mrmaxの城めぐり 秋田県2  (脇本城)


脇本城は秋田県男鹿市にある中世の山城で、  檜山、湊の両安東氏を統一した安東愛季が大幅に修復して居城にしたといわれる。 
続日本100名城の第106番に選定された城である。



かうんたぁ。



男 鹿

令和二年(2020)十月二十八日、男鹿温泉万盛閣を出発し、入道崎に向う。 

「  入道崎は男鹿半島北西にあり、日本海に突出する岬である。 
付近は海岸段丘が発達しており、日本海の荒波の波食により築かれ、 落差30mもある荒々しい海岸を見せるが、地上には穏やかな草原が広がっていた。 」> 北緯40度にあることから、それを印した安山岩のモニュメントがあった。 
また、明治三十一年(1898)に建造された入道崎灯台があり、 白黒対称の縞模様が一際目を引く岬のシンボルとなっている。 
しばらく周囲を散策し、なまはげ館に向った。 
一度男鹿温泉郷まで戻り、国道101号を走る。 
昨夜は暗闇の中、幾つかの橋を上り下りしたので怖かった。 
北浦で右手に入っていくと男鹿真山伝承館がある。 

「  なまはげ館は実演する場で、伝承館は秋田県内に残るなまはげを展示している。 
時間がないので、伝承館だけにした。  なまはげの装束が集落毎に違うことを始めて知った。 」

北緯40度のモニュメント
     入道崎灯台      なまはげ
北緯40度のモニュメント 入道崎灯台なまはげ






脇本城

男鹿なまはげ館を出て、10時50分、脇本城下の駐車場に到着した。
脇本城跡で、現在見学できるのは内館地区と馬乗り場地区である。

「 脇本城は、戦国時代に青森県の北から北海道の南から 秋田県の半分以上を支配した安東氏の城で、秋田県男鹿市にある山城である。 
脇本城は内館地区、馬乗り場地区、兜ヶ崎・打ヶ崎地区、乍木地区、 お念堂地区という五つの地区からなり、 さらに短冊形の地割された城下町と今も寺が多く残る寺院地区から構成されていた。 」

城の入口は、国道101号の海岸脇の駐車場で、菅原神社が目印である。 

「  駐車場は城の入口である史蹟脇本城案内所に数台、菅原神社前に数台あるが、 国道脇の駐車場に置いて歩いて向かうのが一番だろう。 」

左側に菅原神社の石段があるが、右側の車道を上ると、菅原神社前を通り、 プレハブ小屋の脇本城城跡案内所に至る。 案内所は当日、無人であった。 
続日本100名城のスタンプを押し、用意されているパンフレットも入手し、 見学を開始した。 

「 安東愛季(ちかすえ)は、 元亀元年(1570)に檜山(能代)と湊(秋田市土崎)の両安東氏を統一し、その領地を支配。 
天正五年(1577)に、嫡子業季に湊、檜山の両城を譲り、 自身はもともとあった脇本城に大規模な修復を行い、居城とした。 」

脇本城案内図
脇本城案内図



右にカーブする道を進むと、内館地区に到着。 右手に細長く続く曲輪群があり、 左手には三角形に形成された曲輪群がある。  これらは比較的小規模な曲輪で並列的に群をなしている。 
まず左側の曲輪群を進む。 

説明柱
「 この曲輪群は長さ約二百五十メートルに小さな曲輪が七つ作られていた。 
左端に近い曲輪(南端)には「この付近一帯には数多くの館跡があり、脇本城主で ある安東愛季の家臣屋敷があったところと考えられている。 」

説明柱の先には海が見えた。 

「 一番端の曲輪の南側は生鼻崎で、絶壁を形成し、 日本海が一望出来、眼下に国道が見える。 
生鼻崎は海上交通(日本海、八郎潟)、陸上の要所(天下道)であり、 標高も百メートル前後あることから城づくりに最適な環境であった。 」

