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鳥取城には北御門、中ノ御門、南御門の三つの門があったが、
堀に沿って右に行くと工事中の場所があるが、ここが中ノ御門跡である。
「鳥取城跡附太閤平」の説明板があった。
説明板「鳥取城跡附太閤平」
「 鳥取城は、土でできた城(中世城郭)と、石垣でできた城(近世城郭)という、
二種類の城で、構成されている。
太閤平は、羽柴秀吉による鳥取城侵攻の際に本陣が置かれた場所であり、
ここを中心として、城主吉川経家が率いる鳥取城を攻めた。
当時の城は久松山山頂にあり、
対する秀吉は、強固な包囲網で山全体を幾重にも取り囲み、
徹底的な兵糧攻めを行った。
経家の自刀により、戦いは終わったが、
山中には今なお多くの陣跡が残っている。
秀吉の鳥取城攻め後、城に入った宮部継潤により、
石垣を持つ近世城郭に整備が始まったとされる。
江戸時代に入ると池田長吉により、基本的な部分がつくられ、
池田光政期には三十二万石の城郭として大規模な整備が行われ、
ほぼ現在の形になった。
石黒の大火では城の大半が焼失し、その後増改築が繰り返しながら幕末を迎え、
明治に入ると建物は順次撤去された。 」
太閤平は、
ここから東に千五百メートルのところにある標高二百五十一メートルの本陣山に、
秀吉が築いた鳥取城攻略のための仮城(土で築かれた詰城)のことで、鳥取城跡とセットで国の史跡に指定されている。
吉川経家の銅像が建っているのは、自害して将兵や住民を守ったという人を顕正する碑なのだろう。
「 秀吉は若狭から商船を因幡へ送り込み、米を高値で買い占めさせる一方で、 千四百の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら二千人以上を城に追いやり、 さらに、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止した。 この作戦により、瞬く間に兵糧は尽き、飢餓に陥り、四ヶ月の長期戦の結果、 城将の吉川経家が将兵の助命を条件に自害した。 」
「鳥取城跡附太閤平 大手登城路跡」の説明板がある。
「 大手登城路とは城のメインストリートのことで、途中には二つの重要な門があった。 中ノ御門は御擬宝珠橋を渡った正面玄関にあたり、藩主の入城時などに開かれる特別な門で、 太鼓御門は中心部であった三の丸の入口にあって、時を知らせる太鼓を打った場所でもだった。 享保五年(1720)城内の大半を焼失した石黒大火で、両門とも被災していて、 発掘調査では焼けた石垣や地面が見つかった。 」
この説明板にある「明治の写真」には中ノ御門と太鼓御門が写っているが、
その後壊されたという。
現在、御擬宝珠橋、中ノ御門、太鼓御門、下乗場の復元工事が行われ、完成するのは2022年とのことである。
「 中ノ御門は枡形を備える櫓門で、慶長の大改築以後、大手門になり、
藩主在城の時は門の扉は開かれ、藩主が江戸出府中は閉ざされていたという。
太鼓御門は枡形門で、一の門は櫓門で、櫓の桁行は二十四メートルに及ぶ城内最大級の櫓門だった。
この櫓の楼上で、胴周りが五メートルの大きな太鼓を打ち鳴らし時を告げていた。
この太鼓は1本のケヤキから切り出された兄弟太鼓で、名和神社(鳥取県大山町)、美保神社(島根県松江市)、
賀露神社(鳥取市)に保存されているという。 」
その先に藩主が住む「三の丸」があったが、 その敷地の大部分は「鳥取西高」の敷地になっている。
「 三の丸は池田長吉の時代には侍屋敷だったが、 池田光仲の時代kらは若君の居館や老公の隠居所となった。 享保三年(1718)に城の拡張工事が行われ、藩主の居館が置かれた。 それに伴い、二の丸と呼称が改められたが、 藩主の居館が再び二の丸へ移った幕末には、三の丸の呼称に戻っている。 」
工事をしていたので、先程の歌碑まで戻り、進むと宝珠橋と書かれた橋がある。
その先に「北御門跡」の標柱があり、両側の石垣台は「北の御門」だった石垣である。
