mrmaxの城めぐり 長崎県4 玖島城(大村城)・長崎出島


玖島城は大村藩2万7千石の居城である。 
大村喜前が慶長四年(1599)に築城した城を大村純頼が加藤清正の意見を 取り入れて、慶長十九年(1614)に大改修した海城である。 
江戸時代鎖国中、海外に向けて開かれていた唯一の窓口になっていたのが 長崎港の出島であった。


かうんたぁ。




玖島城(大村城)

令和元年(2019)九月二十七日、島原城、原城を見学後、長崎空港から帰宅する前に訪れた。 
大村神社の鳥居(大手門跡)の左の石垣の前に「玖島城跡」の立派な説明碑がある。 

説明碑
「 玖島城は、慶長四年(1599)、大村家19代嘉前によって築かれ、30代純熙(幕末) まで、12代270年に亘って大村藩2万7千石の居城でした。  嘉前は豊臣秀吉の死後、天下が乱れることを恐れ、慶長の役で朝鮮に出陣した時、 海辺にある城は守りに強いという教訓を生かし、玖島の地を選んで城を築いた。  玖島という名の通り、元は島で、今の国道側を埋め立てました。  慶長19年(1614) 20代純頼の時に城の大改修を行い、 それまで城の北側にあった大手門が現在の南側に移され、今日に至っています。  この大改修に先立って、肥後の加藤清正に意見を聞いたと記録されています。  城には天守閣はなく、館造りの建物でした。  明治初頭、建造物は取り壊されましたが、石垣はそのままで往時をしのばせています。 現在は緑に囲まれた大村公園として、四季折々の花が人の目を楽しませています。 」

玖島城(大村城)は大村湾に突き出た半島の先端に築城された城で、 本丸、二の丸、三の丸から構成される。 

「 本丸は比高十五メートル程の高台に、 東西約五十五間、南北四十五間のほぼ四角形で、 西に虎口門、南に台所門、北に搦手門の三つの虎口(入口)があった。 」

本丸跡には明治十七年(1884)に建立された大村神社がある。 
本丸石垣の上に塀が続いていて、その左側にある郭(曲輪)は板敷櫓で、 平成四年(1992)に再建されたものである。 

「 本丸の左手に二の丸があったが、石垣はなく、 中央に大きな空掘を設けて防御していた。 
三の丸は半島先端の広大な平地で、船蔵や船関係の役所が置かれていた。 」

「大村藩」 の石柱の隣に「大村藩お船蔵跡」の説明板があった。 

説明板「大村藩お船蔵跡」
「 この船蔵は玖島城に附属した施設で、 四代藩主大村純長が元禄年間(1688-1703年頃)に築造したものです。  ここには殿様の使用した御座船をはじめ、藩の船が格納されました。  江戸時代、船は重要な交通手段でしたが、 領地が海を取囲む形の大村藩にとっては特に重要な乗物でした。  藩主が長崎をはじめ、領内各地に赴く時には船が多く使われました。  この他、兵員輸送や各種物資の運搬にも使われるなど、大いに活用されました。  したがって、船蔵は藩にとって重要な藩船を格納する場所であり、 軍事面は備えのみでなく、交通産業面等でも藩を支えた施設でした。  この船蔵はもとは外浦小路の入口にあったことが記録に出ており、 元禄年間に板敷浦(現在の場所)に移ったとされています。  また、板敷櫓下の発掘調査では船蔵跡が発見されています。  この船蔵の後ろ(現在の教育センター付近)には米蔵や硝煙小屋があり、 海を挟んで正面には船役所がありました。 当時は風雨を避けるため、石垣の上に柱を建て、屋根で覆っていたと思われ、 柱穴の跡が石垣に残っています。  旧城郭の一部として、古い石垣と船梁(ドック)など、昔の面影をそのまま残しており、 このような船蔵遺構の例は数少なく海城としての玖島城の特徴をよく表しています。 海と密接な関係にあった大村藩の性格を伝える極めて貴重な文化財として、 県指定史跡となっています。 」 

以前、俳優の高橋英樹が「つるべいの家族に乾杯」で当城を訪れた斉 ここを訪れ、石垣に賞賛の言葉を述べておられたが、 まったく同感である。 

大手門跡
     板敷櫓      お船蔵跡
大村神社鳥居(大手門跡)板敷櫓お船蔵跡



所在地:長崎県大村市玖島1丁目45番地
玖島城(大村城)へはJR大村駅から車で約20分




出 島

令和元年(2019)九月二十五日、福岡から特急かもめで長崎駅に到着。  路面電車に乗り、三つ目、出島で下車すると、目の前に出島の西端の「水門」ゲートがあった。 
そこには「史跡 出島和蘭商館跡」の石柱があり、その先に復元された入口があった。 

