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佐賀駅バスセンターから佐賀城跡線に乗り、終点で下車すると、
目の前に佐賀城の「鯱の門」がある。
鯱の門は本丸の門として、天保九年(1838)六月に完成。
明治七年(1874)の江藤新平を中心とした佐賀の乱で、
城の大半の建造物を失ったが、
鯱の門は残り、その時の弾痕が残っていて、戦闘の激しさをしのばせる。
説明板「鯱の門」
「 門の構造は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓を組み合わせたもので、
屋根は本瓦葺き、入母屋造、
本棟の南北に佐賀城御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱が置かれ、
鍋島氏36万石にふさわしい規模格式を有している。 」
鯱の門に続いて続櫓があり、これも天保九年(1838)に竣工されたもので、
国の重要文化財である。
かってはこのあたりは水堀で囲まれていたと思われたが平地になっていた。
鯱の門の右手の小高い見晴らしがよいところに「天守台跡」の空地があった。
佐賀城の構造は輪郭梯郭複合式平城で、小倉城天守の図面を参考として、
慶長十四年(1609)に五層の破風のない実戦向きの天守閣を完成させたが、
享保十一年(1726)、四代藩主吉茂のとき、本丸、二の丸、三の丸、天守閣が焼失した。
その後、その他の建物は再建されたが、天守閣は再建されないままだった。
説明板「天守台」
「 本丸からは天守台には上がれず、二の丸の西から本丸石累、
北の犬走りを通って入るようになっていた。
平成二十四年(2012)より大規模な天守台の発掘調査及び、文献調査が行われている。
これにより、外観は四層屋根ながら、内部は上から上段(5階)、下段(4階)、
二段(3階)、三段(2階)、其外(1階)の五階建てとなっていて、
最上層が上下二階建てとなっているのが特徴。
一階は礎石の配置状況から後期天守閣としては珍しい書院造りであったと、
推定されている。 」
平成十六年(2004)、本丸跡地に天保九年竣工の本丸御殿を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館が完成した。
「 佐賀城の大火後の享保十三年(1726)、御殿などが二の丸に完成し、
藩政は二の丸で行われたが、天保六年(1835)、
この二の丸が焼失。 これにより本丸を再建することになり、
本丸御殿は天保九年(1838)に完成し、幕末まで本丸御殿で政務が行われた。 」
佐賀は江戸時代には小倉から長崎に通じる長崎街道の宿場町であり、
藩主は長崎奉行を福岡藩主と交代で務めたので、
財政は厳しかったようである。
本丸歴史館の入口にはアームストロング砲のレプリカが置かれていたが、
佐賀藩は幕末の戦いで6ポンド、9ポンドなど、各種の砲を所持していた。
館内にも洋式銃などが展示されていて、幕末の世相を感じることができた。
「 本丸御殿は御玄関そして御式台があり、
御式台では来客の応接間や色々な行事に使われた部屋である。
その左手は御料理間で、家臣や藩外の人達との対面や食事の場所に利用された。
御式台の先は奥に細長い長方形の外御書院で、一之間、二之間、三之間、四之間に廊下を合わせると三百二十畳の大広間になっていた。
その奥にあるのが御三家座で、小城家、蓮池家、鹿島家の御三家の部屋である。
一之間から左に張り出していて、屯の間(たまりのま)は家臣の控えの間である。
そこから渡り廊下で繋がるのが藩主の住む空間で、右側に御小書院(御三家との面談や側近たちとの会議が行われた)、左手に御座の間と堪忍所がある。
本丸御殿の一番奥にある御座の間は十代藩主鍋島直正が使用していた居室で、
水ヶ江大木公園に南水会館として移築されていたものを本丸御殿復元にあたり、ここに移築したものである。
佐賀城へはJR長崎本線佐賀駅から佐賀市営バス「佐賀城跡行き」で佐賀城跡下車、すぐ
日本100名城の佐賀城のスタンプは佐賀城本丸歴史館の受付に置かれている。