「 北の御門は単門で、池田光政が城を大改築前は大手門だったが、改築後に搦手門とされ、 町人が丸の内に出入りする場合はこの門を使用したという。 」
その先の右手にある大正ロマンの建物は「仁風閣」である。
その場所にあった扇御殿は、第十二代藩主池田慶徳により、
文久三年(1863)に宝隆院(第十一代藩主、池田慶栄の未亡人)の為に、
建てられた御殿である。
日本100名城のスタンプは仁風閣に置かれていたので、ゲット。
扇御殿は明治に入ると宝扇庵(扇御殿化粧の間)だけを残し、
他は取り壊されてしまった。
その跡地に建てられたのが、仁風閣がである。
説明板「重要文化財 仁風閣(じんぷうかく)」
「 この建物は明治四十年(1907)五月、時の皇太子殿下(後の大正天皇)が山陰に行啓に際し、
ご宿舎としてもと鳥取藩主池田仲博侯爵によって扇御殿跡に建てられた。
設計は明治建築最高傑作である赤坂離宮の設計者として有名な宮廷建築家片山東熊博士によるものと伝えられる。
フレンチルネッサンス様式を基調とする木造二階建ての本格的洋風建築で、中国地方屈指の明治建築として有名である。
櫛型ペデイメントを主要なモチーフとした端正な正面の佇まいに屋上の棟飾りや階段室の八角尖塔屋根が変化を与え、
背面一・二階吹抜けのベランダは軽快で美しい構成を示している。
内部は御座所、謁見所、御食堂の主要室をはじめとして、一・二階の各室とも室内装飾に意が払われ、
マントルピース、カーテンボックス、シャンデリアなどの細部意匠にも見るべきものが多い。
仁風閣の名は行啓に随行した海軍大将東郷平八郎によって命名されたものである。 」
「仁風閣」の説明板の隣に「名勝宝隆院庭園」の標柱が建っている。
「 宝隆院庭園庭園は、若くして夫を亡くした宝隆院を慰めようと、 池田慶徳が造った池泉回遊式の日本庭園である。 宝隆院庭園は明治維新そして鳥取大震災などにより荒廃を極めていたが、 昭和四十六年(197)から翌年まで復元整備がされ、現在の姿になった。 化粧の間は修復を施され、現在は茶座敷「宝扇庵」として市民茶会などに貸し出されている。 」
仁風閣手前の広場は御馬場だったところだが、
そこから池田光政が築いた鳥取城の「山下ノ丸」が一望できる。
仁風閣の反対側に鳥取県立博物館が建っている。
「 現在、鳥取県立博物館の広い敷地は、
江戸時代には主に三段の敷地に分けられていた。
最も高いところにあったのが城代の住まいである。
城代は藩主が参勤交代で不在の際、城の管理などにあたっていた家臣のこと。
中段の上御厩は藩主の馬を飼育した場所である。
L字状の厩には十六頭の馬が繋かれていた。
堀側には米を納める倉庫などがあった。 」
鳥取城陥落後、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、
天正十年(1582)に豊臣秀吉が天下をとると、因幡、但馬の内、五万石を与えられ、
宮部継潤が正式に鳥取城の城主となった。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍についたため、代わって、池田長吉が六万石で入り、
元和三年(1617)、池田光政が因幡、伯耆、三十二万五千石で入封し、
鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。
説明板 史跡鳥取城跡附太閤平 「 近世城郭としての鳥取城」
「 現在見られる石段で造られた城(近世城郭)の姿は、
天正十年(1582)から嘉永二年(1849)の約二百七十年の間に段階的に整備されたものである。
特に元和三年(1617)に入城した池田光政は、
それまで五〜六万石規模だった城を三十二万石の居城に一新する。
中ノ御門から続く大手登城路や天球丸、二の丸も整備し、
城の主要な部分はこの時に完成した。
城内には幕府の規制で三階以上の建物はないが、
二の丸には創建時最新の建築様式だった 層塔型(正方形の櫓台が築かれ、
上階を下階より規則的に小さくして積み上げた櫓。
初期のものは装飾がないデザインが特長である。) の三階櫓が、
