mrmaxの城めぐり 長崎県1 (平戸城)


平戸城は松浦鎮信が築き、徳川家康を恐れて焼捨てた日之嶽城跡に、 元禄時代に松浦棟が築いた城である。
日本100名城の第90番に選出されている。 
 


かうんたぁ。




平戸城

令和元年(2019)九月二十六日、長崎市大浦でレンタカーを借り、八時三十分に出発し、高速道路を利用して北上し、武雄JCTから佐世保みなとに出て、平戸大橋を経て、 平戸城駐車場に到着したのは十時五十五分であった。 

平戸城は江戸時代中期に江戸幕府から築城が裁可された異例の城である。
一国一城令が出て、多くの城が廃却された後の十八世紀前半に築城出来たのは、徳川家と姻戚関係にあったことと、東シナ海警備の必要性によるものといわれる。 

「 慶長四年(1599)、松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は、 三方を平戸瀬戸に囲まれた亀岡山に日之嶽城を築いたが、幕府による改易を恐れて、 慶長十八年(1613)、城を焼き捨てた。 以後、城は築かれなかったが、 元禄十六年(1703)、平戸藩五代藩主・松浦棟(まつうらたかし)が、 寺社奉行に抜擢されたのを機に、新規築城を幕府に願い出て許され、 「日之嶽城跡」に日之嶽城の石垣を利用して、 宝永元年(1704)から享保三年(1718)の十四年間、総銀千百八十貫余、 総人数五十一万人余という大事業の末に完成したのが平戸城である。  宝永四年(1707)には二の丸に御殿を建て、御館から藩主以下、藩庁が移され、 平戸藩の中心となった。 
平戸瀬戸に望む高台の山上部に、本丸、二の丸、海岸に面した山麓部分には、 海城ならではの船着場である小舟入、御舟入などが設けられた。 」

平戸城の櫓数は7、櫓門は4、塀の総長は1548.5間であった。 
明治四年(1871)の廃藩置県により廃城となり、山上部の建物は現存する北虎口門、 狸櫓(たぬきやぐら)を残して壊された。 
城跡は亀山公園になっている。

亀山公園案内図
亀山公園案内図



車を駐車したのは7Pで、その上には護国神社と市営相撲場があった。 
市営相撲場の隣には懐柔櫓が建っていた。 
この一帯は本丸より一段低い三の丸跡で、懐柔櫓は昭和三十七年(1962)に模擬復元されたものである。 
護国神社の前は東櫓と安寿門があった場所で、 そこから下を見るとしっかりした石垣が築かれていた。 

懐柔櫓
     護国神社      三の丸石垣
懐柔櫓護国神社三の丸石垣



そこを出ると「平戸城三ノ郭跡」の道標が建っていた。 
細い道の右側に亀岡神社があるが、神社が鎮座するのは二の丸跡である。  
拝殿は本殿の下、 「阿翁石」と呼ばれる松浦市鷹島産の粗粒玄武岩で作られた基壇の上に 建っている。

「 明治十三年(1880)、平戸城内にあった霊椿神社が老朽化したため、 七郎神社、乙宮神社、八幡神社の三社と合祀して、亀岡神社が建てられた。
境内北側端中央の高い石垣の上に本殿があり、その下に拝殿、 その間に幣殿と登廊がある構造である。 
本殿入口は桁側から入る平入で、正面中央に階段があり、 左右に神像を安置する独特の形式で、瓦には平戸松浦家の家紋、 三ッ星が入れられている。 」

神社の左手には「 酔いどれも 踊りつかれて ぬくい雨 山頭火 」の句碑があ る。

句文の下に 
「 日本は世界の公園である。 平戸は日本の公園である。 」  (山頭火行乞日記より) 
漂泊の俳人種田山頭火は昭和七年三月三十一日に平戸を訪れ、島の美しさと人の温かさに感激し、一時落着き先にと考えたほどであった。 
という記載があった。

細い道をそのまま進むと二の丸に建てられている乾櫓に突き当たる。 

「 乾櫓は天守の代用とされた三重三層の櫓で、 乾櫓の脇には脇虎口という非常用の隠し門が設置されていた、という。  現在の建物は昭和三十七年(1962)に模擬復元されたものである。 」

亀岡神社拝殿
     山頭火句碑      乾櫓
亀岡神社拝殿山頭火句碑乾櫓



右折して社務所の先を左折するとあるのが北虎口門で、入口に入城券売場(510円)がある。

「 北虎口門は本丸北下に位置し、宝永四年(1707)に完成した門で、 二の丸の搦手を守る門であるが、 山鹿流法で縄張された際、隣接する地蔵櫓と共に北側に移動したといわれる。  石垣と石垣の間に門を渡す櫓渡し門の様式で、その名の通り 攻防の拠点となる虎口であり、改変されている部分が多いが、 現存建物としては貴重なものである。 」