説明板「史跡出島和蘭商館跡」
「 出島は寛永13年(1636)キリスト教の布教を防ぐ目的で、 市中に雑居していたポルトガル人を一カ所に集め住まわせるために幕府の命により、 造られた面積約15,000uの扇形の人口の島です。  寛永16年(1639)のポルトガル人退去後は一時無人の島になりましたが、 同18年(1641)平戸のオランダ商館がここに移され、以来、安政の開国までの218年間、我が国で唯一西洋に向け開かれた窓となり、 海外から新しい学術や文化が伝えられました。  出島内にはオランダ商館員の住まいや倉庫などが建ち並び、家畜を飼い様々な植物が植えられていました。  幕末から明治にかけて港湾改良工事などで、周囲は埋め立てられ、 海に浮かぶ扇形の原形が失われましたが、 日本の近代化に大きな役割を果たした貴重な文化遺産であることから、 大正11年(1922)に国の史跡に指定されています。 」 

また、入口の左側には「出島南西部」の説明板がある。 

説明板
「 ここは出島南西部の荷揚場付近にあたります。  歩道上の西側に延びる着色されたラインが荷揚場の部分を表し、 この看板の位置が出島の築造当初に築かれた石垣との取り付け部に相当します。  一方、南側に延びるラインが扇形の出島の南西部にあたり、 現在は国道の下に石垣の一部が残られています。 」  

出島・水門入口
     出島図      荷揚場跡
出島・水門入口出島図荷揚場跡



入口には「水門」の説明板があった。

説明板
「 出島の西端に位置する門で、 前面は荷さばきのための広場と階段状の荷船用桟橋になっていました。  輸出入の貨物は必ずこの門を通過し、役人が待機していました。  また、沖合で停泊する船との間を行き来する人はここで身体検査を受けました。  貿易以外は固く閉ざられ、門の内外から封印されていました。  重要な施設として幕府が建設した建物です。 」 

この水門は往時の資料に基づき、 十九世紀初頭に建てられた原位置に復元されましたものである。 
門柱の一部が国道499号の歩道上にかかっていた。 
歩道の幅を確保するため、水門の壁を一部取り外し、また、 南側の扉も終日開放して歩行者の通路として利用できるようにしていた。 
門の中に入ると入場券売場があり、510円の入場料を支払い、右側の案内に従い、 中に入る。 
正面にあるのがヘトル部屋である。 商館長次席(ヘトル)の住まいで、 内部は復元ではなく、ミュージアムショップやトイレとして使用されていた。 

水門
     水門の位置      ヘトル部屋
水門江戸時代の水門の位置商館長次席(ヘトル)部屋



左手前にガラスに覆われた場所が二つあり、 右側のガラスの前に「築造当初の石垣と最初の荷揚場築足し石垣」という説明板があった。

説明板
「 荷揚場は出島築造当初にはなく、後年三回築足しが行われました。  この石垣(ガラスの中)は出島築造当初西岸護岸にあたります。  平成9年(1997)のこの石垣の発見により、築造当初の出島が扇形で、 両側部分に築足しがなかったことが分かりました。  左の石垣(左のガラス中)は最初に荷揚場が築かれた17世紀中頃の石垣の一部です。  これらは荷揚場の変遷を伝える貴重な遺構です。 」

当日は台風が通過した直後のため、曇っていたため、 ガラスの中が見えなかったのは残念である。 
塗塀の前に「四ヶ所番所一番」の説明板があった。

説明板
「 出島の外周は高い練塀で囲まれ、その塀に近接して全部で六ヶ所の番所が置かれていました。  出島には町年寄指揮下の番人十数名が配置され、 人や物の違法な出入りがないか、夜間も含めて監視していました。 絵図によると、 出島北西の角にあたるこの付近には四ヶ所番所一番と呼ばれる小屋がありましたが、 正確な位置は分かっていません。 」

ヘテルの部屋の対面にあるのは「一番船船頭部屋」である。

説明板
「 オランダ船が港に停泊した時、2階西側に船長の一人が滞在し、 東側は商館事務員の住宅として使われました。 2階を居住用にあて、 1階は倉庫として用いるのが出島でのオランダ人用建物の一般的な使われ方でした。 1階に不良品の砂糖、秤と錘、木炭が収納されたという記録があります。 基本的な造りは当時の長崎町人の住まいと変りありません。 」  

