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その先は展望が開けて、「大手口」の看板の先には大きな池があり、 池の周囲には植栽があった。
「 名護屋は、 波戸岬に向って海岸線沿いに細長く広がる小さな湾内に位置し、 中世には朝鮮などと交易した松浦党の交易拠点の一つで、 松浦党の波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったところである。 豊臣秀吉は大陸に近いこと、名古屋と似た地名であったことから、 大陸進出の前線基地に選んだ。 波戸岬の丘陵の上に名護屋城が築城された他、 港を中心に周囲三キロ内に確認されたたげで、百三十もの陣屋が置かれた。 その中で大きな陣地だったのは、 豊臣秀保、鍋島直茂、堀秀治、毛利輝元、前田利家、徳川家康である。 最盛期には十万人を超えるほどの人が集まったとされるが、 そのため飲料水の確保で藩相互に争いもおきたという。 」
池の右を回るような道があり、 その道を登ると右側は城壁があったことを示す崩れかかった石垣がある。
その先に 「 ← 搦手口 二の丸馬場→ ↑弾正丸 」 の道標があり、 その近くの地面に、「名護屋城跡 搦手口(からめてくち)」 の説明板があった。
説明板「名護屋城跡 搦手口」
搦手口(からめてくち)の概要
「 前方の斜面は搦手口と呼ばれる、城の五つある虎口(城の出入口) のひとつです。
搦手とは城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉です。
城の守りを固めるために通路を屈折させた、典型的喰い違い虎口の形状をしており、
櫓台下側では瓦敷排水溝跡がみつかりました。
現在は、ここ弾正丸東側とともに、
平成3年度と4年度(1991〜1992)に、石垣の緊急修理を実施し、
あわせて仮園路を設置しました。 」
弾正曲輪は、長さ九十五間、横四十五間である。
その先の石垣の下に、「本丸南西隅石垣」 と書かれた説明板がある。
説明板「本丸南西隅石垣」
「
平成8年に解体修理した前面の石垣は、復元すると10m以上の高さになります。
石垣の途中に横長で薄い石材を用いる特徴がありますが、
この石材の大部分が割れたために、石垣崩壊が進んだと考えられます。
石垣の解体時調査の結果、崩壊は石垣最下部まで達しており、
残った石垣を安定させるために、前面に転落していた石垣を用いて、
積み直しを行いました。
また、この部分は自然崩壊だけでなく、人為的に破壊したと推定されるため、
修理した石垣の前面に覆土を行い、
破壊当時の状況をそのまま復元することとしました。
なお、崩れた石垣の中から、江戸時代の銭が出土し、
破壊時期を推定する資料の発見がありました。 」
「 前方の斜面は搦手口と呼ばれる、 城の五つある虎口(出入口)の一つである。 搦手(からめて)は城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉である。 城の守りを固めるために通路を屈折させた喰違虎口である。 」
弾正曲輪は長さ九十五間、横四十五間又三十間である。
その先の石垣の下に「本丸南西隅石垣」と書かれた説明板がある。
「 平成8年に解体修理した石垣の途中に横長で薄い石材を用いる特徴があるが、 この石材の大部分が割れていたため、石垣崩壊が進んだと推定する。 この石垣は自然崩壊だけでなく、人為的に破壊されたと推定されるため、 修理した石垣の前面に覆土を行い、破壊時のままに復原した。 」
二ノ丸は、東西四十五間、南北五十九間。
二の丸跡に行くと、区画表示した場所があり、「二の丸長屋建物跡」の説明板があった。
「 ここは発掘調査で名護屋城時代と思われる掘立柱建物が三棟発見されたところである。 二棟は幅約五メートル、長さ二十メートルの東西に細長い長屋状の建物。 その西側に幅約三メートル、長さ約六メートルの小型の建物跡が発見されたが、 掘立柱の簡素な建物から築城時の仮設的な建物だった可能性が指摘される。 」
その先、左右と奥が土塁で囲まれた土地があったが、 東西二十六間、南北二十四間の遊撃曲輪があったところである。
説明板「遊撃丸」
「 遊撃丸は文禄二年(1593)に明国の講和使節(遊撃将軍)が滞在し、
もてなしを受けた曲輪といわれている。
発掘調査で、門礎石、石段、玉砂利の他、
船手門や天守台北側から金箔瓦が出土した。
遊撃丸や天守台の石垣は自然石を半分に割り、
割った面を表面に見せる”打ちこみはぎ”の石積がされていた。 」
肥前名護屋城屏風絵を見ると、天守台の下に突き出ているのが、遊撃丸である。
