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連結された秋田新幹線(奥) | 小さな時計台 | 武家屋敷通り |
角館は秋田藩主佐竹義宣の実弟の葦名義勝が、城を建て城下町を造ったのが、 今も残る姿である。
「 角館は戦国時代には戸沢氏の本拠地であった。
関ヶ原の合戦後の慶長七年(1602)、戸沢氏は常陸多賀郡へ転封、
佐竹氏が秋田へ入部し久保田藩領となる。
翌慶長八年(1603)、佐竹義宣の実弟にあたる蘆名義勝が所預りとして、
角館に入った。
蘆名氏の入部当時、角館の城下町は角館城の築かれていた小松山
(現古城山)の北側の麓にあったが、狭隘な上に水害や火災にしばしば見舞われたことから、
元和六年(1620)1620年、現在の位置である古城山の南麓へ町を移転させた。
新しい城下町では道路の幅員を広げるとともに見通しを避ける工夫をこらし、
下水を整備し、火事対策を施して武家地、町人地、寺社を配置した。
南北に細長い町を東西に貫く形で中央に土塁を築き、火除け地にし、
その北側を武士の居住区である内町、南側を町人の居住地である外町とした。
しかし、同年発布された一国一城令により、角館城は破却された。 」
時計台のある交叉点あたりに、江戸時代には日除け地と土塁があったこと
になる。
道の右側の薬医門には「小野田家」とある。
説明板「小野田家」
「 佐竹義宣より少し遅れて移ってきた小野田氏は今宮弾正の配下になり、
角館の菅沢町(現在の田町武家屋敷)に居住した。
小野田氏は角館に入って分家をつくり、
ここの小野田主水家は長右衛門から分かれた清右衛門家である。
両家とも佐竹北家組下に変わり、代々主水を名乗り、武芸に秀でていた。
九代藩主佐竹義和が文化八年(1811)に角館を訪れた折、
小野田主水直政(十九歳)は藩主御前で武芸を披露している。
また、眼科医としても名をなした。
建物は明治三十三年(1900)の大火により主屋は消失したが、
その後再建された主屋の間取りは近世武家住宅そのままである。
屋敷の特徴としては、薬医門から玄関までの灯台躑躅と
黒壁にそって熊笹が生い茂っていることである。
仙北市教育委員会 」
非公開の家もあり、修理中で入場できない家もあった。
また、武家屋敷を保存しながら、ねこの雑貨を売っている家もあった。
小野田家薬医門 | 小野田家主屋 | ねこの店なめかわ |
人力車に乗って説明を受けている人がいた。
岩橋家の門をくぐると「岩橋家住宅」の説明板があった。
説明板「岩橋家住宅」
「 岩橋家は会津黒川城主芦名氏の重臣であった。
天正十七年(1589)芦名氏が伊達政宗に敗れ、兄である常陸の佐竹氏を頼り常州に移り、
江戸崎において秀吉から四万五千石を与えられると、
岩橋氏も芦名氏に随従し江戸崎に移った。
関ヶ原の戦い後、慶長七年(1602)佐竹氏の出羽移封に伴い、芦名氏も出羽に下り、
角館一万五千石を与えられました。 岩橋氏は一時江戸崎を立退き、
津軽氏に三百石で仕官していたが、
主君の角館居住とともに再び芦名氏に帰参し角館に居住した。
芦名氏が承応二年(1653)三代にして断絶に及んで、
代わって角館所預となった佐竹北家の組下として(八十六石)、廃藩に至るまで仕えた。
この建物は江戸時代末期に改造され、屋根も茅葺きから木羽葺(こはぶき)に変わったが、
角館の武士の生活を今に伝えている。 仙北市教育委員会 」
紅葉の下の人力車 | 岩橋家住宅 |
岩橋家の庭に「天然記念物 岩橋家のカシワ」の木柱があり、
祠の隣に大きな樹木があった。
その先の交叉点の左手に樺細工伝承館がある。
「
樺細工(かばざいく)とは天然の山桜の樹皮を素材として造られた茶筒や文箱、
茶箪笥などである。
安永年間〜天明年間(1776〜1783)にかけて、
佐竹北家の手判役、藤村彦六により阿仁地方から技法が伝えられたのが始まりで、
その後下級武士の副業として育まれました。
正倉院御物には山桜の樹皮を用いて作られた刀子(とうす)がなどがあり、
また、万葉集や源氏物語でもみることができる。
樺細工は名工達の秘技によって創りだされる山桜の樹皮特有の光沢を生かした渋く
奥深い色合いが美しい工芸品である。 」
伝承館を出て左に行くと桧木内川の堤に突き当たる。
木内川左岸堤防の桜並木は「檜木内川堤桜」として国の名勝に指定されていて、
また、「桧木内川堤・武家屋敷」として日本さくら名所100選にも選ばれている。
樺細工伝承館 | 樺細工の茶筒 | 桜並木 |
交叉点に戻り、先に進むと右側の薬医門前に多くの人がいる。
