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空堀跡 | 「本丸」道標と説明板 | 本丸入口 |
下図は本丸図で、下が北、上が南である。
本丸は原城で唯一石垣で囲まれ、約八千uと広大で、ピストルのような形をし、
数段の曲輪からなり、下から上に上がっていくような縄張で、上段は長方形で一番大きかった。
本丸の守りを固めるため、本丸の左側は一面蓮池で覆われ、本丸の正面には空掘を造り、本丸北西側には枡形が連続する複雑で巨大な出入口(虎口)が設けられていた。
本丸図の右下にある本丸正門跡の正面に左に続く石垣があった。
説明板「石垣」
「 原城跡では本丸にのみ石垣が確認され、
ほかの曲輪は石垣を伴わない土造りとなっています。
原城は17世紀初頭に築かれた近世の城郭ですが、
中世城郭の名残りが見られる点も大きな特徴です。
原城本丸の石垣はゆるやかな勾配で、直線的に積み上げられています。
石垣の目地を横方向に通そうとする意図が見らますが、
石材が規格的でないため、必ずしも徹底はしていません。
石垣に積まれる大きな石材(築石)には、粗割石や自然石が用いられ、
割面や、自然石の比較的平坦面が石垣の表面となるよう積まれています。 こうした積み方は近世初頭の城郭石垣の特徴をよく示しています。 」
本丸図を見ると、本丸虎口(入口)は本丸石垣と反対にある外側の石垣の間に正門を 設け、その先は左枡形、その先には埋門があるという構造であることが分かる。
「 平成十二年(2000)の調査で、上記の虎口遺構が確認された。 国内最大級となる虎口は南北九十メートル、東西八十メートルのほぼ正方形で、 全国的に見ても最大級の虎口となる。 また、城内の主通路には玉砂利が敷かれていることも確認された、とある。 」
「本丸」道標の先、右側に門柱部になっていたと思える石垣があり、 左の本丸石垣との間はかなり広い。 中央部には門の礎石と思えるものもあった。 その先に八段程の石段がある。 ここが本丸正門跡である。
説明板「本丸門跡」
「 原城本丸へと繋がる最後の門です。
入口の空間に入ると建物の礎石が並んでおり、楼門が建てられていたと考えられます。 楼門を抜けると、その階段が設けられており、城内に続いています。
他の門跡と同様に一揆後に破壊され、礎石の一部がなくなっており、
階段の踏石はわずかしか残っていません。 」
平成十六年度の発掘調査
「 本丸正門跡では八基の巨大な礎石や水路、階段が発見された。
礎石はその配列からも門の礎石であることが確認された。
また、門跡は一揆直後に破壊された大量の石垣石材により埋め尽くされていた。
正門跡の調査では瓦、陶磁器、人骨も大量に出土した。 」
石段を上ると「埋門跡」の説明文があり、 その左側に石垣の裏粟石がかき込まれた状態で再現されていた。
説明板「埋門跡」
「 原城に入って中程に位置する2つ目の門跡です。
文字史料には「埋門(うずめもん)」と記されています。 一揆の後、幕府軍によって壊され、埋め立てられていましたが、
発掘調査で土砂や壊された石垣の石材を取り除いていくと、
本来の石垣や階段、水路の跡などが確認されました。
この地点では城の壊された工程がわかるよう、三段階で示しています。 」
本丸石垣 | 本丸正門跡 | 埋門跡 |
本丸の右上の下には発掘で出土した石垣の残骸が集められていた。
さらに進むと「本丸門跡」の説明板があり、礎石と思えるものがあった。
説明板「本丸門跡」
「 原城本丸へ繋がる最後の門です。
入口の空間へ入ると建物の基礎となる礎石が並んでおり、
櫓門が建てられていたと考えられます。
楼門を抜けるとその先に階段が設けられており、城内に続いています。
他の門跡と同様に一揆後に破壊され、礎石の一部がなくなっており、
階段の礎石はわずかしか残っていません。 」
本丸門跡の先には「本丸跡」の大きな説明板が立っていた。
説明板「本丸跡」
「 ここは原城の本丸跡です。 本丸とは城郭の中枢となる重要な場所です。
本丸の曲輪は約8千uと広大であり、さらに城の北西側には本丸の守りを固める
ため、枡形が連続する複雑かつ巨大な出入口(虎口)の空間が備えられていました。
出入口の空間には本丸正門や本丸門など、礎石建物を伴う門があります。
また、本丸の西側に櫓台があり、東側には搦手である池尻口門などがあります。
原城本丸は、島原・天草一揆の際、総大将の天草四郎など、指導者層が立て籠もり、
最後まで籠城戦が行われた場所でもあります。
一揆後は再び籠城の拠点とならないよう、
幕府軍によって建物や石垣が徹底的に破壊され、地中に埋めつくされていました。
本丸の調査では戦いの凄惨さや一揆勢の信仰心を物語るよう、多くの傷ついた人骨や、
十字架・メダイ・ロザリオ珠などの信心具も出土しました。 」
石垣の残骸 | 本丸門跡 | 本丸跡説明板 |