脇本城跡碑
     南曲輪跡      案内標柱
「脇本城跡」碑と駐車場
南曲輪跡
案内標柱



二つの南端の曲輪と北側の曲輪の間は少し凹んでいて、「往古の竪掘跡」とあったが、 今はなだらかになっているので、竪掘の感じはしなかった。 
また、「 この八つの曲輪群の西側は土塁が築かれていた 」  という説明板もあった。 

「 脇本城が廃城になった時期は明らかになっていないが、 慶長七年(1602)に安東(秋田氏に改姓)実季が宍戸(茨城県)へ移封、代わりに 佐竹義宣が秋田に入り、久保田城が築城されたことから考えると、 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置後から慶長七年(1602)の佐竹氏による 久保田城築城の間に廃城になったと思われる。 
その後、大規模開発が行われなかったことや地域住民の環境整備が 継続的に行われたことで、内館地区は当時の姿が残されていて、 平成五年(1993)の遺跡調査などにより、多数の曲輪、土塁、空堀、井戸跡などの他、 虎口(こぐち)と呼ばれる城の入口部などが確認され、 当時使用した陶磁器などが出土している。 」

先程の内館地区の看板に戻り、右側の曲輪群に行くと、 凹んでいるところに「空掘」の標示板があったが、ここは往時の虎口跡である。 

竪掘跡
     土塁跡      二の丸跡
竪掘跡
土塁跡
虎口跡



復元想像図には、 

「空掘」の木柱が立っているところに門(虎口)があり、 空掘の左側(西)には三つの曲輪、 右側(東)には城主が住む館と儀式を行う場所(主殿・会所)があった。

と想定し、その様子が描かれていた。 
今回行かなかった西の曲輪の先に馬乗り場があったようである。 

「 脇本城は生鼻崎から本明寺の上の馬乗り場を経て、 脇本第一小学校上の兜ヶ崎までを含む、総面積は約百五十ヘクタールに及び、 東北最大級といわれる。 
馬乗り場地区は単郭の大規模な曲輪が中心にあり、周囲に小規模な曲輪が取り巻く。  」

その先、主殿と城主館の間に土の壁のように聳える土塁は、 高さ六メートルで、脇本城最大規模である。 
この土塁は空掘を掘った際出た土を使用した、と推定していた。 
主殿側の土塁の下に「井戸跡」があった。 
井戸跡から左に進むと城主館に通じる通路があある。
通路の下には「館神堂」の標木が立っていた。 

復元想像図
     井戸跡      通路
復元想像図
井戸跡
通路



通路を上るとその先には広い空地が広がっているところが、 城主館があったところである。 

「 城主館は南、北、西の三方を土塁で囲まれている。 
東側は低い土手状の高まりが残っていて、その真中部分が途切れている。 
そのことから、途切れた部分に門、その両側に塀があったと推定される。 
ここは、城下町を見下ろす絶好の場所になっている。 」

城主館にも井戸跡があった。 
落城の際、城主が金の茶釜をどこかの井戸に投げ入れたという伝説が残っている。 
城主館から細い道を下ると「天下道」の標柱が立っていて、細葉の椿の脇に出た。

「  天下道と呼ばれる古道は中世に整備された道で、 現在は城の西側が市道により分断されていて通り抜けができないが、 かってはここから城の内館を横切って船川・北浦方面に向う主要な道として 長い間利用されていた。 」

細葉の椿の左手に菅原神社があった。 

「 安東実季は天正十九年(1591)に菅原神社は建立し、 安東姓から秋田姓に改称した。  慶長七年(1602)安東実季は常陸国宍戸へ転封となり佐竹義宣が秋田に入る。  承応二年(1653)に菅原神社が現在地に移転していることから、 この頃には廃城になっていたのだろう。 」

脇本城跡は平成十六年に国の史跡に指定された。 
無人の菅原神社にお参りして、12時ジャスト脇本城の探訪は終了した。 

城主館跡
     天下道      菅原神社
城主館跡
天下道
菅原神社




脇田城へはJR男鹿線脇本駅から徒歩約35分。 タクシーで10分 
脇田城のスタンプは脇田城跡案内所内に置かれている。 




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