の倉がいくつかあり、市で交換するため、 吉野ヶ里で製作された道具類を保管する倉や生産された食材を保管する倉があった。 」
市楼はここで開催される市を管理する施設である。
「 下の階で市に参加する許可をもらう。
上の階には市の開催を知らせる旗と太鼓が置かれ、兵士が見張っていた。
酒造りの家ではその年に収穫された米を蒸して、祭や儀式に使う酒を造っていた。 」
北の郭へ向うと木鳥の付いた門の先に厳重に囲われた木塀がある。
「 北内郭は最高祭祀者の住んでいたところで、 吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要区域である。 」
北内郭は二つの環濠で囲まれ、
周囲を隙間のない板塀で囲まれていたと推定されている。
この敷地の中に主祭殿、四方に物見櫓、東祭殿と斎堂などの施設があった。
中に入ると正面に高さ16.5mの主祭殿がある。
「 主祭殿では吉野ヶ里の指導者たちだけが出入できる神聖、 かつ特別な場所で、田植え、稲刈りの日取り、 戦いや狩りの祈りなどの重要な事項を話合ったり、 最高祭祀者が祖先の霊に祈りを捧げる儀式が行われた。 」
主祭殿の二階は重要な会議が開かれる場所で、
吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらに周囲のムラの長(おさ)も集まられ、
会議が行われた。 それを再現したものがジオラマになっている。
三階では最高祭祀者が祖先の霊のお告げを聞く祈りを行い、
その結果は従者から二階の会議しているリーダーたちに伝えた。
竪穴住居は北内郭の中に唯一あるもので、最高祭祀者の最も身近に仕え、
その世話に当たる従者(サンワ)の住居と推定される。
その先の高床住居は吉野ヶ里の最高祭祀者の住まいと推定される。
「 最高祭祀者は一般の人々の前にはほとんど姿を現さなかった。 左奥の高床倉庫には祭に使われる道具や宝物が保管されていた。 また、屋根倉には神に供える稲穂に次の年にまく種籾が保管されていた。 」
物見櫓は敵を見張る役目の他、四方をまつる役目ももっていた。
主祭殿の東にある斎堂はまつりの時に身を清めたり、
まつりの儀式に使われる道具が置かれたと推定されている。
その東の環濠と環濠の間にあったのは東祭殿である。
「 東祭殿は夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にある高床式の建物で、 ここで太陽の動きを観察し、季節ごとの祭が行われていた。 」
弥生時代の後期は全盛期で、吉野ヶ里の環濠集落に二千五百人、 周辺の集落を含めた国全体では五千人位の人が暮らしていたといわれる。
「
しかし、この頃から海が遠ざかり、筑後川の河口をそれとともに移動する。
古墳時代の三世紀末から四世紀初めに吉野ヶ里集落は突然消えてしまう。
古墳時代に入ると稲作中心の生活になり、吉野ヶ里集落のみでなく、周辺集落を含めた地域(クニ)全体の人々は
この地を捨て、他に集落が移動していき、環濠には大量の土器が捨てられ、埋められてしまい、
丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓が築かれたといわれる。 」
北内郭を出て、北に向うと北墳丘墓と祀堂が見えてきた。
手前の祀堂は歴代の王の祖霊へのお供えやお祈りを捧げる場所で、
そこに立つ 立柱は祖霊が宿るとされる柱である。
その奥の前方後円墳に王が埋葬された。
「 墳丘の中からは十四基の甕棺が出土し、 その内一基から青銅の剣とガラスの管玉が、 七基には青銅の剣が副葬されていた。 」
北墳丘墓は吉野ヶ里集落を築いた祖先の霊を大切する区域として、 祖先の霊を祀る祭壇として、人々の信仰の集める地に変化したのである。
「 西側の墓道は墳丘墓にお参りするための専用の道と考えられ、 北外環濠を渡って西に延びていて、吉野ヶ里集落のみでなく、 周辺集落を含めた地域(クニ)全体の人々がお参りするための道だったと考えられている。 」
地面の下に甕棺がああり、その脇に「甕棺墓列(かめかんぼれつ)」の説明板があった。
説明板
「 甕棺は棺桶のことで、弥生時代の北部九州だけに見られるめずらしいもので、
吉野ヶ里では六百メートルにわたって、二列に埋葬された甕棺墓列を始め、近隣各地にたくさん墓地が設けられている。 」
南内郭の南部には南のムラがあり、「下戸」と呼ばれる一般の人々が住んでいた。
現在は竪穴住居や高床倉庫など二十七棟の建物が復元されている。
「 国立吉野ヶ里歴史公園の中には城郭であった弥生時代、 墳墓としての古墳時代を経て、今日までの地層が残っていて、発掘は今も続けられている。 」
発掘調査の結果をベースにした展示物は古代のロマンを十分に感じさせるもので、
すばらしい思い出が得られた。
吉野ヶ里へはJR長崎本線吉野ヶ里公園駅・神埼駅から徒歩約15分
日本100名城の吉野ヶ里のスタンプは吉野ヶ里公園東口にて
(ご参考) 吉野ヶ里の歴史
「
弥生時代前期(紀元前5〜前2世紀)に吉野ヶ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が発生する。
やがて南側の一部には環濠を持った集落が出現し、「ムラ」から「クニ」の中心集落へと発展する兆しが見える。
弥生時代中期(紀元前2世紀〜紀元1世紀)になると、丘陵の南側を一周する大きな外環濠が掘られ、首長を葬る墳丘墓や
たくさんの甕棺墓列が造られた。 集落の発展と共に、その防御も厳重になっていき、争いが激しくなってきたことを
うかがわせる。
弥生時代後期(紀元1〜3世紀)に入ると、国内最大級の環濠集落に発展し、大規模なV字形の外環濠によって囲まれ、
さらに特別な空間である二つの内郭(北内郭、南内郭)をもつようになります。
これらの内郭には、祭殿や物見櫓などの大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期であった。
前述したように、古墳時代になると住民は吉野ヶ里の地を離れて他の地に移転してしまい、
吉野ヶ里の歴史は終わる。 」