その奥(本丸西中央隅)には「櫓台跡(天守台跡)」の説明板があり、 築城時には三層の櫓が建てられていたようである。
説明板「櫓台跡(天守台跡)」
「 ここでは発掘調査によって大きく張り出した石垣の跡が発見されました。
調査時には石垣の上部や隅が大きく破壊され、
土砂や石垣の石材で埋め尽くされていました。
宣教師が残した報告書には三層の櫓が建てられていたことが記されており、
築城された時にはこの場所に天守相当の建物があったと推定しています。 」
「破却された石垣」という説明石を見付けた。
説明板「破却された石垣」
「 この場所は石垣の内隅部にあたります。
内隅とは 石垣が内側に入り込んだ隅角のことです。
ここでは島原・天草一揆後に破壊された状態を展示しています。
右上の図の赤い線に沿って原城本来の石垣が残っており、
その前面に崩された石垣の石材がつみ重なっています。
なお、この前方にある石垣は内隅が壊された後、耕地整理によって築かれたもので、
天保7年(1836)の絵図にはすでに描かれています。 」
石垣は元は逆L字状に築かれ、その石垣は残っている。
その左側に崩された石垣の石材がつみ重なっていて、
それを囲む石垣がその左に築かれているが、
内隅が壊された後の耕地整理時に築かれたもので、
天保七年(1836)の絵図にはすでに描かれている、といい、
江戸時代中期以降は農地として使用されたことを示すものである。
櫓台跡(天守台跡) | 破却された石垣 | 破却された状況説明図 |
海抜三十一メートルの原城の本丸左側には広い空地が広がっているが、
多くの樹木があるところに、「原城跡」の石碑が建っている。
その左手に十字の建造物があるが、
その手前にあるのは「天草四郎時貞」の墓碑である。
墓碑には「○保○年 天草四郎時○ ○○二月廿八○丑」と刻まれていた。
この墓碑は西有家町のある民家の石垣の中にあったものを移築したもので
、○は欠損している文字である。
説明板「天草四郎時貞の墓碑」
「 小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本名は益田四郎時貞といい、
洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれています。
比較的恵まれた幼少期を送り、教養も高かったといわれ、
また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明です。
島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。
一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により集結しました。
四郎は首を切られ、長崎でもさらし首にされました。 」
近くに天草四郎の石像が建っていた。
「原城跡」の石碑 | 「天草四郎時貞」の墓碑 | 天草四郎像 |
その近くに佐分利九之丞の墓があり 説明板が立っている。
説明板
「 佐分利九之丞(1578-1638)は鳥取藩池田家の家臣で、
島原・天草一揆の時に使者として、
息子の成次、成興らと共に有馬の地に来た人物です。
寛永十五年(1638)二月二十七日の幕府軍の総攻撃の時に討たれ、
死の直前、そばにあった石に自分の名と日付を刻んだと伝えられています。
佐賀鍋島家の記録に「池田家の使者佐分利九之丞同二十七日
本丸の城戸にて討死す」とあり、この付近で亡くなったと考えられます。
「本丸之内に佐分利九之丞と書く付ある石塔これあり」 と記した、
延宝二年(1674)の古地図も残っており、
その頃より石碑が本丸にあったことがわかります。 」
佐分利九之丞は幕府の要請を受けて、鳥取藩八十八名を率いて参陣していたが、
本丸付近にて討死したとあり、この功績により子孫は千石が加増されたという。
その一方では、
島原藩主の松倉勝家は領民の生活が成り立たないほどの年貢を取り立てた罪と
一揆を招いた責任を問われて改易(所領没収)となり、のち斬首となっている。
天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われて、天草領地は没収され、
寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶した。
また、抜け駆けをした佐賀藩主、鍋島勝茂も、六ヶ月間の閉門処分となっている。
本丸を降りると「池尻口門跡」の説明板がある。
説明板「池尻口門跡」
「 原城本丸に入る三ヶ所の門のひとつで、
発掘調査で門と思える礎石やその両側の石垣、階段などが発見されています。
島原・天草一揆後に幕府軍に破壊され、埋め尽くされていました。
石垣は最大でも1.7m程しか残っていません。
特に石垣の隅角は、両側とも根石1石のみが残る状況です。 」
