mrmaxの城めぐり 長崎県2 (島原城)


島原城は九州外様大名への押さえに築かれた巨大天守の城である。
日本100名城の第91番に選出されている。 



かうんたぁ。




島原城

令和元年(2019)九月二十七日、長崎市大浦でレンタカーを借り、八時三十分に出発し、長崎多良見ICから有料道路を利用して諫早ICまで行き、その後国道、県道を走り、 島原城駐料徴収所に着いたのは十時だった。 

説明板「島原城由来」
「 この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて、 佐賀龍造寺隆信軍を撃破したところです。  この瑞祥の地に五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。  一六一八年(元和四年) 着工、四〜七年の歳月を経て、完成。  同時に島原城下町も整備したといいます。 
破風をもたない層塔型総塗込めの五層の天守閣を据える本丸、 北へ二の丸、三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、 外部は四キロにわたり矢狭間を持つ練塀で取り囲みました。 
四万石の大名には過分な城です。 ここに、 有馬氏時代からの海外貿易の利益と、 松倉氏の新興大名としても意気込が見られます。 
以来、松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と、 四代十九氏の居城として輝きました。  その間、一六三七年(寛永十四年) 島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、 一七九二年(寛政四年) 島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。 
明治維新で廃城になり、払い下げ・解体されましたが、 島原市民の夢である御城復元への取り組みが長年続きました。  一九六四年(昭和三十九年) 天守閣が復元するなど、 次第に昔の姿を取り戻しつつあります。 」

本丸に入る土橋の先には本丸石垣があり、 その先には復元された西三重櫓が建っている。 
本丸はほぼ長方形で、周りを内掘(水堀)で囲まれていた。 

「 内掘には1950年代まで農家が栽培していたレンコン だ根付いていて、秋にはレンコン掘り大会が催される、とあった。 」

本丸石垣は高く頑丈な石垣が特徴である。 

土橋と西三重櫓
     土橋      本丸石垣
土橋 (奥) 西三重櫓内掘(水堀)本丸石垣




レンタカーは本丸に入る門があったと思われる石垣の間を通り抜け、 本丸に入ると目の前に天守閣が現れた。 
車は天守の右手にある駐車場に止めた。 

「 松倉重政(まつくらしげまさ)は、元和二年(1616)、 有馬直純が日向延岡に転封になった後を受け、有馬氏の居城、日野江城に入ったが、 手狭なので元和四年(1618)に島原城の築城を開始した。 
島原城は 南から北に本丸、二の丸、三の丸が並ぶ連郭式の縄張であった。 
五重五階の天守を中心に、三基の三重櫓が建ち、平櫓は三十三基あった。  本丸(南)と二の丸(北)を廊下橋門が結ぶ縄張は比較的単純なものだった。 
しかし、普請工事は、火山灰や溶岩流からなる地盤での工事のため、困難を極めた。  二代藩主・松倉勝元は築城のための課役、キリシタンの弾圧、 過酷な年貢などが要因となって、 天草、島原の乱が起きたと幕府に判断され、その責任をとらされて改易された。 
その後、譜代大名の居城となり、明治維新を迎えたが、 明治維新後民間に払い下げられ、建物は破壊さrた。 」

本丸にあった天守は、破風をもたない独立式層塔型五重五階 (初重の屋根を庇として四重五階とも)天守で、 最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲んだため、唐造りのようになっていた。 

「 現在の天守は昭和三十九年(1964)にコンクリート製で再建されたもので、キリシタン史料館になっている。 
天守の受付に日本100名城のスタンプがあるので、そこでスタンプをゲットした。 」

本丸の南西隅にある三層櫓は西三重櫓で、 昭和三十三年(1960)に再建されたものである。 
天守の左手には吉野梅苑があり、その中に祠があった。

祠脇の説明板
「 松倉重政公と築城工事中に死亡した人々を祀った祠で、 正面の扁額は松平家第十代松平忠精公が奉納されたもの。 」

天守
     西三重櫓      祠
天守閣西三重櫓吉野梅苑の祠



本丸の北東隅にあるのは復元された巽三重櫓で、内部は民具資料館になっている。 
その反対側の南東隅に行くと、復元された丑寅三重櫓があり、西望記念館になっている。 
両櫓の中央部には移転してきた、景華園遺跡の「支石墓掌石」があった。 

説明板
「  景花(華)園は、中野町一帯の海岸段丘上にある弥生時代から鎌倉時代までの住宅跡、 墓城跡だったところで、元禄十二年(1699)藩主松平忠雄が別邸を建て、 景花園と名付けたことによる。  掌石の重量は十八・四トンである。 」

天守の裏側の庭には多くのブロンズ像が展示されていた。 

巽三重櫓
     丑寅三重櫓      支石墓掌石
巽三重櫓丑寅三重櫓支石墓掌石



北側の二の丸とは廊下橋でつながっていた、といい、 天守の奥に進むと、左手の下には松林があり、 堀の先には二の丸の石垣がちらっと見え、その先 に島原文化会館が建っていた。 
二の丸跡へは行かず、 本丸から下に降りてきて、堀の外を武家屋敷に向って歩く。 
本丸の左隅にあるのは観光復興記念館で、 その左に飛び出している石垣は二の丸の石垣である。 

「 江戸時代の本丸と二の丸は水堀で隔てられ、 廊下橋で繋がっていたが、今は埋め立てられて、ゲートボール場になっている。  また、二の丸には藩主館兼藩邸があったが、 今は島原文化会館と森岳公民館と駐車場になっている。 」

二の丸の北側が三の丸で、城の北西に家臣団屋敷(武家屋敷)街がある。 
島原商業高校の先に石垣で囲まれた家があり、 その前に「吉田松陰来訪の地」という説明板が立っている。

説明板「吉田松陰来訪の地」
「 ここは島原藩士、宮川度右衛門の屋敷跡です。  この一帯は鉄砲町の一角にあたり、 幕末の島原藩士屋敷図にも、ここが宮川邸であったことが記されています。  幕末期の当主、宮川度右衛門守興(1794-1859)は種子島流荻野派の砲術師範として、 多くの弟子を育てました。 嘉永三年(1850)十二月四日、長州藩士、 吉田松陰(1830-1859)が兵学研鑽の旅の途中にここを訪れております。  松陰はこの旅について記録した西遊日記の中に「宮川云、直発砲ニ非サレハ 功ヲ成スコトナシ、故ニ近頃葛論砲ヲ造ル(宮川が言うには直発破でなければ功を成すことは無い。 そのため、近頃はカノン砲を造る。) とその日、守興から聞いたことを書き残しています。 」 

その先の小路には湧水が流れ、約二百メートルの家臣団屋敷(武家屋敷)があった通りがある。 
その通りを進むと右側に島田邸がある。

説明板「島田邸」
「 島田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封に伴い、 三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文九年(1669)ここ島原に入った。  歴代地方代官、郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で、 七石二人ぶちを受け、材木奉行、宗門方加役、船津往来番などの重職についた。 
このあたり一帯は中、下級武士の屋敷で、 一戸当たりの敷地は三畝(90坪)ずつに区切られ、 家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。  道路の中央に流れる清流は往時の生活用水路である。 」

この通りを見学し、島原城の見学は終えた。 

二の丸石垣
     宮川度右衛門屋敷跡      嶋田邸
(左)二の丸石垣(右上)観光復興記念館宮川度右衛門屋敷跡嶋田邸



島原城へは島原鉄道島原駅から徒歩約5分  
島原城のスタンプは島原城天守入口にて 




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