二の丸馬場に向うと、石段のある見張台のような場所がある。 馬場櫓台である。
説明板「馬場櫓台」
「 この櫓台は本城の櫓配置の中でも特異な例であり、
なぜか馬場の通路の途中に設けられています。 平成7年度に解体修理を実施しましたが、石材として、鏡石状の大石だけに野面石、その他には割石を用いている点や、
割石の裏側に石割りの失敗や作業を中止した痕跡を残す点に、
他と異なる特徴があります。
また、櫓台内部をすべて栗石で造り上げていることも判明していますが、
その中には大型石材の混入も複数ありました。
石段は櫓台の前後(外・内側)にそれぞれ造られており、
一部を除いて旧状に復元しています。 また、櫓台西方の石垣上部と馬場通路面には、
10cm程度の海岸産玉砂利が敷きつめられていました。
しかし、この周辺に門等の建物を示す痕跡は発見できませんでした。 」
馬場は本丸の南側にあり、本丸との高低差は十二メートル、
築城の時の高石垣が残っている。
斜面に 「馬 場」 の説明板があった。
馬場の概要
「 本丸の南側にあたり、本丸との比高差は12mあり、
築城時の高石垣が良く残っています。
長さは10m、幅は15mと細長く、また、ここで乗馬の訓練をしたとも伝えられ、
二の丸から三の丸に至る重要な重要な通路と考えられます。
南側の石垣は、櫓に通じる石段も残り、築城時の様子と崩壊した状況を同時に、
観察することができます。 しかし、樹木の繁茂や築城400年経過し、
一部石垣が崩壊する危険性が高まったので、平成3年度(1991) に、
緊急修理を実施しました。 石垣の上部は解体修理、
下部については石垣の基礎部分を補強しました。 」
南側の石垣には櫓に通じる石段も残っている。
馬場の先は、「三の丸」があった場所で、「三ノ丸」の説明板がある。
説明板「三ノ丸」
三ノ丸の概況
「 本丸より一段低いところに位置する東西34間(68m)、南北62間(124m)の曲輪です。 現況では玉砂利敷や礎石と考えられる石が認められます。
また、城内の高台では唯一井戸跡が残っています。
肥前名護屋状図屏風には、殿舎や公家風の人物が描かれ、
当時の三ノ丸の様子が窺えます。
大手口から』本丸に通じる重要な曲輪で、
本丸周辺を警固する時に詰めていた場所と考えられます。
平成3年度(1991)に砕石を補充し、仮園路の整備を実施しました。 」
「肥前名護屋状図屏風(部分)」 のタイルを見ると、
三ノ丸手前の左側に 「北東櫓台」 があり、門を出ると 「東出丸」 、
道を下ると大手口に通じていた。
また、公家の右手に武士がいるが、
その上(北西部)に、本丸に向う道があったようである。
三の丸跡は、今は広い土地のままだが、 南東部に段差のある場所があったので近づくと、 「三の丸南東隅櫓台」の説明板がある。
「 ここでは、発掘調査によって、 櫓台に伴う新旧二つの石段を発見しています。 南側の石段 (新石段) は調査前から見えていたものですが、 北側の石段 (旧石段) は、ほぼ埋められていたものです。 このうち、旧石段は登り口が現在の地面より1.2mも低いことから、 両方の石段が同時期に存在していたのではなく、 新旧の関係にあることがわかります。 また、新石段は櫓台の中央にありますが、旧石段は櫓台から北に外れており、 さらに登り上ったところが狭く、歩きにくいことなどから、 石段として実際に使用された可能性は低いようです。 そのことから、名護屋状を築城した後に再び改造したというよりも、 櫓台を最初に構築していた途中で何らかの設計変更が行われ、 石段が付け替えられたものと考えられます。 名護屋城内には、このような改造の跡が各所で発見されているが、 その理由としては、「割普請」によって城造りを各大名に分担して行われたことや、 出兵に合わせ、築城を急いだことなどが推定されます。 ここでは、名護屋城の特色である、大規模な改修の様子を実感できるように、 旧石段を掘り下げて整備し、改造前と改造後の地面の高さの違いを表現しています。 」
石組が安定しない石段を上ると、
「 ←三の丸大手口 天守台水手口→ 」 の道標と
「 ←旧石垣新石垣櫓台 」 の道標があるところにでたが、ここが本丸である。
かなり広い土地で、一部樹木が生えているが、大部分は空地になっている。
空地の一角に、 「 名護屋城本丸跡 」 と書かれた苔むした石柱が建っていた。
「 名護屋城は文禄の役と慶長の役の前線基地であったが、
最盛期んは十万人もの人が集まり、城下町は繁昌したという。
豊臣秀吉は二年半程滞在したといわれるので、
この本丸から指図をしていたのだろうか?