山陰地方で初めて建てられた。
その後の鳥取城は、藩主の生活と藩の役所を担った御殿を中心に増改築されていく。
江戸時代の終わりには二の丸や三の丸が大きく拡張された。
三の丸の南側には凶作に備えて籾を保管する倉庫群が造られた。
鳥取城は、明治六年(1873)に公布された廃城令では存城とされたが、
明治九年(1876)に鳥取県が島根県に編入されると、
県庁所在地の松江市以外に城は必要なしとの観点より、
所有者の陸軍省により、すべての建造物は払い下げられ、
明治十年(1877)から明治十二年(1879)にかけて、
中仕切門と扇御殿化粧の間を残して破却された。
残った石垣は昭和十八年(1943)の鳥取地震で多くが倒された。 」
以下の図は江戸時代の「山下の丸(さんげのまる)の全体図」である。
「
二の丸には鉄御門(くろがねごもん)、御三階櫓、走櫓、菱櫓などの建物があった。
二の丸は江戸初期には藩主の居館が置かれていたが、
居館が三の丸に移った後は本丸と呼ばれるようになったが、
その後、御殿が三の丸に移ると二の丸の呼称に戻った。 」
下左図は池田光政が二代将軍徳川秀忠に提出した普請計画図である。
「 池田光政が、元和五年(1619)、二代将軍徳川秀忠に提出した普請計画図には、 山頂に、二重天守、中腹に既にあった三階櫓などの二の丸の建物群、 中腹から麓には、堀と三つの門、大手道と三の丸、御厩などが建つ予定の石垣が描かれている。 」
その先、右折すると二の丸への登り口で、中仕切門がある。
「 中仕切門は慶応三年(1867)創建された、
後の控柱の上に小さな屋根が乗る高麗門である。
明治以降、唯一現存していた門であったが、昭和五十年(1975)、強風のため倒壊した。
現在の門は同年にほぼ旧態どおりに復元されたものである。 」
門をくぐると左手に二の丸の石垣が現れ、 石段を上ると、その先に左に曲がる急な石段がある。
「
鳥取城は戦国時代から江戸時代を通して増改築が行われたことから、
広大な城域には各時期の遺構が残り、「城郭の博物館」の異名を持ち、国の史跡に指定されている。
鳥取城の改築は、江戸初期の慶長年間から幕末期の嘉永年間にまで及んでいるため、
石垣を注意深く観察すれば
「野面積み→打ち込みハギ→切り込みハギ」 と、
推移した石垣築造技術の変遷を確認することができる。
現在の鳥取城は、豊臣政権下の宮部継潤・長房時代の郭や石垣をもとに、
大改築されたと考えられているため、
安土桃山期の遺構のほとんどは江戸期の遺構の下に埋められている。
直接目にすることのできる安土桃山期の確実な遺構としては、
天球丸下の楯櫓の櫓台下部が宮部時代のものと考えられる野面積みの石垣である。
「山上の丸」の石垣は高石垣ではなく、
二段、三段の石垣を築き上げていく手法なので、
その大部分が宮部時代に築かれたものではないかといわれる。
天守台の石塁は、慶長期の大改築で築き足された跡が明瞭に確認できることに加え、
天守台東方直下から豊臣政権時の城郭によく使用された三つ巴紋の軒瓦が出土するため、
宮部時代の天守台が慶長期の大改築の際に拡張が加えられて使用されたと考えられている。 」
復元された中仕切門 |
急な石段の右側には二の丸の高石垣が聳えている。
高石垣を見上げると、緩やかな角度で積上げている。
野面積みだが、角は算木積みで、ビッチリキレイに削り揃えている。
二の丸への道は、左に右にとジクザクに進み、広場にでた。
ここが二の丸の跡である。
説明板「史跡鳥取城跡附太閤平 二の丸跡」
「 二の丸には江戸前期には藩主が住み、家老などが政治を司る藩主の御殿があった。
鳥取池田家三代目、吉泰の時代に、御殿が三の丸に移され、
享保五年(1720)の石黒大火で全体が焼失した。
御三階櫓と走櫓などは早く復旧したが、御殿は幕末の弘化三年(1846)になるまで再建されなかった。 」
二の丸に入った入口にトイレがあるが、その手前に山の斜面に向かって伸びていくのが登り石垣である。
「 嘉永二年(1849)、二の丸は御三階櫓の西方が拡張され、西北隅に一重の櫓の角櫓と登り石垣が築かれた。