入場料が500円の青柳家武家屋敷である(9時〜17時、冬は16時30分まで)。
「
当家は天正八年常陸国青柳和泉守より続く角館を代表する武家屋敷である。
三千坪の敷地は植物園のように草木に覆われ、その中に六つの資料館がある。
薬医門は藩への功績が認められ特別に建てることが許され、万延元年に建てられた。
」
門をくぐると「秋田県指定史跡 武家屋敷 青柳家」の標柱の先に母屋がある。
「
青柳家母屋は約二百年前の建物で、厄除けの意味を込めた鬼板や懸魚等で
意匠をこらした玄関や座敷内の板欄間に施された家紋の透かし彫り、
雪国特有の廻り縁など、武家らしい威厳に満ちている。 」
青柳家武家屋敷 | 青柳家母屋 | 母屋玄関 |
母屋の左手に武器庫があり、青柳家の武具、六十二間小星兜、五輪塔旗印、
藤原高真による秋田郷土刀などが展示されている。
その奥の右側に神明水があり、正面に解体新書記念館がある。
「 安政三年(1774)に日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書として発刊された解体新書。 その附図を描いたのが角館出身の武士で青柳家と親戚の小田野直武である。 この建物には直武の偉業と解体新書の附図、 また直武と交流があった人物の作品が展示されている。 」
神明水の先に小田野直武の肖像がある。
説明板「小田野直武」
「 角館の武士であるが、
日本で初めて洋画の技法である写実に取り組んだ天才画家。 解体新書のさい絵を描くなど西洋医学の夜明けに貢献した。
寛延二年(1749)この地に生まれ、安永九年(1780)この地で謎の死を遂げた。 」
小田野直武は平賀源内に師事、秋田蘭画を確立した。
西洋の隠影法を取り入れた秋田蘭画は彼と秋田藩主、佐竹義敦により完成した。
像の先には「秋田郷土館」があり、右手の橋を渡ると正面に「武家道具館」がある。
武家道具館には当時の武士の生活様式を伝える武家道具が展示されていた。
神明水と解体新書記念館 | 小田野直武像 | 武家道具館 |
その先に時代体験館とハイカラ館があり、
アンティ−クコレクションが展示されている。
青柳家を出て進むと紅葉が今が盛りと美しかった。
その先に石黒家がある。
説明板「石黒家住宅」
「 藩政時代、角館町の財政管理を担った侍の家で、角館に現存する武家屋敷の中で、
格式が最も高いと言われています。
母屋の築年数はこの町の中では最も古く築二百十年程度です。
また、唯一、子孫家族が生活し続けるため、旧来部分を公開しています。 」
その先の左側に平福美術館があり、蘭画の展示が行われている。
その先で、武家屋敷通りは終わる。
「 なお、角館武家屋敷は昭和五十一年(1976)九月十四日、
国の要伝統的建造物群保存地区として選定された。
日本で最初に選定された七地区の一つである。 」
予約していたトヨタレンタは前述の時計台に迎えにきてくれるので、
13時50分に待機し、営業所で車を借り、
レンタカーで秋田城に向った。
ハイカラ館 | 紅葉が今が盛り | 石黒家武家屋敷 |
秋田城
高速道路を経由して秋田城跡歴史資料館(9時〜16時30分年末年始休210円)に到着したのは令和二年(2020)十月二十七日十五時五十分で、角館から一時間五十分かかった。
「
秋田城は出羽国秋田にあった日本の古代城柵(大規模な地方官庁)である。
蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた東北各地に造られた律令国家の地方官庁の遺跡は
「城柵官衙遺跡(じょうさくかんがいせき)」と呼ばれており、
秋田城はその中で最も北に位置している。 」
資料館の入口には、「タモリ 東京を出る 秋田ゆき プラタモリ」 の
NHKで放送されたポスターが貼られていた。
見学前に資料館で予備知識を得る。
館内には当時の姿を現すジオラマなどがあった。
「 秋田城は、秋田平野の西、雄物川が日本海に注ぐ河口の右岸の
独立した丘陵(標高約30〜50mの通称高清水)の上に立地していた古代城柵である。
その歴史は、天平五年(733)に庄内地方から秋田村高清水岡に遷された出羽柵を始まり、それを創建とする。
当初は城全体が壮麗な瓦屋根の築地塀により囲まれていて、
城壁で囲まれた外郭の東西南北に出入口の門が造られ、
海を望む西門は二階建てであったと考えられている。
中心施設の政庁に向けて、外郭東門と外郭南門から城内道路(大路・約12m)が伸びていた。