秀吉の死後、大陸進攻が中止され、
徳川家康の指示で、名護屋城は破壊され、
その廃材は寺沢広高により唐津城の建設に使用されたといわれる。 」
「 ←旧石垣新石垣櫓台 」 の道標に従って進むと、
「明らかになりつつある秀吉の御殿の様子」 の説明板と復元想定図があり、
その奥に 「 名護屋城址 」 と書かれた大きな石碑が建ている。
石碑の周囲には玉石敷きと芝生敷きで区分されているエリアがある。
説明板「明らかになりつつある秀吉の御殿の様子」
「 発掘調査により、本丸大手の石段、門跡、埋めこまれた旧石垣、
全長56mに及ぶ長大な多聞櫓などが発見された。
さらに、本丸中央部の南寄りの範囲から、
本丸御殿の一部とみられる約三百畳の大型建物が発見された。
また、本丸中央部の北寄り(名護屋城址碑の北側)から当時の礎石や玉石敷が発見され、
東西の方向にも複数の建物跡が見つかった。
これらは廊下や縁で接続され、全体で御殿を構成していたと思われる。 」
発掘跡は建物部分は芝生、玉石敷きには玉石を載せて、当時の様子を再現していた。
「 本丸新石垣櫓台 」 という説明板があった。
説明板「本丸新石垣櫓台」
「 ここでは、本丸の拡張に伴って新たに造られた櫓の跡を発見しました。
この並んだ土台石の上に材木を横に置き、
さらにその横木に柱を立てて建物を組み立てていたようです。
馬場側の新石垣がは破却のために壊されていますが、
建物の大きさは東西・南北ともに、約6m(3間)と考えられます。
また、櫓の周囲の道路部分には、玉石も敷かれていました。
現在は、当時の玉石を保護するために梅戻し、
その上に復元した状態で整備を行っています。 」
名護屋城跡本丸御殿復元想定図によると、
本丸御殿は中央部でかなりの規模である。
また、右上部に本丸北門、 下部に本丸大手門、 左上部に天守、
中央部〜下部に多聞櫓があったことが分かる。
名護屋城本丸について設計図のようなものは残っておらず、 「名護屋城図屏風」 だけが往時の姿を伝えている。
「 本丸は大手門、北門などの門、五ヶ所の櫓の他、
本丸御殿に関連する建物は十三棟描かれている。
大半の屋根は檜皮葺きで、書院造風の風格の高い建造物となっている。
本丸の西側と南側はある時期に築城時の石垣を埋めて、新しい石垣を築き、
大規模な拡張を行っている。 」
本丸の西側に造られたのは多聞櫓と南西隅櫓である。
ここには、長大な多聞櫓が建っていたことが示されている。
説明板「本丸多聞櫓跡」
「 本丸の西側と南側は、ある時期に築城時の石垣(新石垣)をそのまま埋め込んで、
新しい石垣(新石垣)を築き、大規模な拡張を行っていたことが明らかとなっています。
その本丸西側には、新たに多聞櫓とそれに続く南西隅櫓が建てられました。
多聞櫓とは長屋状に造られた櫓で、主に武器や食料の倉庫として使われました。
ここでは当時の礎石がほぼ1m間隔(6尺5寸を1間とした場合の半間)で、
南北に長く並んでいる様子が発見されています。
この礎石列は櫓の折方向の柱を支える土台石で、本丸側の外壁にあたります。
石垣の破却によって壊された部分を復元すると、
全長約55m、幅は約8mの規模をもつ、長大な建物であったことがわかります。
また、櫓の周囲からは、廃城に伴う建物の解体の際に廃棄した大量の瓦片が
発見されました。 特に、南西隅櫓周辺では礎石を盛土で覆っている状況も確認され、
櫓の破却の様子についても貴重な資料を得ることができました。 」
多聞櫓の左手には、「本丸南西隅櫓跡」の 説明板がある。
ここには、南西隅櫓が建っていたようで、
発掘された状態が分かるように表示されていた。
説明板「本丸南西隅櫓跡」
「 ここは本丸の南西隅にあたり、隅櫓の礎石が発見されています。
隅櫓は曲輪の隅部に配置された建物で、
天守閣と同様に物置としての役目を持っていました。
発掘調査では、櫓の北塁と東塁にあたる礎石列の一部が確認されており、
全体の規模は南北約10m、東西約10mの広さで、二階建ての建物と想像されます。
また、この建物の南東部では、隅櫓に付属する付櫓と思われる礎石列も発見されています。 」
名護屋城は、江戸時代の島原の乱の後に、一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で、
石垣は破却された。
本丸北西隅に望楼型五重七階の天守が築かれたが、
現在は 「名護屋城天守跡」 の石碑が建っていて、
その先には名護屋城に集まった全国の大名の陣屋や示す俯瞰図があった。
ここから大陸に向って船が進んだろうと想像できる雄大なパロラマが広がっていた。
これで名護屋城の探訪は終了である。
帰りは、期間限定で、名護屋城から唐津駅直行のバスを利用した。
このバスは、バス停前の道の駅にある 「観光案内所」 で、
乗車券を購入しなければならない。
また、乗車もバス停からでなく、道の駅の隣の駐車場からである。
唐津駅から福岡空港まではバスがあるが、当日は悪天だったので、
JR筑肥線を利用し、途中で地下鉄に乗り換え、空港まで行き、帰京した。
名護屋城へは、JR筑肥線唐津駅から昭和バス唐津大手口発「名護屋城博物館」行きで、約40分、
名護屋城博物館入口で下車、徒歩約5分
名護屋城のスタンプは名古屋城博物館に設置されている。