石垣の変遷
     四ヶ所番所一番跡      一番船船頭部屋
石垣の変遷四ヶ所番所一番跡一番船船頭部屋



二階に上がっていくと、一番船船長の部屋があり、説明板があった。

説明板「一番船船長の部屋」
「 十九世紀初頃の出島には 夏になるとオランダの貿易船が二隻来航するのが通例でした。  そのうち、先に到着する一番船の船長が、 出航する十一月頃まで滞在するのがこの部屋です。  船員たちは船で暮らしました。  デ・コーニングの「私の日本滞在記」などを参考に当時の家具調度類を再現してあります。 」

オランダ商館員の部屋にも説明板があった。

説明板「オランダ商館員の部屋」
「 オランダ商館の事務官が暮らしていた居間と寝室です。  1等書記のヘルマヌス・スミットが文化4年(1821)出島で亡くなり、 遺品が競売にかけられたことから、持ち物のリストが残りました。  それをもとに当時の商館員の暮らしぶりを再現しています。  家具はバダビィア(インドネシアのジャカルタ)から持ちこむか、 長崎の職人に作らせていました。 」  

その隣にある建物は「一番蔵」である。

説明板「一番蔵」
「 絵図には砂糖蔵と記され、痛んだ砂糖きびを収めたという記録もあります。  オランダ人は倉庫を花の名前で呼び、この建物はバラ蔵でした。  絵画や模型に見られる外観は日本式の土蔵そのものです。  商館時代の出島に建っていた建物では、このような倉庫が最も多く、 十九世紀初めの絵図には一番蔵から十七番まで描かれています。 」  

一番船の船長部屋
     オランダ商館員の部屋      一番蔵
一番船の船長の部屋オランダ商館員の部屋一番蔵



一番蔵を出ると対面にあるのが屋根付きの外階段を持つカピタン部屋である。 

「 商館長のことを日本ではカピタンと呼んでいた。 
このカピタン部屋は非常に大きな建築物で、商館長の住まいであると同時に、 商館事務所や日本の役人や大名などが出島に訪れたときに、 接待の場所としての機能を持つ、出島を代表する建物であった。 
一階は商館長の食糧と物品の倉庫で、二階に床下を吹き放ちとした涼所、 居間などがあったが、再建した建物の一階は出島の歴史と生活に関する展示、 二階は商館長の生活の様子を再現する展示が行われていた。 」

冷所には多くの人が座り、ビデオを見ていた。 

説明板「冷所」
「 カピタン部屋を描いた絵画の多くには、 窓の外に長崎港に停泊するオランダ船が見られます。  しかし、カピタン部屋の中で間近に海を望むことができる場所は、 この冷所ぐらいでした。 建物の中で最もいたみやすい部分でもあり、 修理や改築はたびたび見られます。  なお、冷所の修理はオランダ側が負担する決まりで、 祝典の際にはバルコニーに装飾が施されました。 」 

外階段から下を見ると、対面に左から二番蔵、三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋、新石倉が並んで建っているのが見えた。 

「 二番蔵は染料の原料になる蘇木などが収蔵されていた蔵で、 今は出島で取引された貿易品と貿易の仕組みを紹介している。 
三番蔵は長崎の食文化に欠かせない砂糖を保管していた。  はじめは台湾、後にインドネシアから輸入されました。 
拝礼筆者蘭人部屋はオランダ商館の主席事務員の住居だった。  現在はエレキテルや顕微鏡等の珍しい西洋から伝わった器具の仕組みを紹介している。 
新石倉は慶応元年(1885)に建てられた石造倉庫で、 昭和42年(1967)に長崎市が買い上げ、 一部旧材を用いて昭和51年(1976)に復元したものである。  この建物が建てられた年は出島商館が廃止された六年後で、 居留地に編入された前年にあたります。  この建物は現在、出島の総合案内所、出島シアターになっている。 」

カピタン部屋
     冷所      二番蔵から新石倉
カピタン部屋冷所二番蔵から新石倉が並ぶ



下に降りると、カピタン部屋の先には「用水路」と「時鐘」の説明板があった。
その先の 白い蔵は十六番蔵、緑の手摺が付いている建物は筆者蘭人部屋である。

説明板「十六番蔵」
「 十六番蔵には輸入品の丁子が保管されていました。  丁子の原料はインドネシアモルッカ諸島の植物のつぼみで、 香辛料や薬の原料になりました。  鉄筋コンクリート造りとし、建物の外部は漆喰仕上ですが、 1階部分には外壁を保護するため、腰板が貼られています。  遺構の出土状況がよくないため、 建物を出島で初めて温湿度調整可能な企画展示室、収蔵庫として活用しています。 」