政庁も瓦屋根の築地塀で囲まれ、正殿と脇殿に囲まれた正面の広場、
北・北西の建物が配置されていた。
外郭の門や政庁の正殿などの主要な建物は瓦屋根でした。 」
奈良時代に城壁の屋根に使われていた瓦は、丸瓦と平瓦を使った「本瓦葺き」という
重ね方で、ここにあるのは一部を復元したものである。
プラタモリ | ジオラマ | 復元した瓦 |
「秋田城の歴史」
「 天平宝字四年(760)頃に秋田城に改称され、城全体が改修される。
秋田城は奈良時代の創建から十世紀中頃までの平安時代にかけて、
城柵としての機能を維持したと考えられていて、
東北地方の日本海側(出羽国北部)の政治、行政、軍事の中心地としての役割を担った。
また、津軽や渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、
重要な位置にあった。
しかし、十世紀後半になると、古代城柵としての機能は失なわれていく。
鎌倉時代以降、秋田城介は北方を鎮護する役職名となり、
武門の名誉となっていった。
秋田城跡は、昭和十四年(1939)に国指定史跡となり、現在、
城域の一部が高清水公園となって残っている。 」
資料館を出て道路に出ると道の反対に急な石段がある。
そこを上ったところが政庁跡で、上がったところにあるのが「正殿跡」である。
「 正殿や前面の広場で、
出羽国の政務や定期的に貢物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物や、
宴も行われていたと考えられる。
また、時には外国からの使節を迎えての儀式が行われていた。
正殿はほぼ同じ場所で六回建て替えられている。
最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物で、
それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。 」
政庁跡の前に政庁の模型が置かれている。
「 政庁域は東西九十四メートル、
南北七十七メートルと東西に長い長方形で
築地塀に囲まれた門を入ると右手に北東建物と北西建物、左手に東脇殿があり、
正面に細長い正殿が建っていた。 」
政庁跡の右手に秋田県護国神社がある。
護国神社は他地にあったのを秋田城の城址に遷座したものである。
築地塀に囲まれた門から東大路を歩いて行くと外郭東門がある。
「 外郭の東西、南北は約五百五十メートルの不正方形で、
外郭東門は平成元年度の発掘調査で発見された奈良時代の東門を復元したものである。
正面の桁行8.4m、側面の梁磨。4m、高さ約6.5mで、軒先につく軒瓦がないこと、
部材をつなぐところに舟肘木を使用しているのが特徴である。
材木の仕上げは槍の穂先のようなやり鉋という古代と同じ工具で削り、
また、表面は丹土を塗っている。 」
門の横に続く土壁は「築地」とよばれるが、 土を人の手でつき固めながら積み上げる版築という古代と同じ工法で再現された。
「 築地の手前にある深さ七メートルの土取り穴は、 築地を積む土を 取るときにできた穴で、 後にゴミ捨て場として使われ、発掘時には多数の漆紙文書、木簡、猪、馬、鯨、 鳥などの骨が発掘された。 」
門をくぐると右下には古代池がある。
「 この沼は縄文時代以前に飛び砂によって沢がせき止められて出来た自然の沼を復元したものである。
沼は城内で行われた大祓いの行事で使われた人形、斎串、矢羽根、
人面墨書土偶などを 流す神聖な場として利用された。 」
古代池の右手(南側)の小高いところに井戸跡や建物跡がある。
「 ここは鵜の木地区で寺院があった場所である。 」
その先にあるのはプラタモリでも紹介されていた「古代水洗トイレ」である。
「
八世紀後半に造られた厠舎((かわや)で、建物のなかに三基の便槽が並び、
外には約六メートルの木樋とその先端には沈殿槽が作られている。
渤海国との交流により造られたのではという説がある。
また、文献史料による確たる証拠はないものの、
奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが
秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。 」
16時50分、約一時間の秋田城の見学は終了。
その夜の宿の男鹿温泉に向った。
秋田城へはJR秋田駅からバス、将軍野線・寺内経由土崎線で20分、
護国神社入口下車、徒歩すぐ
続日本100名城の秋田城のスタンプは史跡公園管理棟か秋田市立秋田歴史資料館にて。