門に入ると、左側にあるのは地蔵坂櫓であるが、 これも昭和三十七年(1962)に復元されたものである。 
ここからは小舟入、御舟入があった港が一望できた。 

「 江戸時代はこちらが大手道で、 船着き場の小舟入、御舟入から地蔵坂を上り、地蔵坂櫓に至り、 門をくぐり、二の丸や本丸へに行った。 」

北虎口門
     地蔵坂櫓      港眺望
北虎口門地蔵坂櫓港眺望



塀の外側が外郭と海で、ここが平戸城にとって弱点だったので、 北虎口門から本丸に上がる階段には上下二段に設けられた二重の狭間が配されていた。 現在は上の白塀部分の狭間が失われている。 
門の先にある狸櫓は明治四年(1871)の廃藩置県により廃城の際残された数少ない建物である。

「 櫓の床下に狸が住みだした。 天保初年(1830)、櫓の修理のため、 床板を全てはぎとると、ある夜、小姓に化けた狸あ藩主の寝所にやってきて、 我ら一族を櫓に住ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護するという。  これ以後、狸櫓と呼ばれるようになった。 」 という話が残っているという。 

石段を上った先には本丸門があるが、 これも昭和三十七年(1962)に復元されたものである。 

白塀
     狸櫓      本丸門
現在の白塀部分狸櫓本丸門



門をくぐると左右が石垣、正面が石段で、上部から攻撃できるようになっている。 
本丸、二の丸をはじめ、外郭ラインの至るところに山鹿流軍学による折れや屈折が施されている。 
石段を上ると現れたのは天守である。 

「 本丸北東隅に建つ天守は、層塔型、三重五階、 鉄筋コンクリート造りで、本来はなかったが、 昭和三十七年(1962)に城のシンボルとして築造されたものである。 」

本丸門の左部にあるのは沖見櫓である。 
これも昭和三十七年(1962)に復元されたものである。 

本丸虎口
     模擬天守      沖見櫓
本丸虎口石垣模擬天守沖見櫓



天守からは懐柔櫓が下に見え、平戸港の先の平戸瀬戸からのもやで少しかすんでいるが、平戸大橋が見えた。 
天守閣の南に一段下がったところにある見奏櫓は昭和三十七年(1962)に模擬復元されたものである。 
以上で平戸城の見学が終えたので、海岸を走ると白亜の建物が見えてきた。 
これは平戸オランダ商館を復元したものである。 

「 慶長十四年(1609)に、江戸幕府から貿易を許された東インド会社が、 平戸城主、松浦隆信により平戸に設けた貿易拠点である。  三代将軍、徳川家光による禁教令により、1640年に全ての建物が壊され 、翌年の1641年に商館は長崎出島に移転し、その跡は平戸の町人地となり、 御船手屋敷が建ち並んでいる。 
平戸藩初代藩主、鎮信は日之嶽城を廃城にした後、 平戸オランダ商館の北西の山腹に中の館と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁とした。 跡地は松浦史料博物館になっている。 」

眼下の景色
     見奏櫓      平戸オランダ商館
眼下には懐柔櫓そして平戸大橋見奏櫓平戸オランダ商館



その上部に平戸ザビエル記念聖堂(カトリック平戸教会)がある。 

「 ザビエルは三度にわたり、平戸を訪れて布教した。  ザビエル以降はイエスズ会宣教師によって、 平戸島、生口島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、 江戸時代の禁教令の下でも隠れキリシタンとして信仰を続けた。 」

カトリック平戸教会は大正二年(1913)に仮聖堂が建てられ、 昭和六年(1931)に鉄筋コンクリート造りで作られたゴジック建築の教会である。

「 正面に大塔、左側に小塔を配し、 空に向って垂直性を強調した外観が印象的である。 
窓や扉の尖りアーチ、大塔の周囲に林立する尖塔、側面の フライイングバットレス(控柱)などにゴジック建物の要素を見ることができる。 」

聖フランシスコザビエル記念像が建っていた。 

「 かれはバリー大學在学中に母の教えから、 大学教授の地位や一切の名誉から離れ、同志とともに修道会(イエズス会)を創立し、 インド各地の伝道の後、1549年に鹿児島に上陸して、 日本で初めてキリスト教とヨーロッパの文化を伝えた 。 翌年、平戸に來島、藩主松浦隆信お歓迎を受け、布教活動を行った。 」

平戸大橋を渡り、平戸を別れ、佐世保の港に面する店で、 佐世保ハンバーガーを食べた。 
ボリュームはあったが、野菜が多いためヘルシーで、さっぱりしていて、 おいしかった。 
これで平戸城の旅は終了である。 

カトリック平戸教会
     ザビエル記念像      佐世保バーガー
平戸ザビエル記念聖堂ザビエル像佐世保バーガー



平戸城へは松浦鉄道たびら平戸口駅から西肥バス平戸行きで約10分、 平戸市役所前で下車、徒歩約5分  
平戸城のスタンプは天守閣入口にある。 




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