本丸の左は蓮池で防御されていたとあるが、
蓮池跡は畔がある区画になっていたので、
後世の人が田畑などで使用していたのではないかと思った。
これで原城の見学は終了し、原城温泉でお湯に入って垢を流し、
長崎空港から帰途に着いた。
佐分利九之丞の墓 | 池尻口門跡 | 蓮池跡 |
原城には島原鉄道島原駅からバスで約65分、原城前で下車、徒歩約15分
原城のスタンプは原城跡総合案内所または有馬キリシタン遺産記念館にて
(ご参考) 島原・天草の乱 (島原・天草一揆)
「 島原・天草一揆は、
島原城の新築、江戸城改築の普請による圧政や重税の苦しみに耐えかねて、
領民(百姓)らが蜂起したもので、
それに、小西行長、佐々成政、加藤忠広の改易により、
大量に発生していた浪人が加わった。
天草はキリシタン大名の小西行長、島原は同じくキリシタン大名の有馬晴信の領地だったことも
あり、 弾圧を受けていたキリシタン(切支丹)もこの一揆計画に加わるが、キリシタンが起こした
一揆ではない。
島原の乱の首謀者らは湯島(談合島)にて密談をし、
キリシタンの間で人気だった当時十六歳の少年、
天草四郎(本名益田四郎時貞)を一揆の総大将とした。
寛永十四年(1637)十月二十五日に有馬村のキリシタンが中心になり、
代官、林兵左衛門を殺害した。
肥前島原藩二代藩主、松倉勝家は直ちに討伐軍を出し、深江村で一揆勢と戦ったが、
島原城へ戻ると籠城する。
一揆軍は島原の城下を焼き払い、天草でも天草四郎が蜂起して本渡城など攻撃した。
また、唐津藩兵が篭った富岡城も残すは本丸のみと言う所まで、陥落寸前となった。
反乱を知った江戸幕府は上使として御書院番頭板倉重昌、副使石谷貞清を派遣した。
これに対し、援軍の期待ができない一揆軍は有明海を渡り、島原半島の廃城、原城に集結して篭城した。
正確な数は不明だが、一般的には三万七千人とされる。
一揆軍は原城を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬、食料を運び込み、
討伐の攻撃に備えたと言い、 鉄砲は二千丁あったとされる。
柳生宗矩は板倉重昌の派遣を反対したと言われているように、 一万五千石の小藩で
ある板倉重昌の命令に従う大名は少なく、原城の攻略は何度も失敗した。
事態を重く見た徳川幕府は、
討伐上使を老中松平信綱、副将格を戸田氏鉄らに代えることに決定する。
焦った板倉重昌は松平信綱が到着する前に原城の一揆勢を平定しようと、
寛永十五年(1638)の正月、再び総攻撃を行ったが、四千人ともいわれる死傷者を出し、
総大将、板倉重昌は鉄砲を受けて討死してしまった。
幕府は水野勝成と小笠原忠真にも出陣を命じ、松平信綱率いる諸藩としては、
九州の大名を中心に黒田忠之、有馬豊氏、立花宗茂、立花忠茂、松倉勝家、寺沢堅高、鍋島勝茂、細川忠利、有馬直純、 小笠原長次、松平重直、
山田有栄(島津家の家老)ら約十二万六千人が動員され、原城を包囲した。
これに対し、一揆軍は総大将、天草四郎時貞を筆頭に旧有馬氏、
旧小西氏の旧臣達が大将となり、三万七千人で原城に籠り、
組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げた。
しかし、老中松平信綱が兵糧攻めを行うと、
三ヶ月に及ぶ籠城の原城に兵站の補給もなく、弾薬も兵糧も尽き果ててきた。
さらに、海からはポルトガル船二隻より砲撃を行わせ、
キリシタンが僅かに期待していたポルトガルが幕府側についたことをアピールし、
一揆勢の士気を低下させた。
降伏を何度も促すが、天草四郎らはすべて拒否したことから、
包囲が長引くと幕府の威信にも関わるとして、
老中松平信綱は総攻撃を行うことに決する。
四月一日、鍋島勝茂の抜け駆けで、攻撃予定日の前日に攻撃が開始されると、
諸大名も続々と攻撃開始した。
この総攻撃で原城は落城し、天草四郎は討ち取られ、島原の乱は鎮圧された。
反乱軍への処断は苛烈を極め、天草四郎ら首謀者の首は長崎出島にあるポルトガル商館前に晒され
籠城していた老若男女約三万七千人はすべて首を討たれたとされ、
生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人だったと言われる。
幕府軍は乱の終結後、原城が再び一揆の拠点として使用されることのないよう残存する
石塁などを徹底的に破壊し、虐殺された一揆軍三万七千人の遺体は廃墟となった
原城の敷地内にまとめて埋められた。
一揆の際、三の丸を農民など3500人が守りを固めたと記録あり。 また、二の丸には5700人が
守りを固めたと記録がある。 その北の仕寄場が幕府軍が攻め入るために築いた最前線の陣地である。
また、板倉重昌の供養碑は三の丸と大手道との合流地点に近いところに建っている。
今は本丸跡を除けば、赤茶けた広大な土地が広がるのみである。 」