その隣の説明板筆者蘭人部屋」
「 オランダ商館員の住居で、建物内部は長屋のように、四区画に分れ、 数人の筆者(書記役)達が住んでいました。  部屋の窓の手すりには当時のオランダでよく使われた緑色の塗料が使われ、 窓はガラス窓になっています。  また、建物内部を復元する資料が少なかったため、 内部は展示室として活用するほか、トイレ、エレベーターを備えています。 」

その先の白い蔵は十四番蔵で、黒い建物は乙名詰所と組頭部屋である。 

説明板「十四番蔵・乙名詰所」
「 十四番蔵には輸入品の砂糖が保管されていました。  寛政十年(1788)に起きた火事の後、建てられた土蔵で、 火事の前には別の建物と池があったことが絵図や発掘調査から分かっています。  オランダ商館員はこの蔵を再生という名前で呼んでいました。 
乙名詰所は、出島の管理を行う長崎の地役人「出島乙名」が、 貿易を行われない冬から春にかけて仕事をした詰所です。  ここは出島の関係者が出入りする表門の正面にあたり、 通行する人々の監視を行っていたことが商館長ドウーフの記録に書かれています。 」 

白い蔵の十四番蔵では、 現在、蔵の下の発掘遺構や出島築造の様子、出島と長崎の町をつなぐ橋を紹介している。 
乙名詰所の隣にある建物は組頭部屋で、その奥に銅蔵が建っている。

説明板「銅蔵」
「 1階には輸出用の棹銅が保管され、2階には輸入品の鮫皮が収められていました。 銅蔵の前にある組頭部屋は蔵のまわりを囲むように、一体的に作られ、 一部は通路となり、また、銅蔵前に作業空間として使わていたと考えられます。  組頭部屋の組頭は地役人の乙名を補佐する役目の人のことです。  1階では日蘭双方の立会いのもと、 棹銅を箱から取り出し、再計量する作業を行っていた。 」 

蔵の中には棹銅が入った箱を積み上げた姿が再現されていた。 

十六番蔵と筆者蘭人部屋
     十四番蔵、乙名詰所など      棹銅の入った箱
右側(奥)筆者蘭人部屋(手前)十六番蔵右側(手前)十四番蔵(奥)乙名詰所など棹銅の入った箱



新石倉の先には旧石倉がある。 

「 現在は考古館になっているが、幕末の商社の石倉である。 
日本最初のプロシアの商社が入り、坂本龍馬たちの海援隊とも取引を行いました。 」 

新石倉と旧石倉の間に門があった。 ここからも入場できるようになっていた。

「  この門があるところが江戸時代に出島に入る正門とされていた場所である。  当時は川の中程にあったという。 」

旧石倉の隣に陶製の門柱が建っていた。 

「 この門柱は昭和二十九年(1954)に当時の長崎市博物館より、 現在地に移されたもので、柱にはベトウルス・レグウー社のマークが刻まれていることから、 オランダのマーストリヒトにある会社の製品で、当時出島にあった区域に使用されていたと推測される。  当時、出島を介してオランダ趣味のある大名や藩主、商人などにも持ちこまれていた。 」

旧石倉
     正門跡      オランダ製の陶製門柱
旧石倉正門跡オランダ製の陶製門柱



旧石倉の脇に広がるのが、シーボルト里帰り植物園や出島1/15のミニチュア、ケンベル・ツェンベリー記念碑である。 
その反対にある建物は旧長崎内外クラブである。 

「 明治三十六年(1903)、Tグラバーの息子・倉場富三郎により、 長崎の外国人と日本人の社交場として建てられた。  現在はレストランとして使用されている。 」

その先にある教会風の建物は旧出島神学校である。 

「 明治十一年(1878)に建てられた、 現存する日本最古のプロテスタント神学校である。 」

建物の一角に「旧出島神学校」の説明板があった。

説明板「旧出島神学校」
「 明治8年(1875)に創設された出島教会に隣接して、 明治11年(1878)英学校として建てられた。  明治16年(1883)には出島聖公会神学校となりました。  日本で最初につくられたキリスト教プロスタントの神学校である。  明治26年(1893)に増築されたのが現在の姿で、 居留地時代の出島の様子を伝える貴重な建物です。 」 

以上で出島の見学は終わった。 

1/15のミニチュア出島
     旧長崎内外クラブ      旧出島神学校
1/15のミニチュア出島旧長崎内外クラブ旧出島神学校



所在地:長崎市出島町6−1
JR長崎駅前から路面電車で6分、出島下車、徒歩1分




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