小規模だが、幕末に建造されたものとしては国内唯一の登り石垣といわれる。
角櫓の櫓台は西坂砦群の石垣を掘り起こして築かれたとされる。 」
二の丸跡はかなり広い。
広場の中央には「二ノ丸御殿跡」の標示板があった。
城壁側に移動して左をみると、写真では見えないが、御三階櫓台の手前に石段があり、江戸時代には藩主以外の人が利用する裏御門があった。
その奥に見えるのが高い櫓台の三階櫓台である。
これは二ノ丸三階櫓台で、この上に御三階櫓が建っていた。
二ノ丸の一番外側に一段高く積まれているので、城外から実に目立ったことだろう。
説明板 「御三階櫓」
「 この櫓台には一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。
元禄五年(1652)に山上ノ丸の天守閣が焼失した後は、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、明治十二年の解体撤去まで偉容を誇っていた。 」
先程訪れた中ノ御門跡の「鳥取城跡附太閤平 大手登城路跡」の説明板に、 明治時代の始めに写した「御三階櫓と走櫓」の写真があったので、掲載する。
「
御三階櫓は二の丸の南西隅、市街地に面して建っていた三層三階の隅櫓で、
池田光政による元和の大改築時に建造されたと考えられており、
石黒火事で焼失したあとも、八年後に再建されている。
古写真によれば、黒の下見板張り、瓦葺きで、飾り破風は一切ない建物で、
櫓台の東側に入口があり、階段を上ると一階中央に達するようにできていた。 」
三階櫓台の横に 「三階櫓石垣の修復について」 という説明板がある。
「 昭和十八年の鳥取地震で石垣が各所で崩壊した。
昭和三十四年(1959)、崩れた石垣のうち、
最初に始まったのが二ノ丸三階櫓の修復である。
崩れた部分を復元するため、その周辺も一度解体して、
更に積み上げるという大規模な工事だった。
江戸時代と同じ技術で全工程を人力で行い、工期は七年に及んだ。 」
御三階櫓の櫓台からの眺望はよかった。
山側に石材がゴロゴロしている場所がある。
二の丸の背後にある露出岩盤は、元和五年(1619)から始まった城の大改築の際に
石垣の石材を調達した石切り場跡である。
説明板「石切り場」
「 目の前のがけは石垣を築くために石を切り出した石切り場跡である。
この場所は久松山の中腹から続く尾根があった。
二の丸の敷地を造る際、尾根を切り崩しながら得られた石材で石垣が築かれた。
崖の表面を注意深く見ると、長方形の穴が刻まれている。
これは矢穴といい、矢と呼ばれるクサビを打込むための穴である。
こうした穴に矢を入れ、大きなハンマーで叩き岩を割り、石を切り出した。
鳥取城の石垣の大部分が久松山で産出する石が使われている。 」
その先の一段高いところにあるのは「八幡宮跡」である。
武神の神・八幡神を祀った神社の跡で、境内は巻石垣を応用して築かれている。
右手に行くと「菱櫓」の説明板がある。
説明板「菱櫓」
「 菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形だった。
櫓台には二層の櫓が建ち、一階は四間四方で、二の丸西南隅の三階櫓と東南隅のこの菱櫓との対比で、
鳥取城の風格をあらわしており、明治維新まで偉容を誇示していた。 」
石段を上ってみると、菱形を感じることはできなかったが・・・・
菱櫓の先には「表御門跡」の標示板があり、道の両側に櫓台があった。
「 表御門は二の丸に入る正門で、鉄御門(くろがねごもん)と呼ばれ、
鉄板で覆われた枡形の櫓門である。
藩主のみが利用できた門で、石段があり、二階の櫓に行けるようになっていた。
鉄御門に続いて菱櫓と走櫓が連なり、その先に御三階櫓が建っていた。
走櫓は二の丸の南東隅にあり、御三階櫓とは土塀で連結されていた。
石黒火事で焼失したが翌年に再建された。
二の丸に御殿があった頃は御櫓評定と呼ばれる家老衆の政務がこの中で行われた。 」
このあたりは工事中で先に進むのは困難と見て引き返した。
二ノ丸の奥に赤い鳥居がある。 鳥居の脇の細い石段を上がって奥へ進む。
石段の右下には岩石がごろごろしている。
表門の周辺の整備で、取り除かれたものが置かれているのかも知れない。
少し行くと道が三方向に分かれる。
、
「←二ノ丸 天球丸→」の標識と道標、そして、
「山頂登山口→」「山上ノ丸(山頂)→」の道標が、交差するように建っている。
左側の二の丸からきた場合、そのまま真直ぐ進むと天球丸で、
左折して上って行くと、「山上の丸」へ行ける。
「 山上の丸は、秀吉が鳥取城を直接攻めることをしなかった堅固な山城だった部分である。
天守閣、車井戸、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓などの建物があったことは分かっている。
天守閣は元禄五年(1692)に落雷で焼失し、以後再建されなかったが、
天守台は南北十間五尺×東西十間二尺のほぼ正方形で、城内で最大の櫓台という。 」
当日、季節外れの台風が接近していて、雨が降り出したので、
山上の丸に行くのは断念した。
標識に従い、天球丸に向かってそのまま奥へ進む。
右側は石垣だが、坂を少し上ると開けた空地に出た。
「史跡 天球丸跡」の標柱があり、ここが「天球丸」の跡である。
説明板「天球丸」
「 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、鳥取城の城主となった池田長吉の姉、
天球院に由来する曲輪(平地)である。
若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう)城主、山崎家盛の夫人であった天球院が、
山崎家を去って長吉のもとに寄寓し、
この曲輪に造られた居館に住んだことから名付けられたという。
天球丸には風呂屋御門と呼ばれた門、
東側隅に建てられた三階建ての櫓などがあったことが古絵図などから知られている。
三階櫓は享保五年(1720)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後は再建されることはなかったようである。
幕末には武術の稽古所、御蔵が建てられてたことが記録に残されている。
平成二年からの石垣修理に伴う発掘調査で、古い石垣や石段、三層櫓や御蔵の礎石が発見された。
現在地の地下から発見された石垣、石段は、これまでその存在が知らされていなかった遺構である。
高さは約五メートルで、長吉入城以前に構築された小規模な曲輪をむぐる石垣の一部である。
その後、大規模な曲輪の拡張とともに天球丸の前身となるこの石垣は埋められ、
現在残る曲輪が造られたと考えられる。
発掘調査では瓦、唐津焼、伊万里焼、釘、鎹(k\かすがい)、簪(かんざし)、煙管等の金属製品が出土した。
また、少量であるが、中国、朝鮮半島製の陶磁器も発見されている。 」
今は空地になっているので、想像できないが、天球丸古絵図では当時の姿が分かる。
空地の中央から奥にかけて礎石があり、
少し高くなったところに「時代の異なる建物跡(復元)」の説明板が立っていた。
これによると、
三階櫓の跡に、武具櫓が建てられていたことになる。
説明板「時代の異なる建物跡(復元)」
「 石垣修理(2003年〜2008年)に伴う発掘調査の際に、
重なるように見つかった三階櫓跡と武具櫓跡の出土状況を同質の石材を用いて復元している。
三階櫓は元和十三年(1617)以降に建てられた。
一階の規模は桁行十五間(約30m)梁間四間(約8m)と思われ、
城内最大の櫓だったようである。
しかし、江戸中期の火災で焼失して、再建されることはなかった。
三階櫓が焼失後、その礎石は埋められ、この場所は百年以上の間空地のままだった。
天保十年(1839)に武具櫓が建てられました。
規模は桁行十間(約20m)梁間四間(約8m)である。
外側の帯状の石敷は分厚い土壁を支えるための基礎で、
絵図に描かれたとおり、土蔵であったことが確認された。
ここからは武具蔵に保管されていたと思われる鉛製の鉄砲弾(直径1.3cm)も出土された。 」
天球丸の一番奥から下を覗き込むと、巨大な丸い石垣が見える。
説明板「天球丸の巻石垣(復元)」
「 亀の甲羅状の石垣は、設置された個所の石垣が文化四年(1907)頃に崩れそうになり、それを防ぐ目的で築かれた。
角を持たないことから、巻石垣とも云われ、川の護岸や港の突堤に関わりのある職人が築いたとされる。
こうした石垣は城に用いられる事例は鳥取城以外になく、貴重であることから絵図などを基に復元した。 」
巻石垣を下から見たいと、先程の三叉路まで下ると、表門櫓台の一つの上に出た。
以前は表門の上に木の橋があり、その下に降りて行けたようだが、現在、表門周辺は工事中で、
先程の二の丸表門跡まで戻り、大手道の登城路に出た。
下には鳥取西高の校舎が見えるが、左側にある縦に延びる登り石垣のような石垣の先を左折し、中に入っていく。
ここは天球丸の一段下の曲輪で、江戸時代には天球丸の一段下に藩主のみが入ることを許されていた物見御殿があり、
二の丸や天球丸下の楓園などの絶景を楽しんだとされる場所である。
左側の天球丸の石垣の中に、球面石垣の巻石垣があった。
球状の巻石垣はすごい迫力で、球状の部分の下側ももう一重 丸く抑えこんでいる。
この曲輪の角に「天球丸の構造変遷」の説明板がある。
説明板 史跡鳥取城跡附太閤平「天球丸の構造変遷」
「
平成二年(1990)から平成二十二年(2010)にかけて実施された石垣修復工事と
それに伴う調査により、天球丸の構造変化の様子が明らかになった。
天球丸は山下ノ丸の最高所(標高51m)に位置し、東側に巨大な堅堀で守った軍事的に重要な場所で、
戦国時代から江戸初期までは現在の姿と異なっていた。
天球丸が現在のように広い敷地になるのは、
鳥取藩32万石の居城になる元和三年(1617)から後のことである。
もとの石垣の上に同じ高さの石垣を築くという立体的な手法で拡張されているが、
この手法は全国的に珍しいものである。
当初、三階櫓などが建てられたようだが、享保五年(1720)の石黒大火で焼失した。
その後、天球丸周辺には石垣の緩みやはらみが激しくなり、
補強石垣や盛土によって石垣を保全する工事が行われた。
特に盛土保全は他に類例がない大規模なもので、
江戸時代の鳥取城の姿や石垣の保全方法を考える上で、貴重な発見になった。 」
この場所には櫓跡を示すよな表示があるが、 ここには江戸時代に楯形に曲がった「楯蔵」と呼ばれた小さな平櫓が建てられ、 石黒大火でも焼失せず幕末まで存続したという。
「 楯蔵の石垣には継ぎ足した跡を明瞭に見ることができ、
そこより下部は、宮部時代に造られた鳥取城最古の石垣であることが、
近年の発掘調査で明らかになった。
また、楯蔵のある曲輪一帯は、久松山の湧水が集められ、
カエデが植えられた庭園になっていて、
楓亭とよばれる風雅な建物もあったといわれる。 」
大手道の先は、江戸時代三の丸があったところで、御殿があったところだが、
前述したように今は鳥取西高が建っている。
大手道で帰らず、仁風閣の方に戻ろうと歩くと、二の丸の三階櫓の裏門の石段があり、
「お左近の手水鉢」の説明板があった。
説明板「お左近の手水鉢」
「 近世城郭としての鳥取城の基礎は、池田長吉の時代に築かれた。
この時の工事にあたり、
池田長幸(長吉の子)夫人の侍女(お左近)の活躍はめざましいものだったようで、
このお左近の手水鉢を石垣に築きこんだところ、
難工事だった三階櫓も無事完成したという伝えが残されている。
昭和三十八年この手水鉢と思われる石材が発見され、三階櫓の石垣の修理に際し、
もとの位置に復元された。 」
鳥取城へはJR山陰本線鳥取駅から日交バス「砂丘・湖山方面行き」で約5分、西町下車、徒歩5分で山下の丸、
天球丸から山上の丸までは徒歩で約30分
鳥取市100円バス「くる梨青コース」休日および夏季運行の観光バス「ループ麒麟獅子」では鳥取城の堀端で乗下車できる
日本100名城の鳥取城のスタンプは仁風閣(9時〜17時、月休)、または、鳥取市役所本庁舎1F総合窓口(8時30分〜17時15分、土日祝日休) にて